8.隣にいるよ
……ボクは、怖くて怖くて仕方なかった。
白坂くんのことを……男の子として好きだと自覚した途端に、とてつもない不安が津波のように襲いかかってきた。
ボクが休んでいた日は、どんな女の子と話していたんだろうか?あの西川さんとは仲がいいんだろうか?
ボクのことは……どう、思ってくれてるんだろうか?
噴火するマグマのように、嫌な妄想が止まらなかった。深夜に何度も起きてしまって、その都度涙が溢れて仕方なかった。
ボクは彼から貰ったコーヒーのペットボトルを、蓋も開けずにずっと残しておいた。怖くて怖くて堪らない時に、胸に抱いて心を落ち着かせていた。
(し、白坂くんに……こ、恋人がいたら、どうしよう……)
ボクは真っ暗な部屋の中で、途方もない不安に一人震えていた。
(ボクに差し入れをしてくれるってことは、恋人はいないってことなのかな?でも、可能性はゼロじゃない。それに百歩譲って恋人がいなかったとしても、ボクのことを白坂くんが好きになってくれるとは思えない。白坂くんは優しいから、ボクみたいな人間にも優しく接してくれるだけで、本当はボクに女の子としての価値なんてないんだ。胸もぺったんこだし、スタイルも悪いし、何もいいところがない。こんなボクのことを彼が見てくれるはずがないんだ。恋人にしてもらえるわけがないんだ……)
矢継ぎ早に沸き上がる不安を抱えながら、ボクは唇を噛み締める。
そうだ、自分なんかが恋人になれるわけがない。白坂くんに愛してもらえるはずがない。
「………………」
それで恋を諦められるんなら、どれほど恋愛は楽だろうか。
自分には不釣り合いだ、諦めるべきだと頭では分かっているのに、白坂くんの顔を思い出すと、どうしてもその気持ちがかき消されてしまう。
そして代わりに、身勝手な欲求が脳を支配してくる。
白坂くん、好き。
好き、好き、好き。
もしも叶うのなら、たくさんデートに行きたい。一緒に二人で漫画を読んだり、一緒にアニメを観たりしたい。
キスだってしたいし、えっちなこともしたい。
そして、そして……。
ずっと隣で、笑っていてほしい。
ボクのことを愛してほしい。
ボクのことを、これからも優しくしてほしい。
白坂くん、白坂くん。
ごめんなさい。
ボクなんかが好きになってごめんなさい。
本当に本当にごめんなさい。
「………………」
胸の中に巣くうこの気持ちに、ボクは一晩中振り回され続けた。
……次の日になって、ボクは白坂くんと上手く話せなくなってしまった。
白坂くんからいつものように「おはよう」と言われて、ドキッ!と胸が高鳴ってしまった。
変な冷や汗が止まらなくて、ボクはつい素っ気ない態度を取ってしまった。
好きだって自覚したせいで、彼の顔を見ることすら怖かった。彼にボクの気持ちがバレてしまうんじゃないかと思って、ずっとずっと緊張していた。
そして、白坂くんが女の子と話していないかどうか、ずっと隣で観察していた。白坂くんの態度が変わる人がいるか、ずっと見つめていた。
でもこの日は、運良く女の子と話す場面はなかった。ボクはほっと胸を撫で下ろしたけど、それでも不安は消えなかった。
(こ、恋人がいるかどうかだけでも、な、なんとか知りたい……)
そう、この大きな不安を拭うためにも、白坂くんへ恋人の有無は尋ねたかった。でもそれを訊くということは、ボクが少なからず好意があるのを自白しているようなものだった。
でも、ボクなんかが恋人になれないのは分かってる。だから単に告白しても、意味がないと思った。
そこでボクは、お昼休みにトイレに込もって、参考のために男性向けの漫画を読んだ。
何冊か読んでみると、結構えっちな展開が多かった。パンツが見えたり、胸を揉んだりと、そういう描写が多かった。
(そ、そうだ……男の子は、えっちなのが好きだよね。じゃ、じゃあ……「恋人になって欲しい」じゃなくて、「えっちなことを好きなだけしていいよ」って言ったら……こんなボクからの告白でも、喜んでくれるんじゃないかな)
自分の身体になんて、全く自信がない。それで白坂くんに恋して貰おうなんて、夢のまた夢だ。
でも、性欲を好きなだけぶつけられる奴隷みたいな存在だったら、ボクも……なれるかも知れない。大盛りのカレーをタダで食べれる定食屋みたいな、そういう欲求を満たすためだけの人間に。
