聖女だけどいらない子

 メリアの評価は浄化の旅を終えたその瞬間に変わった。女神ヴェリーナの威光が彼女を聖女の地位に押し上げた。


 女神という後ろ盾もあり、時の王家はメリアを養女として迎え入れ、メリアは王女となった。元は田舎のよそ者家族の一人が王女だ。

 話を伝え聞いた庶民達はさぞご満足なされただろうと想像していた。


 が、メリアは現状に満足していなかった。

 サービスが足りていないとかではない、ただただ空虚なのだ。


 あの後、女神が降臨して聖女と認定されてからは枕も上がらなかった王のところに連れていかれ、王は女神に平伏してただちに相応の地位と身分を与えると言ったのだが、メリアの行動もその周りの反応も逐一見ていた女神ヴェリーナはちくりと嫌味を言わずにはいられなかった。


『メリアは私のしもべとして活動していたのに、他の人間は怪しい行動をする人間として差別するばかり。仕方ないといえば仕方ないけれど、まさか王家の人間まで短絡的にメリアを批判するとは思わなかったわ。そもそも宝物庫に忍び込めているという時点でただ事ではないと想像も出来なかったなんて』

「そ、それは……我が息子であるハーゲンが向かったと聞いておりますが、彼が何か……?」

『「何と卑しい容貌か、心根の醜さが顔に出ているぞ!」 彼はそうメリアに言ったのよ。事情を知らないとはいえ、ここまでくると言った人こそ品性が問われる台詞ね。兵士達も一緒になって笑うし』

 王は青くなって額を床にこすりつけた。

「お、お許しください。息子は愚かでした。これ以上ないほどの痴れ者でした。けれど私にはもう息子はハーゲンしかおらんのです。王位につくことはあるまいと甘やかして育てていた私が一番の原因です。ですから彼の命だけは……」

『そんな野蛮なことはしないわ。ただこれからは弁えろと言っているの。メリアは何も言わないけど、傷つかないはずがないでしょう。あんな言い方』

「あ、ありがとうございます。女神様に感謝いたします」

『それに今やハーゲンがメリアに年が近い中では、一番身分の高い青年だものね。私はメリアには相応のところに嫁いでほしいと思っているの。じゃないと私の権威まで堕ちるわ』

「は、はい! そのように致します! 何もかも女神様の仰せにの通りに……」


 ヴェリーナとしてはこれから人間界で一番偉い女性となるメリアには相応の所にいてほしいという思いがあった。どうしてもと言うなら平民と結婚するのも反対はしないが、女神自ら選んだ聖女がそれではちょっとしまらないなあという気持ちがあった。


 王はそんなヴェリーナの思惑に気づくことなく、いや気づける余裕もなく、ハーゲンを呼ぶと二人切りになった途端勢いよく頬を叩いた。

「馬鹿息子が! 身分の高い者の言い方ひとつで平民がどうなるかが想像も出来ないとは言わせんぞ!」

「ち、父上……でもあれは、俺も頭に血がのぼって……そもそも全然聖女に見えなかったし! あんな貧乏人姿で一目で見抜けっていうほうが無茶ですよ!」

「言い訳なんぞ聞きたくない! 聖女次第でお前を処刑台に送ることだって可能なんだぞ! だが幸い女神様は慈悲をくださった。お前が聖女と婚姻するのだ」

「え……」

「女神に直接選ばれた聖女の伴侶だ。これ以上の名誉はあるまい」


 王と王太子がそんな調子の中で、王宮の侍女や兵士達はほとんどの者は聖女が降臨されて世界が救われたなんてお伽話みたいねと浮かれていたが、あの現場にいた兵士達は真夏なのに真冬のように震えていた。

 知らなかったでは済まされない。王太子がそう言ったからなんて理屈は通らない。処罰されるのはいつも下っ端だ。トカゲの尻尾切りのように。

 兵士達には家族がいた。家族を守るために、兵士達は「責任を取って自死します。だからどうか家族は許してください」 と遺書をしたためて首を吊った。


 メリアは別に彼らを不敬だと言ったことはない。あの状況を見れば仕方ないことだと思ってる。それなのに彼らがメリアを恐れて死んだというのだ。平民姿を知らない侍女が喜々として伝えに来た。

