ep59.「あのクソメガネッ!」

 ミーティングとは名ばかりの昼食、兼、雑談会。

 授業の愚痴やクラスメイトの噂話など、部員たちの会話を適当に聞き流しながらそそくさと昼食を済ませて喜屋武は武道場を出た。


 少し中庭を歩こうかと足を踏み出してすぐ、


「よお」


 背後から声をかけられてぞっとした。


 河合だ。

 喜屋武は背後に立つ河合を振り返り、気まずくなって俯いた。

 昨日は勝手な思い込みとわがままで玖珠と石橋を追いかけまわし、あまつさえ暴力まで振るった。恥ずべき暴挙のその光景を、河合には目撃されたばかりだったからだ。


 武道場と更衣室の建物の隙間で、今もっとも会いたくない人物と二人きりになってしまった。

 喜屋武は壁に後ずさりながら、もごもごと弁明を試みる。


「河合、くん……。あの、昨日は」

「お前ってあそこまでやんのな。はは、俺マジビックリしたよ。お前のこと見誤ってたかも」

「昨日は――」


 ドン、とこちらの体にに掠りそうな勢いで河合が壁を蹴った。喜屋武は視線だけで自分の肘の辺りを見下ろす。

 足が――男の、サイズの大きな運動靴が、自分の体を覆うように伸びている。

 ゾワッと悪寒が背筋を這う。


 ――こわい。


 自分よりも体格の大きな男が目の前に迫っている。胃酸が逆流するような気分の悪さを覚えた。


「ホント使えねえな、このクソヘタレ女が。なんで好きな女一人ねじ伏せられねえかな」

「何、あの、ちょっと離れて……」

「お前さえ上手くやれば丸く収まってたんだよ。なァんであいつにまで手ェ出しちゃうか――な!」

「――ッ!」


 吐き気――違う、みぞおちに衝撃と痛み。

 壁についていた足を折り、河合が喜屋武の腹に膝を叩きこんだらしい。

 突然の暴力に驚愕し、息が上手く吸えなくなって喜屋武はうずくまった。


 軽くむせる喜屋武を見下ろし、両手をポケットに入れたままで河合が前のめりに顔を近づけてくる。


「喜屋武。きゃーん。喜屋武、照、沙っ? お前誰の許可を得て石橋のこと可愛がったわけ? 俺に断りもなしに? ざけんなよお前は大人しく玖珠と乳くりあってりゃいいんだよこのアマッ! ああ? すべきことだけを完璧にやれよ! 余計なことしてんじゃねえ! 何の役にも立ちゃしねえんならせめて邪魔だけはすんじゃねえよ!」


 早口にまくし立てられ、喜屋武は混乱するばかりだった。


「っ? ……? もしかして河合くん、石橋のことが好きなの……?」

「好きぃ?」


 鼻で笑って、河合は喜屋武のネクタイを乱暴に掴んで顔を引き寄せる。

 まるで蛆でも見るような目をして彼は喜屋武を見下ろす。


「はっ、片腹痛い、お前なんかの薄汚ぇ自己愛同然の依存と一緒にしてんじゃねえよ。俺のはもっと崇高で純粋な“愛情”ってやつだ。わかるか、喜屋武? お前みたいに一方的に理想を押し付けるだけの執着とは違う。臆病なところ、情けないところ、姑息なところ、逃げ腰なところ……そういう人として不味いところを全て可愛がって愛してる。今回もそうするつもりだった。それをお前がヘタレてたせいで全部玖珠に邪魔された。――あーあ、あいつが手紙持って待ちぼうけくらって、またいじめのターゲットにされたんだって自覚して怯えるとこ、楽しみにしてたのにな。よりによってマジで告白なんかしやがって玖珠璃瑠葉、あのクソメガネッ!」


 ネクタイを掴むその手に力が入る。

 喜屋武は男に暴力を振るわれ怒鳴られているこの状況がたたひたすらに恐ろしく、歯の音が合わないほど震えた。


 襟に結ばれたネクタイが引っ張られたことで、ブラウスの胸元が引っ張られている。

 ボタンとボタンの隙間から、白い肌と柔らかなふくらみが覗いていることに気づいた河合は、ますます馬鹿にしたように鼻で笑って吐き捨てた。


「だァれがお前みてえな馬鹿女に手ェだすかよ! 自惚れんな、ブスッ!!」


 ぱっとネクタイから手を離され、喜屋武は尻もちをつく。

 河合は激しい舌打ちをして、地面に唾を吐き捨てると踵を返して去って行った。


 その後ろ姿が去っていくのを唖然と見つめ、乱れたブラウスの胸元を両手でかき合わせるようにして震えていたが、喜屋武は頭の中で先ほど河合に言われたことを整理してはっとした。


「……っそう、だ――玖珠さん! 玖珠さんに何かするつもりだ、あいつっ……」


 まだ少し痛む腹を押さえながら、よろよろ立ち上がり、喜屋武は走り出した。


「待ってて玖珠さん……!」


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