第54話 加害者

「……あれ?」


 次に気づいた時、俺は一人寺の蔵に立っていた。

 まだ夜だった。


 左手も右手もぬめる感触がしたから、持ち上げてみる。壁の明かりが灯っていた。

 見れば、俺の手は鮮血に濡れていた。

 瞬きをして、何度も確認して、そして臭気から血だと再認識する。

 俺は右手に、鎌を持っていた。


 何故こんな物を俺は持っているのだろう――? 嫌な予感がした。それは、被害者になる恐怖では無かった。俺はこの感覚を知っている。加害者になる恐怖だ。


 強姦被害に遭った時、自分は被害者なのだからと、そう……過去にもずっと『被害者』だったではないかと、記憶に鍵をかけて忘れた感覚だ。違う、本当は違う、俺は加害者なのかもしれなかった。冬だというのに裸足の俺は、足の裏にも、土でも木でもなく血の感触を覚えていた。恐る恐る視線を下げれば、その血溜まりには、数珠の玉がいくつも転がり、白い紙人形が沢山落ちていた。そして、寺で飼育されていた鶏が死んでいた。何羽も、そう何羽も。冬の寒さとは異なる、恐怖から、俺の背筋は寒くなったのに、なのに体は熱に浮かされたように熱い。ああ、ああ、嗚呼嗚呼嗚呼、あああああああああああ。俺は、俺は何をした? 時島は? 紫野は? 泰雅は? すべてを殺してしまったイメージに襲われる。残虐な光景が、脳裏を過ぎっては消えていく。


 その時、何かを踏む音がした。

 しかし俺の体は、俺の自由にはならず、俺は鎌を握ったまま、振り返りざまに横に払った。

 肉を裂く嫌な感触がした。


「左鳥、ずっと会いたかったんだ。こんな事を今更言うのは、遅いかもしれないけどな。でもな、言いたいんだ。何度でも言う。俺はお前に会いたかった。ずっと会いたかったんだ。顔を見られて、それだけで良いなんてもう言えない」


 俺は時島の肩を抉っていた。背中には鎌の刃が突き立てられている。誰でもなく、俺の手によって。

 肉や骨の感触よりも、溢れ出てくる赤に、一歩乖離した理性が何かを叫んだ。

 多分俺は、泣き叫んでいたのだと思う。


 しかし耳に入ってくるのは、嗤うような鐘の音ばかりだ。


「好きだ、左鳥」

「時島……」

「これほど本当に、大切に思えたのは、初めてだ。ずっと俺がそばにいる。今度こそ、ずっと」

「時島……っ……」


 その言葉が嬉しかった。一瞬だけ、時島の声だけを、耳が拾った。

 けれど――感情が知っていた。もう俺は戻る事が出来無いのだという事を。

 それが、呪いだ。


 ――呪い?


 ああ、そんなものあるわけがないじゃないか。こんなものはただの俺の嗜虐性の現れだ。俺は自分で自分を結局抑える事が出来無かったのだ。きっと全ては幻覚で幻聴で幻視だ。俺は、とっくにおかしくなっていたのだ。狂気に体を絡め取られているのだ。いいや、それが狂気だと言い訳していただけだ。違う、鐘の音が言ったんじゃない。きっと、俺自身がそれを望んだんだ。鐘のせいじゃない。俺のせいだ。俺が、殺したのだ。そうに違いない。きっと俺は病気なのだ。呪いなんかじゃない。まだ、病気だと言われた方が気が楽だ。


「左鳥、お前は憑かれてるんだ」

「時島、もう良い、もう良いから。そんな慰めは――」

「本当だ。みんな無事だ、状況も分かってる」

「けど、だけど、俺は」


 この鎌を手放す未来が思い描けない。時島の首を切り離すまでは、少なくとも。


「――、――」


 その時、時島が口の中で何かを呟いたのを聞いた。

 俺は反射的に目を見開き、次の瞬間、そこに現れた白い大蛇に鎌を突き立てていた。

 眼前の光景が信じられないでいるのに、掌からは生々しい感触が伝わって来る。


 蛇の体液は、俺がいつの間にか着ていた白装束を濡らしていく。


 けれど立っている俺と同じ程の大きさでとぐろを巻いている大蛇は、微動だにしない。

 全身の力が抜けたのは、その時の事だった。

 鎌から手が離れ、倒れそうになった俺を、後ろから――時島が抱き留めてくれた。


 いつ後ろに回ったのだろう。そもそも俺は、いつから大蛇と話していたのだろう?


「左鳥!!」


 声がしたが、視線を向けられない。その力も俺には残っていなかった。

 そんな俺の口へと、お湯で溶いた粉薬の入る椀を、紫野があてがった。


 咳き込んで吐き出そうとすると、時島に手で口を押さえられた。


「ん」


 苦しくて咳き込もうとしたが、許されない。


 気道に入ったらどうするんだよなんて、場違いな事を思ったのを、きっと俺は生涯忘れないだろう。そこへお教を読む声が響き、緩慢に視線を向けると、大蛇の遺骸を挟んだ場所で、泰雅が読経しながら、闇夜に向かい酒を撒いていた。


 それから泰雅が戻ってくるまで、俺はぼんやりとしていた。焦点が合わない。


「時島さん、片付いたな」

「ああ――住職、か」

「まだ『寺の若いの』だ。紫野さん、薬の方は?」

「もう大丈夫だろうな。意識が戻ったのを見る限り」


 何が起きたのか、俺にはさっぱり分からなかった。




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