 地位や身分ってこういうことなんだと実感すると同時に、自分がある意味人殺しになったという事実がメリアの良心を苛んだ。

 確かに心の中ではなんて嫌な人達だと思うくらいはあったけど、だからって死ねとまでは思ってなかったのに。

 思わず女神に訴えると『彼らが勝手にしたことでしょう? 私の選んだ聖女にあんな暴言、どの道罰を与えずにはいられなかったからこれが最善よ』 とあっけらかんと返ってきた。

 ほっとすると同時に、ぞっとした。女神にとって人の命ってそんなものなのだろうか? 神話では誰にでも優しい女神だと聞いていたのだが。

『ええ皆とっても可愛かったわ。でも苦難の旅を一緒にした貴方は唯一無二。特別なのよ』

 そういうものなのだろうか。

 命の価値とは、そうやって決まるのだろうか。



 王の養女となり王女となったメリアには世界中から釣書が舞い込んだ。 

 だがメリアは結婚したいとは思わなかった。独身主義な訳ではない。ただ――。


「何と卑しい容貌か、心根の醜さが顔に出ているぞ!」


 聖女だから周りはちやほやしてくれるけど、実際の自分の評価はあれが正しいんだろう。勘違いしてはいけない。

 女神はあれを暴言だと憤慨していたが、メリアは完全な暴言とは思えなかった。

 世界を救済すれば崇められると思っていた。

 贅沢な暮らしだって出来るかもしれないと思っていた。

 年頃の少女らしく自分だけが特別な世界を夢見ていた。

 もしかしたらお伽噺のように王子様と結ばれることも有りかもしれないと奢っていた。

 どうしてこれで心が汚くないと言えるだろう。承認欲求の化け物と言われても仕方ないような気がしてきた。相手だって選ぶ権利はあるのに。

 救済の目的は卑しいもので、手段はこそ泥所業の繰り返し。ただ女神の加護があるからそう言われないだけ。最近そう思えてきたのだ。


 自尊心をずたずたに引き裂かれて来た少女にとって、自分が悪いからという理由は一番心が落ち着くものだった。


 最近ではハーゲンがやたらと花や宝石やドレスなどを贈ってくるが、メリアはきょとんとした顔をして送り返した。

「こんな無駄はいけません。私のような醜い者には無用の長物です。ドレスだって悲しむでしょう」

 煽りでもなんでもなく、メリアは本気でそう思っているのだ。

 一度目の前で言ったことがあったが、ハーゲンは傷ついた顔を見せた。


 ……ああそうか。王族には面子というものがあるんだ。そんなことにも気づけないなんて、やっぱり私は頭が悪ければ性格も悪い。

 それからメリアは儀礼的に贈られたものを身に着けるようになった。

 ハーゲンは衣装係にそれとなく贈ったドレスを着た時の反応を聞いたが、期待していたものは得られなかった。


「聖女様……メリア様はどんなドレスを着ても笑いません。宝石が縫い付けられた一流の職人のドレスだって、私達侍女がうっとりしているのに彼女はもっと着ていたいという様子もなくさっさと脱いでしまう。女性なら誰だって心が躍りそうなドレスなのに……。誰も言わないけれど、彼女は心が死んでいるのではないでしょうか」


 ハーゲンは悲しくなった。聖女の伴侶に選ばれたと聞いた時は彼女が許してくれたのかと思ったが、それは女神の意向だったようで、彼女としては最初から不本意なのではないだろうかとは薄々気づいていた。