いや、きっとボクみたいな人間には……その道しかないんだ。
……ザーーーーー
窓の外から聞こえる土砂降りの音が、仄かに暗い教室の中を満たしている。
ボクはスカートを捲り上げて、白坂くんにパンツを見せていた。
スカートを持つ手が小刻みに震えて、止まらない。真っ赤な顔も、火が出るくらいに熱かった。
「く、黒影さん、な、なにして……」
白坂くんは目を心底驚いた顔で、ボクのことを見つめていた。
その目から逃げるように、ボクは顔をうつむかせた。
おかしなことをしているのは分かってる。でも、ボクにはこれしかないんだ。
「白坂くん、ボ、ボクのこと、好きにして、いいよ……」
「え……?」
「ボ、ボクにいっぱい、えっちなこと、して、いいよ……」
「………………」
「ボ、ボクの身体なんか、他の女の子に比べたら、全然、魅力的じゃないけど、でも、その……し、白坂くん専用の、身体になるから。なんでも、言うこと、聞くから……」
「せ、専用って……」
「ボ、ボクと付き合って欲しいなんて、そんな、おこがましいこと言わないから。つ、都合のいい奴隷にしていいから。そうしたら、白坂くんにも、ボクと一緒にいる、メリットができると思う……」
「黒影……さん」
「だ、だからお願い、白坂くん。ボクのこと、女の子にして……」
「………………」
しばらくの間、長い沈黙が流れていた。
ボクの心臓は、もう限界寸前だった。ドッドッドッと脈打つ鼓動が、身体全体を揺らしていた。きっとボクの身体に近づいたら、その鼓動の音が聞こえるんじゃないだろうか。
「………………」
白坂くんは小さく深呼吸した後、ボクの前まで歩いてくると、スカートを握るボクの手にそっと触れた。
「もう、止めて。黒影さん」
「え?」
「スカートを、下ろして。ね?」
「………………」
ああ……。
ダメ、だった。
これでは白坂くんは、受け入れてくれなかった。
ボクは間違ってしまったんだ。白坂くんの期待に応えられなかったんだ。
「………………」
ずんと沈んだ気持ちで、ボクはスカートを下ろした。
でも、そうか。そうだよね。ボクなんかのことを、えっちな目で見れるわけない。たとえタダで手に入る奴隷だったとしても、いらないものはいらない。
無料で貰えるからって、不味いカレーを食べるか?って言われたら、食べないのと同じ。そうだ、何をボクは自惚れていたんだろう。ボクにそんな価値なんてない。
その事実に、ボクは思わず泣きそうになった。
「……黒影さん」
その時だった。
白坂くんはボクのことを優しく、ぎゅっと抱き締めてきた。そして、すごく優しい声色で、ボクにこう言った。
「好きだよ、黒影さん」
「……え?」
「僕、君のことが、好きだ」
「………………」
「だから、もうそんな風に自分を貶めることは止めて。僕は、ちゃんと君のことが好きだから」
「………………」
……信じられない、と思った。
僕が好きって言われるなんて、そんなこと、本当にあるの?
ああ、もしかして……白坂くん、ボクに気を遣って嘘をついてくれているんじゃないだろうか。
白坂くんはそんな風に気を遣ってくれるくらい、優しい人だから。
「白坂くん、そ、そんな嘘つかなくていいよ。ボクのこと……嫌いなら嫌いって、い、言ってくれていいよ……」
「嘘じゃないよ、本当に僕は、君が好きだ」
「そんな……」
「君は自己肯定感が低い方だから、僕の言葉を信じにくいかも知れない。だけど、僕は本当に君が好きだよ」
「な、なんで……?僕、全然可愛くないし、スタイルも悪いし、お、面白い話も全然言えないし、優しく、ないし……」
「……どうして?」
「え?」
「どうして、そう思うの?」
「だ、だって、他の人はもっと可愛いもの。可愛いし、胸も大きいし、面白い話ができるし、優しいから……」
「……そっか。でもね、僕はそれでも君が好きだよ」
「………………」
「僕は君の……あまりの不器用さに、すごくいじらしいって思えた。不器用で上手く自分を愛せない君が、可愛くて仕方ないと思った」
「か、可愛い?不器用なのが?」
「うん」
どういうことなのか、今のボクには全然ピンとこなかった。だって不器用なのは、単に無能ってことじゃないのかな……?
