第15話 神様たちの酒宴
文香の耳に、おかしな言葉が飛び込んできた。
「うちがいた屋敷の主人もそうにゃったんだけどねぇ。責任の取れない男と結婚すると、女が苦労するのにゃあ。人間は、男は度胸女は愛嬌って言うけどにゃ、うちに言わせるにゃら、度胸のある女は最高にいい女にゃり。男は、誠実さと世の中を渡っていく社交性が欲しいにゃりよねぇ〜」
だいぶ酔っているらしい。猫語になっている。誰が猫になっているのだろうと話し声の主を見て、文香は愕然とした。
本当に猫が話していた。着物は着ているのだが、顔が猫。お尻から出ている尻尾は、二つに分かれている。
「猫又?」
猫又は、長生きした猫が妖怪になったもの。二本足で歩き、尾が二つに分かれているのが特徴。
さすがは、あやかしの世界。猫又を見ることができたと、文香は嬉しくなる。文香は、動物の中で一番猫が好きなのだ。
だが、喜びが一転。猫又の話し相手を見た途端、凍りつく。
ブヨブヨとした緑色の体いっぱいに、無数の目がついている。百目という妖怪だ。
文香は目を擦った。食前酒がまろやかで飲みやすかったものだから、飲み干してしまった。もしかしたら、酔っているのかもしれない。そのせいで、変なものが見えているのだ。
「あ、お化粧っ!」
左の人差し指を見ると、白粉がついている。目元を擦ったせいで、化粧が落ちてしまった。
そそっかしい自分にうんざりしながら、猫又に目を向ける。
しかし、猫又と百目の姿がない。
「えっ……」
そこにいるのは、三つの顔と六つの腕を持った筋骨隆々の男。正面の顔には、五つの目がついている。
神社に祀られている、金剛夜叉明王そっくり。
文香は慌てて、天を探した。
けれど、部屋のどこにもいない。天ばかりでなく、天音も山成も覚之進も白廉も白沙もいない。見知った顔を見つけられない。
目を擦った、そのわずかな時間で、大広間にいる者たちがガラリと変わってしまった。
大広間は、相変わらず賑やか。集まっている客たちは皆、よく食べ、よく飲み、よく喋る。
どの顔も笑っている。快活な笑いに、豪快な笑い。慎ましやかな笑い。おっとりとした笑い。
皆がこの場を楽しんでいる。だが、顔ぶれが違っている。
文香は、目をぱちくりとさせた。料亭の玄関に飾ってある置物にそっくりの顔を見つけたのだ。
真っ赤な鯛を脇に抱えた男。
つるりとした毛のない頭が長い老人。
打ち出の小槌を持った男。
琵琶を弾いている女性。
顎の白髭が長い老人。
お腹がどっぷりと出た男。
武将のような姿の男。
「七福神?」
文香が発した独り言に、七人の顔が一斉に文香に向いた。
「す、すみません!!」
文香は青ざめて謝罪したが、七人は顔いっぱいに朗らかな笑顔を広げた。
「おっほっほ! 良い宴だ。愉快愉快!」
「気持ちの良い笑い声が天上に届いてな。呼ばれていないが、来てしまった」
「良い気に満ちている。それがなによりのご馳走だ」
「欲深い人間も多いが、娘さんのような人間もいる。人間とは実に面白い」
「本物の結婚式が楽しみね」
「あぁ、待ち遠しいのぅ」
「大天狗殿は、良い娘を見つけて来たものだ。これで天狗の宿屋は安泰だ」
「だいぶ探し回りまして、大変でした」
七人の奥から歩み出てきた男に、文香は息を呑んだ。
真っ赤な顔に、長い鼻。きりりと上がった眉に、力強い金色の目。修験者の格好をし、手には羽団扇を持っている。
文香が思い描く天狗そのもの。
驚きすぎて声を出せない文香の前に、天狗は座った。
「自分は、天の祖父。名を、
「あ……狐の子供たちのせいだと思っていました……」
天王は豪快に笑った。気持ちの良い笑い声に、緊張が少し緩む。
「あの子たちは悪戯好きでね。困った子たちだが、悪い子ではない。代わりに詫びよう。怖がらせて、すまなかった」
「あ、いいえ! 私こそ、すみません……」
天王は大広間を見回した。文香もつられて見る。
「ここに集まっているのは、神様たち。笑う角には福来たるという言葉があるだろう? あれは本当でね。天だけでは、こんなに多くの神様が来ることはなかった。文香さんのおかげだ。ありがとう」
「いいえ! 私はなにも……なにもしていません……」
恥じて俯く文香に、天王はニカっと笑った。
「人間は勉強熱心なのに、人間の持つ力をわかっていない。心の在り方でどんな空間でも生み出せる物凄い能力を、人間は持っているのだよ。この部屋に満ちている喜びと幸せは、文香さんが生み出したもの。良い気だ。だが、寂しくもある。この部屋にずっといると、泣いてしまいそうだ」
天王は、両手のひらを前に出した。
「手を触らせてくれるかい?」
「はい」
文香は天王の手のひらの上に、自分の手を置いた。その途端、体の奥がジーンと痺れた。勝手にぽろぽろと、涙がこぼれる。
「なんで、私……すみません」
どうして泣く必要があるのだろう。相手に失礼だ。
泣き止もうと、息を吸う。けれど、呼吸をすればするほど、悲しくなる。悲哀には底がない。
自分はこんなにも、悲しく、寂しく、つらかったのだと知ってしまう。
耐えていたものがあふれ出し、大粒の涙を流す文香に、天王は慈愛に満ちた眼差しを向ける。
「すみません、すみません……」
「謝らないといけない環境にあったのだな。つらかっただろう。変化の激しい人間の世界は、馬に乗っている者には愉快だが、自分の足で歩いている者には少々きつい。文香さんの魂は物事を丁寧に感じるために、ゆっくりと歩くことを選んだのだ。だから、人より動作が遅くても、自分を責めることはないのだよ」
天王は文香の手を包み込むと、感極まったように言った。
「あぁ、良い手だ。この手には、力が宿っている。人間はこのような手を、神の手と呼ぶ。幸せをもたらす手だ。天と天狗の宿屋を、よろしく頼む」
「でも、私は……なにもできない……」
涙で濡れた顔を上げると、目が合った。
天王の瞳は奥深く、引き込む力がある。だが、怖くはない。瞳に宿っているのは、物事に動じない強さと慈愛と包容。
目を合わせているだけで、癒される。天王の器の大きさに、悲しみも孤独も、つらさも情けなさも、自分を責める気持ちも溶けていく。
文香は、ゆっくりと瞼を閉じた。瞳に張っていた雫がぽろりと落ちる。
瞼を開けたとき、心は決まっていた。
「天様の力になりたいです。助けたいです」
「ありがとう。それを叶える能力が、文香さんにはある。笑う角には福来たるだよ」
天王の目尻が下がる。顔から飛び出ている長く白い眉毛も下がる。
心から喜んでいるその笑顔に、文香も笑顔を返した。
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