第86話 《パラチオン(C10H14NO5PS)》

 訓練場の2階、シミュレーションルーム。シミュレーターの上空に浮かぶ仮想空間の中の様子を映す大画面ホログラム映像に、一人の男が映っている。

 白衣の裾を短く仕立て腰を少し越える程度の長さにし、前のボタンを止めずに丸見えとなっている両脇に、大きな銃を一丁ずつガンホルダーで吊り下げている男。

 毛先のみ茶色く黒ずんでいる、淡黄色の髪色を持つ、四白眼の鋭い紅色目をした、水銀と同じくらい長身の大柄な男。


『あぁ。渇く、渇く、渇く……』


 彼は喉を掻きむしり、無数の引っ掻き傷を付けるという自傷行為を繰り返している。

 しかしその自傷した傷以外、彼の身体に一切の傷はなく、衣服さえ乱れていない。

 周囲には、彼と交戦しただろう、手足が千切れたり身体に穴が空いたりと重体に追い込まれたステージ5感染者の偽物デコイが転がっている。その状態となればシミュレーターに死亡判定を受け、間もなく粒子となって消えてしまう。


『どいつもこいつもヌルいヌルいヌルい! もっと、もっと雨を降らせろ! 大地を青く染め上げろ!』


 そして再度、仮想敵として現れた感染者へ目にも止まらぬ速さで急接近した男は、感染者の顔を鷲掴むと、トマトでも潰すかのようにぐちゃぐちゃに、簡単に握り潰してしまった。


『猿相手に水銀が出し抜かれた? ニコチンがやられた? テトラミックスが出張った?』


 ダンッ! ダンッ! ダンッ!

 頭を失くし地面に倒れた感染者が死亡判定を受け消えるまで、男はその首のなくなった身体を何度も何度も何度も、執拗に足で踏みつける。

 勢い余って踏み抜く。背中に穴を空けさせる。


『なら今こそ俺様を、この俺様こそ前線に出して然るべきだろうが! 合理性に欠けたクスシ共め!』


 ダンッ! ダンッ! ダンッ!

 感染者が消えた後も踏み続け、コンクリートを想定して作られた仮想空間の地面にヒビを入れ、足がめり込む程の穴を空けてしまう。


『ミックスを使っておいて俺様を使わない理由はないだろう!? 何を躊躇している! 何を怖気吐く! 力が必要なら使えばいいというのに! 手札にあるもの全てを使えばいいというのに! そしてさっさと、さっさと俺様の渇きを満たさせろ!!』


 力の限り叫ぶその姿はまるで、咆哮をあげる獣のようだ。


『……最強は、俺様だ』


 そんな嵐の如く暴れ狂う男の姿をホログラム映像越しに見て、モーズはごくりと息を飲む。


「フリーデン、彼は……」

「《パラチオン(C10H14NO5PS)》。課に入っている中で最も毒性が強い第三課所属の、特定毒物」


 フリーデンは淡々と男の名を、《パラチオン(C10H14NO5PS)》の名を、モーズに告げた。


「毒素の強さだけで見れば、ウミヘビで最強と言っていい」


 ***


 倒れていた感染者達の姿が全員消えると同時に、仮想空間の景色が変換される。

 コンクリートが剥き出しだった廃屋から、規則的に石柱が並ぶギリシャのパルテノン神殿を模した建造物へと。それも今はなき屋根や外壁も復元した、完全体に近い形で。

 パラチオンは四白眼の目をギョロリと動かし周囲を睥睨へいげいする。そして吹き抜け状の神殿の2階廊下、石造りの柵の手摺に腰を下ろして足を組む水銀に気付く。


「あぁ? そこにいるのはぁ〜……最強詐称の水銀じゃないか! 尻尾巻いて逃げたお前が今更来たのか!」

「詐称って、別にボクが自称した訳じゃないのだけれど」


 水銀はパラチオンを見下ろしながら呆れる。


「あくまでボクの実績を元に、そう呼ばれているのよ」

「クハッ! 年増なだけでお高く止まったカマ野郎が! 俺様よりも弱い毒で何をイキっている? 所長に媚びを売る脳しかないのなら、さっさと最強の称号を、俺様に譲れ」

「発言には気を付けなさいな、お子ちゃまが。毒性だけ強くっても勝敗は決まらないって事、身体に叩き込んであげる。……と言っても、ボクの相手はもう飽きたでしょう? 力が有り余っているアンタを相手してくれる子、かき集めてきてあげたわよ。感謝しなさいな」