ボクは確かに昔から不器用で、周りから「どん臭くてイライラする」って言われてきた。だから、不器用なのが可愛いなんて、そんなこと……一度も……。
「黒影さん、僕は実はね、恋愛が嫌いだったんだ」
「え?」
「話すと長くなっちゃうんだけど、恋愛自体にトラウマがあったんだ。だから恋愛なんて、僕はやらない、怖くてしたくないと思った」
白坂くんは僕からすっと離れると、両手をボクの肩に置いた。そして、本当に優しい眼差しで、ボクにこう言った。
「それでも僕は、君に恋をしたよ」
「え……?」
「“黒影さんに幸せになってほしい”じゃなくて、“黒影さんを幸せにしたい”と思った。そして、君がそばにいてくれたら、僕も幸せになれるって思えた」
「………………」
「ずっと今まで、恋はただの独占欲だと思ってた。自分本意な気持ちだと思ってた。でも、本当は違うのかも知れない。お互いのことを幸せにしたいと思う、その心自体が……恋とか、愛とか呼ぶのかも知れない。そんな風に、今僕は思えたんだ」
「………………」
「だから黒影さん、もし君さえ良ければ……僕と、お付き合いしてほしい。僕はこれからも、君の隣にいたい」
「………………」
まさか、まさかそんな。
し、白坂くんから、告白されるなんて。
おかしい。何かがおかしい。こ、これ、本当に現実?ボクの頭がいよいよおかしくなって、夢でも見てるんじゃないだろうか。
「………………」
ボクは右手で、ほっぺたをつねってみた。ちゃんと痛かった。
「どうしたの?黒影さん」
怪訝な顔でそう尋ねてくる白坂くんに、ボクは「あ、えっと」と言って答えた。
「白坂くんが好きって言ってくれるなんて、おかしい。だから、ゆ、夢かなと思って、つねってみた」
「………………」
白坂くんは一瞬きょとんとしていたけど、すぐに顔を綻ばせて「はははは!」と笑った。
「ははは!はは!く、黒影さんってば、やっぱり可愛いな~!」
「え、ええ?」
困惑するボクのことを、白坂くんは優しい眼差しで見つめていた。
そして、右手の平をすっと前に出して、ボクに問うた。
「黒影さん、僕と……お付き合いしてくれますか?」
「………………」
彼の手の平の上に、小さな雫がぽたりと落ちた。
ボクの涙だった。
「ボクでも……いいの?」
震える声で、ボクは訊いた。彼は黙って頷いた。
「本当に、本当に、こんなボクなこと、好きで、いてくれるの……?」
彼はまた、頷いた。
「ボクが、白坂くんの隣にいて、いいの……?」
白坂くんは、もう一度頷きながら答えた。
「君に、いてほしいんだ」
「………………」
ボクは、彼が差し出してくれた手の平の上に、自分の手を重ねた。
その瞬間、もうボクはいろいろ堪らなくなって、声を上げて泣いた。
教室の中に、嗚咽が響いた。さっきまで聞こえていた雨音は、その声にかき消されて、聞こえなくなってしまった。
「……さーて、今日は11月1日だな。早速だが、みんなお待ちかねの席替えをするぞ~」
朝のホームルームで、担任の深津先生が、教卓の前に立ち、ボクたちクラスメイトにそう告げた。
先生の言葉を聞いて、クラスメイトたちはみんな「おおおお!」と感嘆の声を上げた。
「よっしゃー!ようやくお前ともお別れやー!」
「嘘つけー!本当は寂しいくせによー!」
「ちはちゃん、今度は向井くんの隣になるといいね!」
「ちょ!止めてよコハルー!」
耳がキンとするくらい騒がしい声が、教室の中に反響していた。
「………………」
窓の外に目をやると、昨日の雨が嘘のように、清々しいほどに晴れ渡っていた。
雲ひとつない青空で、水彩絵具で塗られたかのように、その青は澄んでいた。
「よーし、じゃあお前らー、一人ずつクジを引けー」
先生は空のティッシュ箱の中にクジを入れて、ボクたちクラスメイトの席を順繰り廻っていった。そのクジには番号が書かれており、その番号と対応する席へと移動することになる。
全員がクジを引き終えると、先生は「よし」と言って、ボクたちに告げた。
「全員引いたな?じゃあ、今から席を移動しろ~」
それを皮切りに、クラスメイトたちは椅子から立って、机を持ち、それぞれの場所へと移動した。
「黒影さん」
その時、ボクは白坂くんから声をかけられた。
「黒影さんは、席どこになった?」
「……廊下側の、一番後ろの席」
「……そっか。じゃあ今回は離れちゃうね。僕は今度、先生のド真ん前なんだ。教卓の、一番前のところ」
「………………」
「まあでも、ね。また隣の席に、きっとなれるよね」
「……うん」
ボクと白坂くんは、しばらくの間見つめあった。そして、お互いにふっと、少し寂しそうに笑った。
「それじゃあ、またね黒影さん」
「うん、白坂くん」
そうして、ボクたちは机を持ち、それぞれの場所へと別れて行った。
「ふう……」
重い机を運び終わったボクは、息を吐いて椅子に座った。
ガタッ、ガタガタ
ふと隣を見ると、そこにはクラスメイトの女の子がいた。その子が、新しい隣の席の子だった。
彼女は一瞬だけボクのことを一瞥すると、すぐに違う方へと視線を切り、前の席にいる女の子へ「やっほーリサちゃーん!」と話しかけていた。
まるでボクなんて、ここに存在していないかのように。
「………………」
でも、今のボクは、全然苦しくなかった。いつもだったら辛くて堪らない場面だけど、でも今日は大丈夫。
「よし、みんな席の移動が終わったみたいだな?じゃあこれから1ヶ月は、この席順でやるぞ~」
新しい席順となったこの教室の中を、ボクは静かに眺めていた。
そして、先生のすぐ前にいる白坂くんの背中で、視線が止まった。
「………………」
しばらく見つめていると、彼は少しだけ、顔を後ろに向いてこっちを見てくれた。
すると彼は、にこっといつもの優しい笑顔を浮かべて、ボクに小さく手を振ってくれた。
ボクもそれに合わせて、小さく手を振り返した。
ボクの隣には、もう白坂くんはいないけれど、心のすぐそばに、彼がいてくれている。
ありがとう、白坂くん。これからずっと、よろしくね。
ボク、君のことが本当に、大好きだ。
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