ep54.「あなたのその瞬間にも、立ち会ってみたいな……」
迷わず小ぶりな養豚舎の前に駐車し、安斎は一つずつバケツを荷台から降ろして豚舎の中に放り込む。
「こんばんは、みんな。お夜食だよー」
暗がりにごとん、と転がされる肉の塊。その臭いを嗅ぎつけて豚が群がる。
バケツの中の部位も、シートの上に転がしたままだった部位も、トラックと豚舎を往復して全てそこへ放ると、豚は無邪気にむしゃぶりついていた。このまま放っておけば骨まで綺麗にしゃぶりつくしてくれるだろう。
安斎が豚舎を出ると、物音を聞きつけたらしく彼女の祖父が飛び起きてきたところだった。
安斎の顔と、その手に握られた――乾きかけた血がこびりつくバケツを見て、祖父は顔色を真っ青にしてわなわなと唇を震わせた。
「お前、また……」
「こんばんはおじいちゃん。土日だから遊びに来ちゃった」
「ああ、おぞましい……なんてことだ……なんて……」
祖父はぶつぶつと呟きながら踵を返し、住居に使っているログハウスへと引っ込んでいった。
閉じられた扉の向こうから、しわがれ声で念仏を唱えるのが聞こえる。
彼はこの農園を経営するにあたり、何年も脱税を続けていて、その証拠を当時中学生の孫娘に知られてしまった。
だから彼の言うところの“おぞましい”光景を見たとしても、通報などできもせず、こうして震えながら仏に祈るしかできないでいるのだ。
まだ豚が“夜食”の途中だったため、安斎は一度ポケットからスマホを取り出した。
カメラロールから一枚の写真をタップする。同学年の女子の服に顔をうずめる喜屋武照沙の――その姿を四角からこっそり撮影している石橋磐眞の写真だった。
その無感動な横顔を指でそっとなぞり、ふふ、と笑う。
罪悪感のかけらも見せず、冷静に人の弱みを握りしめる異質な存在――。
「あなたのその瞬間にも、立ち会ってみたいな……」
誰に聞かせるでもなくそう呟いて、カメラロールを閉じる。
アプリを立ち上げて天気予報を確認した。雨雲レーダーによればもう数分で雨が降り出すらしかった。
「雨、雨、ふれ、ふれ、あと、何分……」
小さく歌いながら、血のたっぷり入ったバケツをトラックから下ろす。
それを持って農場を真っすぐに突っ切って歩き、フェンスの扉を開いて農園の外へ歩みを進めると、海に面した崖の上に出る。下に浜はなく、海に削られた荒岩が暗い夜の闇にちらちらと濡れて反射するのみだ。
安斎は大きく体ごと振りかぶって、崖の上からバケツもろとも海に向かって放り投げた。
夜闇の真っ暗な海の中に、血が海水と混ざる様子など見えもしなかった。黒が黒に溶けるだけだ。
ちょうどそのタイミングで、安斎の鼻の頭にぽつりと雨雫が落ちる。
安斎は少しむっとした。降り出すのが予報より随分早いぞ……そう思いながら。
小走りで来た道を戻り、農園内へ飛び込む。ポケットのキーケースから取り出した鍵でログハウスの扉を開き、おもむろに上がり込んで声を張った。
「おじいちゃん、少し雨宿りさせてね。予報では一時間後には止むらしいけど、このお天気アプリ信ぴょう性ないんだ。ほんと困るよね……」
祖父の返事はなく、ただ念仏を唱える声のみが続く。
安斎は構わずキッチンへ向かい、ケトルで湯を沸かしながら紅茶の茶葉の入った缶を戸棚から取り出す。ティーカップを二つ取り出し、角砂糖の入った瓶を探りあてたところで湯が沸けた。
二人分の紅茶を入れ、祖母の趣味で買ったというアンティークのトレーに乗せて、奥にある和室へと向かった。
和室には古いクローゼットと三人分の仏壇があり、その前に姿勢よく正座した祖父が、まだ飽きもせず念仏を唱えていた。
室内の小さなテーブルにトレーを置いて安斎は言う。
「はい、おじいちゃんの分。お砂糖は二つだったよね。……ああ、せっかくだしわたしもお線香上げておこうかな」
あくまで穏やかに言いながら隣に立つと、祖父は念仏を止めてぎょっと目を剥いた。
その態度には目もくれず、安斎はマッチに火をつける。
仏壇には穏やかに笑う祖母の写真と、二人がお見合いに使ったという両親の写真が並んでいた。
安斎は蝋燭に火をつけたマッチの火を一度消そうとして、ふと思いつき、
「わっ!」
「ぎゃあっ!!」
いきなり火を鼻先に近づけられた祖父が、悲鳴を上げて後ろに転倒した。その様子を見て安斎は笑いながら、やっとマッチ棒を振って火を消して見せる。
「あはは、冗談だよ。おじいちゃんってば臆病なんだから。――久しぶり、お父さん、お母さん、おばあちゃん。小蓮は元気です」
祖父と同じように正座をして、線香を上げ、りんを鳴らして手を合わせる。
とても、とても穏やかな口調で安斎は言った。
「学校も趣味も友だちも、みんな充実しています」
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