 ブゥン。

 何人かのウミヘビが仮想空間上に転移された音が聞こえ、パラチオンは不機嫌そうに片眉をひそめた。


「タイマンはしないと? 日和ったのか?」

「アンタこそ、力を誇示する割に多勢に無勢は自信ないのかしら?」

「クハッ! 言ってくれるなァッ!」


 水銀の挑発的な物言いにパラチオンはにたりと不敵な笑みを浮かべ、肉弾戦に入る構えを取り臨戦態勢へ入る。

 そして石柱の裏に隠れるウミヘビへ向け、手の平をくいくいと動かした。


「来い! 有象無象ども!!」


 6対1という圧倒的な人数差があろうとも、パラチオンは戦意喪失するどころか寧ろ闘志を燃やしている。

 そもそも彼は水銀達が来る前から勝手に他所の仮想空間に入って暴れていたのだ、戦えるのならば何でもいいのだろう。また同時に、多人数相手だろうとも渡り合える自信が彼にはあるとわかる。

 逆にパラチオン一人と渡り合える気が全くしないカリウムは、同じ石柱に隠れるタリウムの隣でかたかたと震えていた。


「め〜っちゃ怖いじゃん! 立ち向かうとか無理無理っ!」

「言っている場合スかカリウム! あの人相手にしなきゃ終わらない以上、腹括って行くっスよ!」

「あ、待ってタリウム! 置いてかれるのもっとヤダッ!」


 ダガーナイフを手にし真っ先に石柱の陰から姿を現し、勇敢にもパラチオンに向かっていったタリウムを追い掛け、カリウムもつい石柱の陰から出てしまう。

 しかし迫ってきたタリウムを無視し、一瞬の間に眼前まで移動したパラチオンを前に、カリウムは「ひぇ」と短い悲鳴を上げるしかなかった。


「第二課の小物が出てきた所で、俺様が潤うとでも?」


 防御の構えを取る時間も与えず、パラチオンはカリウムの胸ぐらをガシリと掴むと彼の足が石畳から離れる程に持ち上げ、そのまま2階の更に上、天井に投げ飛ばしてしまった――!


「カリウム!」


 タリウムの焦った声が神殿に響く。

 仮想空間にも適応される重力再現などないかの如く、天井に叩き付けられたカリウムは石造りのそこに全身がめり込み、内臓を損傷しシミュレーターに死亡判定を受け身体か消失。再度、神殿内にランダム転移される事となった。

 パラパラと天井から瓦礫の破片が降る下で、ゴキリと、パラチオンが肩を鳴らす。


「次は、どいつだ?」




 ▼△▼

補足

パラチオン(C10H14NO5PS)

別名ジエチルパラニトロフェニルチオホスフェイト、ホリドールなど


テトラミックスと同じく別表第三『特定毒物』に分類される殺虫剤。

有機リン系殺虫剤の中でも凶悪な、歴史上数多の人間を故意他意自殺他殺関係なく殺めてきた猛毒(神経毒)である。

というか特定毒物の過半数がパラチオンに類する有機リン系殺虫剤。化学式も原子数は違えど成分がほぼ一緒。よってキャラメイクの都合上、他の類似殺虫剤の性質もパラチオン一人に集約させている。

当然だが現在では農薬としての使用は厳禁となっている。民生利用は不可、研究上での使用も役所の認可が必要なレベルの怖いやつ。


外見について

パラチオンは無色または淡黄色の液体。農業用は褐色液体。なので髪色にそれを反映させている。

純粋な結晶は白いので、白眼が多く見える四白眼をしている。

あと紅色の目はパラチオンの類似殺虫剤(特定毒物)メチルジメトンの製剤着色の色から来てる。

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