 あの暴言だってついカッとなって言ってしまったけれど、殊更に大げさに言ったもので本心ではなかった。

 王宮で磨かれた今のメリアは誰が見ても美しい。

 だからあの暴言を許してもらいたくて何度も謝罪した。だが……。

「王族が一度放った言葉を簡単に訂正するものではありません」

 地頭が良かったのか、今の彼女は王族以上に王族らしい。あっという間に礼儀作法を覚えて元から王女だったかのように振る舞えている。

「どうしてもと仰るなら許しましょう。ですからこの件には二度と触れないで頂きたいのです」

 許されてはいないと分かる台詞。ハーゲンは悲しかった。


 だがメリアはそれ以上に悲しかった。

 世界救済の旅を終えた時、真っ先に女神に聞いたことがある。両親を生き返らせることは出来るかと。

 答えはノーだった。女神でも出来ないことはあるという。

 そうだろうなとは思っていた。それでもそれさえ叶ってくれたら、聖女や王女の地位も身分もいらないとメリアは思っていた。


 確かに自分を愛してくれたのだたはっきり分かる人間。それは両親だけだった。

 金も地位もいらない、両親さえ居てくれたら、全ての不幸を忘れられる気がした。それが旅の間中ずっと不遇だったメリアの最後の希望だった。


 更にメリアを困惑させる出来事があった。

 故郷から手紙が届いたのだ。数年会っていない学校の教師からだった。

 どうも聖女になったのがよそ者の娘のメリアらしいと聞いて、恥も外聞も顧みず媚びを売りに来たらしかった。


「メリアが出世して先生をしていた者として誇らしいわ! 思い出すわね。教室でよく談笑したこと。皆もあの頃を思い出して寂しがってるのよ。故郷に錦を飾ってもいいんじゃないの? ちょっと最近の貴方は薄情よ」


 メリアは頭を抱えた。よそ者の娘のメリアでも一応学ばせてくれたが、先生を筆頭にからかいの対象にしてきてはっきり言って嫌な思い出しかない。席を離れれば机の上に置いてある物は皆窓の外に投げられ、靴には虫の死骸が入れられた。先生に訴えても「鈍くさいのが悪いんでしょ」 と言われたきりだった。優しい言葉なんて一度たりとも貰った覚えがない。先生達の記憶と随分差異があるが、変な魔法でも受けたのだろうかと心配になった。

 ただでさえ環境の急激な変化で気分がすぐれないメリアだったので、これは多分私宛ではないのだろうと判断して返事を出さなかった。

 するとひと月後に乱暴に書きなぐられた手紙が送られてきた。


「ちょっと! 大人の、しかも先生の手紙を無視するってどういうこと!? 信じられないどんだけ礼儀知らずなの!? よそ者が出世したと思ったけどやっぱりよそ者はよそ者ね。あんたが女神降臨する直前の話がこっちにまで伝わってるけど、王太子があんたをけちょんけちょんに言ったらしいじゃん。ぜっっったい王太子は事実を言っただけよね。だって私達をこんなに不快にさせるんだもん。おまけに恩知らず。よそ者のあんた達でも村に居させてやったのに。もういいわよ性格ブスの恩恵なんていらない! クズに触ったらこっちまでクズになっちゃう」


 検閲した侍女が「何という無礼者達でしょう。聖女様ご出身の村とは仰いますが、そうでなかったら滅ぼしてますよ」 と怒っていた。

 侍女は最もらしく言うが、検閲してるのにわざわざメリアにこの内容を読ませたのだ。それもこれも聖女に取り入りたいがため。こんな分かりやすく悪役ムーブしてる故郷の人間。この人達を貶しながら私達は味方ですよと言えば少なくとも故郷の人達よりは好感度が上がるはず。

 そんなちんけな計算でメリアは自分を傷つける言葉がこれでもかと書かれた手紙を読まされたのだ。見る前に燃やすという判断も出来たのに、だ。真面目に仕事するより自分の好感度アップを選んだのだ。


