第417話 森の走者
「あっれ〜? ここが指定位置なんだが……。菌床見当たらんねぇなぁ」
森の奥地にあった、僅かに開けた空間。岩と苔むした土、僅かに草花が生える一画へ空陸両用車を着陸、駐車したフリーデンは、降車すると同時に辺りを見回すが、目当てのものが見つからず困惑する。
深緑を真紅に染めている筈の菌床がないのだ。
動物……今回の場合は猿に寄生した『珊瑚』も、人間に寄生した際と同じように菌床を展開し、コロニーを作る。
遠征任務を請け負った時に聞いた事前情報では、感染した猿の群れのテリトリー分、つまり小さな町ひとつ分の広さというなかなか広大な菌床があるという話だったのだが、木々も地面も草花も異常なし。感染した痕跡さえない。
「てかそもそも件の猿さえいねぇじゃん。もしや場所間違えた?」
不安になったフリーデンは、端末を片手にマップと位置情報を幾度も確認する。
端末に映るナビは目的地を示す赤い矢印と、端末の位置を示す青い矢印を重ねた状態で表記し、到着地点が正しい事を教えてくれている。
「ナビがバグったか、そもそも入力地点を間違えたか……」
「普段は行かない森が目的地だからって、出発の時に再三確認したじゃないか。だから間違っている筈ないよ、もっと堂々としな!」
ばしんっ!
後から降車したアコニチンに平手で思い切り背中を叩かれ、彼は「う……っ!」と短い悲鳴をあげた。
「場所が間違えてないんならデマ掴まされたって事になるけど……。国連も目を通す依頼でデマぁ? 広い菌床なら現地に行かなくたって衛星から見りゃ一発で判別できるし、しかも森の中なんて『珊瑚』の赤がめちゃくちゃ目立つ。誤情報じゃねぇと思うんだけどなぁ」
「ならば、こちらが到着する前に
冷静な声を挟んできたのは、最後に下車をしたパラチオンである。
「『珊瑚』は人為的に片さずとも、養分が足りなければ自ずと死滅するのだろう? 見た所、俺達以外の何者かが踏み入った形跡はない。既に処分された後、という線は考え難いだろうな」
「こんな自然豊かな森の中で養分不足、ってこたぁまずない。と、思う……。あと菌床の跡地にしたって綺麗すぎる。処分されたにせよ、枯れたにせよ、跡地の地面は痩せるもんだし、枯れ木や動物の死骸とかあるもんだ。けどここはあまりにも長閑なんだよなぁ」
フリーデンの目の前にあるのは密生した樹々、土と苔の湿り気、鳥の囀り、獣の鳴き声、虫の羽音。
人の手が付いていない、それでいて腐臭や濁りなども一切ない、吸い込めば肺の奥がすっと軽くなるような、清浄さに満ちた大自然そのもの。
「うーーん、わっかんねぇなぁ〜。とりあえずラボに連絡するかぁ。あっ、そうだ念の為言っとくけどさ。ここ人気のない場所だけど、万が一民間人を見かけても無視しろよ? 特にパラチオン。今回は旅行じゃないんだ、気を引き締めて……パラチオン?」
フリーデンに呼び掛けられたパラチオンからの返事は、ない。
彼の視線は、木々が密集した彼方へ向けられている。そこにいるのは、木々の隙間を縫うように立つ、一つの人影。
黒服を身に纏い、屈強な体付きをした長身。目深に被ったフードの下から覗く面頬。
遠目からだろうと、見間違える訳がない。
日本のペガサス教団集会所に居た信徒だ。
パラチオンが、勝てなかった相手。
「……!」
確信したと同時に、パラチオンは地面を蹴り上げ駆け出した。
「あっ、おいパラチオン! パラチオン!?」
唐突に、それも無言で駆け出したパラチオンに困惑するフリーデン。その声もパラチオンには届かない。
そのまま瞬く間に森の奥へ姿を消してしまい、フリーデンの視界からいなくなってしまった。
「ちょっ! ここで単独行動とか嘘だろぉっ!?」
姿が見えずともパラチオンの腕時計型電子機器が発している位置情報を辿れば、居場所の特定は容易だ。
しかし人間の脚力で追い付くのは不可能。車で追うにしてもここは森。地上で走らせる事など叶わず、上空を飛ぶ場合は着地場所が限られてしまう。どちらにせよ、接近ができない。
「アコニチン、追えるか!?」
「そりゃ勿論。不本意だけど、その為にあたしがいるようなものだからねぇ。それじゃ、さっさと回収しに行くとしようか」
そう言ってアコニチンは軽く肩を回した後、音もなく地を蹴った。
無駄のない動き。重心を低く、枝葉の間を縫うように、滑るように森を駆ける。足音ひとつ立てないその走りは、まるで生来の捕食者のようだった。
『あんたは待機しときな〜』
すっかり姿が見えなくなった所で、アコニチンから思い出したかのような通信がフリーデンの端末に入る。洗練された動きとは対照的に、呑気さを覚える声音だ。
ウミヘビの中でも抜きん出た身体能力を持つパラチオンが相手であっても、余裕で追い付けると踏んでいるのだろう。
「……本当に大丈夫かぁ?」
それでも不安が拭えないフリーデンは、手持ち無沙汰な事もあり、車の側でそわそわと落ち着きなく身体を揺らすのだった。
◇
その頃、パラチオンは己の鼓動が跳ね上がるのを感じていた。
速さに比例して加速する心拍数。それが恐怖なのか怒りなのか、判別はつかなかった。だが、目の前の存在に対する感情だけは、明確に焼き付いている。
憎悪。
屈辱。
そして、戦慄。
(何故、奴がここにいる……!?)
視界の先、樹木の間に立つその男は、前回の戦いと寸分違わぬ風貌だった。まるで「自分を見付けろ」と、主張しているかのように。
彼はパラチオンが自身の方へ急接近しているのを確認すると、くるりと身体を反転させ背中を見せ、逃走を開始する。
あの日、集会所の地下通路で取った行動と同じである。パラチオンの胸の奥に、苛立ちが募ってゆく。
「待て! 足を止めろ! お前は何故ここにいる! 何を企んでいる! 答えろ!!」
「答える義理などないが……」
怒鳴るパラチオンに対し、走りながら、面頬の男は言葉を発した。息の乱れなど、一切なく。
「ワタシに追い付けたら、考えてやろう」
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