 だがそんな侍女の見え透いた言葉もメリアの脳には入らなかった。

 ああ、自分が善良という証拠は全然見つからないのに、クズだという証拠は増えていく。やっぱり自分は……。




 メリアはぼーっと城の中庭を歩いていた。周りに共の姿は無かったが、聖女の散歩を邪魔しない程度に離れた位置に数人は待機している。

 メリアは中庭を歩きたい気分だったのだ。中庭には、故郷から贈られたジフェンの花が咲いていた。懐かしい気分に無性に浸りたかった。

 日本の藤の花に似たその赤い花であるジフェンは、中庭の一角を陣取って一際優美な空間を演出していた。

 あの花を家に飾ってみたいと父親に我儘を言って、母親に「虫がくるから駄目よ」 と断られたことが一万年も前のことみたいだ……と感傷に浸っていた。

 そんなメリアに忍び寄る影があった。


 自死した兵士達の家族は聖女に無礼を働いたからだと聞いた。

 だが中には納得できない者もいる。元凶の王太子はのうのうと生きて婚約者にまでおさまっているくせに。どうしてうちの弟が……と思い悩む姉がいた。

 姉には息子がいて、七歳というやんちゃ盛りだった。息子は姉の弟である叔父も好きだったのに、急に会えなくなって「おじさんはどこ行ったの?」 と何度も聞いてくる姿には涙が零れた。

 世界を救った聖女は凄いと思うけど、それとこれとは別と言わんばかりに姉は息子にこう吹き込んだ。「聖女様の不興を買って死ぬことになったのよ。全部聖女が悪いの」

 元は平民のくせに王宮付きの侍女の私より良い暮らしをしている。マナさえ一致すれば私が世界を救ったかもしれないのに。そうしたらきっとあんな平民上がりより上手くやって、弟みたいな犠牲者も出さなかった。聖女聖女言われてるけど死人を出したのは間違いないじゃないか。死人を出しておいて何が聖女か。

 はっきり言ってメリアなんかよりうちの弟のほうがずっと立派だった。要領がよく人に愛される子で、当事者が死んでいるから大きな声では言えないが、あのアッシュベルト侯爵の形見を預かっていたり、その娘の遺品をもらい受けているというのだから我が弟ながらすごい。兵士をしているから狼藉者から助けようとしたけれど間に合わなかったのだろう。死の間際に自分達を助けようとしてくれた弟にあげたに違いないのだ。何故か一族の子でこのたびの天変地異の大戦犯クルトは「両親や妹の事件の犯人を捜して裁いてくれ。遺体から遺品まで盗むような外道だ」 と処刑直前に喚いていたけど。ともかく棚ぼたで聖女になっただけのメリアより弟のほうが素晴らしいのに。本当に聖女は存在だけで腹の立つ。


 そう考えてやまない姉の息子は母親の考えに染まり、ある日母親に連れられて王宮に入った時、聖女が一人中庭に佇んでいるのを見て正義感を燃やした。叔父さんを殺しておいてのんきに散歩なんて。僕が懲らしめてやる!

 背後から忍び寄る。警護の者達はその姿を見ていたが、王城に入る際にボディチェックは受けているし、子供に何が出来るという油断もあった。

 そして子供は聖女の真後ろまでくると――勢いよく股間を蹴り上げた。

 子供の力なので痛くはなかったが、突然のことにぎょっとして振り向いたメリアを見てイタズラが成功したと思った子供はギャハハとメリアを指さして笑った。

「子供に股間蹴られた聖女! 子供に股間蹴られた聖女!」

 大好きな叔父の仇への復讐としては可愛い部類ではあった。

 だがメリアにとって警護の者達が見ている中でデリケートな場所を蹴られるということはあまりの屈辱だった。

 更に悪いことに、その時の警護の者はメリアの感情の無い普段の様子を「元平民のくせにすましちゃってまあ」 と考えているような者しかいなかった。彼らからすれば見下してる人間が恥ずかしい目にあったのだ。ざまあみろと思う者もいたのもしれない。クスクス笑いや忍び笑いがそこかしこから起こる。悪者にはなりたくないが、気にいらない人間を合法的に、更に一方的に攻撃出来るなら喜んでする人間は多い。子供相手にみっともないザマを晒した今のメリアは格好の餌食だったのだ。


 メリアは一瞬子供に怒りの感情が湧いたが、周囲から笑われているのを感じ取ってはたと考えた。

 子供のこんなことをさせられる自分が悪いのでは? 王城だからといって油断していたことも淑女として失格だった。なにより……子供がこんなことをするほど、私は性格が悪いと思われて……。

 メリアがぎりぎり保っていた糸がその時切れた。


 メリアは黙ってその場を去った。その様子に子供は更に増長し「聖女はこれからも俺様がサンドバッグにしてやるぞ! 叔父さんの仇だもんね!」 と意気込んでいた。見ていて何もしなかった護衛達も「子供一人どうにもできないアホな聖女の護衛なんて、もっと手を抜いてもいいじゃん。真面目にやってた今までがバカくせー」 と聖女を侮った。


 メリアはその夕方、部屋に戻るとジフェンで部屋を満たしてくれと命令した。

 親しい侍女は「聖女様が我儘を仰るくらい鬱から回復した!」 と大喜びで飾り立てる。その際にメリアから「シャンデリアからひと房の蔓を垂らしておいて。それを握って眠りたいの。簡単に切れないように繋いでね」 と言うので特に疑問に思わずそうした。故郷にそんな風習でもあったんだろう。


 そうしてジフェンで飾られた部屋でメリアは見たこともないくらいのはしゃぎようを見せた。

「素敵! 素敵! 今夜からぐっすり寝られそう!」

 侍女達は初めて見たメリアの笑顔に涙を浮かべた。よく分からないけれど、急に元気になられて、これでようやく女神様も……。

 笑顔の消えたメリアを見た女神は度々周囲に苦情を入れていた。メリアには分からないように。

『どうしてメリアは笑わないの? ちゃんとやってるの?』

『平民だからって手を抜いてるんじゃないでしょうね。そんなことしたら今度こそこの世界を滅ぼすわよ』

 と言われるたびに震えあがったものだが、はしゃぐメリアを見てこれで女神も満足だろうと胸を撫で下ろす。


 その女神だが、実のところメリアには多大な負担となっていた。

『今日のドレスは青色がお勧めよ。青は私のイメージカラーだし!』

『今日は庭園を歩くといいわ。途中でにわか雨が降って虹が見えるの。図書館に行きたい? もったいないわよ! 私の言う通りにすれば間違いないんだから!』

『あら、今日はトイレの回数が多いのね。さては朝食のフルーツジュースが美味しかったのね? ちょっとそこの侍女達、聖女が好きだからって与えすぎないで』

 最初に女神に関する神話を読んだ時、面倒見て貰ってるのに恩を仇で返すようなことをして! 当時の人間って愚かだったのねと思った。

 だが今はこう思う。当時からこうだったんならそりゃ反旗も翻すわ。四六時中つけまわされてる感じできつい。私のプライバシーの権利はどこ。もう頭おかしくなりそう。そう思う度に女神にそんなことを思うなんてやはり自分は性格が悪いのだろうな……と実感を持っていく自分がいた。

 でも、今日で性格悪い自分はおしまい。だってこの世から消えるんだから! こんなに世界に優しいことはない!


 最後にメリアはハーゲンに手紙を書いて侍女にすぐ渡すよう伝えた。

 手紙にはこう書いてあった。

「実は一目見た時から素敵だと思っていた。結ばれたらいいなあと思っていたから、婚約の話は嬉しかった。ただ貴方の気持ちは知っているから今まで素直に言えなかった」

 ハーゲンは喜んだ。すぐにでもメリアのもとに行きたかったが、今日はもう遅いので明日の朝一番に行こうと決意した。夜中にレディの部屋を訪れるのは大変な失礼にあたる。明日には、ずっと用意していた指輪を持って部屋に向かおう。

 きっと明日の朝からは薔薇色の未来が待っている。メリアが自分を好きで、自分もあんなことをした自分を許す優しいメリアが好きだ。

 明日から幸せになるんだ。


 ハーゲンは知らない。

 あの手紙は、メリアは今までハーゲンにとって良い婚約者でなかったから、最後くらいそうであるように振る舞おうとした結果の手紙であることを。

 良い点をたくさん書いて逝こうとしたが、どう頑張っても一番最初に視界に入った時が一番好感度が高かったことからああいう内容になったのだということも。



 メリアはシャンデリアから垂らした蔓を輪っか縛りにして、それに首をいれ、足元の踏み台を蹴り飛ばした。

 気道が圧迫されていく中で、夢か、走馬灯を見た。


 気が付いたら故郷の実家の古い家の前にいた。時刻は夕暮れで、家の中からはランプの灯りが漏れている。

 誰かいるんだ。瞬間的にそう思ったメリアは急いで扉を開けた。

「お父さん! お母さん!」

 するとかまどの前には母が、テーブルの横には食器を並べている父親がいた。

「お帰り、メリア」

 メリアは泣き出した。

 ずっとこの光景が見たかった。

 故郷を出る直前、仕事から家に帰るといつも真っ暗だった。

 両親がいないという事実を突きつけられているようでいつも悲しかった。

「どうしたの? お腹が空いているの? ならお母さん特製スープを食べなさい」

 王宮で出るような肉の浮かんだスープとは全然違う、しなびた豆と悪くなる寸前の野菜くずが浮かんだスープ。

 でもメリアは今となってはこの世で一番美味しいスープだと思った。

 美味しい美味しいと食べるメリアに父親が「自分のぶんもお食べ」 と皿を寄せてくる。母親が欠けた鍋からお代わりを持ってきてくれる。王宮暮らしを味わったメリアからすると貧乏くさい光景だ。けれど同時にこの世で一番尊い光景だとも思えた。


 世界救済を成し遂げれば、幸せになれると思っていた。

 でも豪華なドレスも食事もメリアを幸せには出来なかった。


 私が感じていた幸せな贅沢は、本当に幸せだった時間は……もうどうやっても味わえない。もう家に灯りはつかないから。――だから、灯りのするところへ行くの。

 メリアは目の奥で火花が散ったような感じがして、それから視界が真っ暗になった。

 誰もいない部屋でしばらくの間、メリアの遺体だけがブランコのように揺れていた。

 



 翌朝、メリアの遺体を発見したのは女神だった。いつも朝一でメリアに会い、午前中いっぱいは一緒にいて午後には帰っていく。これでも女神としては遠慮しているつもりだった。

 苦労を共にしてきたと思っているヴェリーナにとって、メリアは唯一といっていいほどの愛し子だった。だから細かく口を出すし、周りにも注意する。


 その愛し子たるメリアが死んでいる。鍵は内側からかかっているから他殺ではない。

 あんなに大切にしろと念押ししたのに。

 あんなに傷つけたらどうなるか言って聞かせたのに。

 女神は愛し子を傷つけられたという初めての経験からかつてないほどの怒りを覚えた。

 ここは聖女が生きながらえさせた世界だ。その世界が聖女を拒むというなら潔く滅ぶべきだ。その理屈は何も間違っていないように思えた。


 女神が何事か呟くと、段々空間がまるでバグにでもあったかのように崩れていった。


 王族は自分の身体が痛みもなく崩壊するさまを見て奇声をあげながら消えていった。

 侍女や護衛は思い当たる節があったからか、必死に聖女に謝って崩壊を止めさせようとするが、とっくにその聖女はこの世にいないのでどうにも出来ない。

 暴行した子供も唆したその母親も「何故この自分が?」と思いながら消えていった。

 メリアの故郷の人間達も「あんなことくらいで消えなきゃいけないなんて!」 と思いながら消えていった。

 民衆の中でもメリアに悪感情を持っていなかった者は女神の配慮で死んでいくと気づく間もなく消えていった。悪感情を持っていた者は身体が削り落ちていく様を時間をかけて味わいながら消えていった。

 仮にも神が行うにはあまりに惨い所業。


 そんな風に消滅する世界を見て、あのクルトの魂だけが笑っていた。

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