第30話 脆い約束


 最近俺は、三日に一回は泰雅の家に泊まっている。ここで働かないかとまで声をかけられた。だが、ライター業がある俺には――……そもそも肉体労働の経験が無い俺には、少々辛そうなので断った。ほぼニートみたいな俺ではあるが。俺が頼まれた寺の仕事の内容は、掃除であり、俺からすると肉体労働だった。大変そうだ。


 なお、泊まっているとは言っても、変な含意は無い。


 あの日は何かの間違いだったのではないか、夢だったのではないか、そんな風に思うほど、俺達の関係は変わらない。時島や紫野との始まりもこんなようなものだったとは思うが、泰雅の場合は――それともまた違う気がした。


 ――俺がここに来るのは、鐘の音が、刻限が迫ってくるからだ。


 今日も泰雅と二人日本酒を飲みながら、俺は生麦酒が懐かしいなと思いつつ、枝豆を食べる。入り浸っていても怒られないのが、田舎の良い所なのかも知れない。泰雅のご両親は忙しそうだが、優しい。周辺には葬儀場は一カ所しかないし、宴会が出来るような場所も一カ所しかないのだが、「もうそこの料理は食べ飽きてしまった」と言って、お土産に貰ってきては、つまみとして出してくれる。おかずをその店では、包んでくれるのだ。透明なパックに入ったままの豚の角煮に、俺は箸を伸ばした。


 その時不意に、虚空を泰雅が見据えた。


「かんじーざいぼーさーつー」

「ちょ、なんだよ急に」

「いや、言ってみただけ。般若心経のラップバージョンって、聞いた事あるか?」

「無いよ」


 そんなものがあるのかと俺は吹き出した。泰雅いわく、お坊さん専門のお見合いサイトもあるらしい。登録しようか迷っていると言っていたが、冗談だと思う。泰雅はこれでいて、結構モテるのだ。多分それは気前が良いからだけじゃない。人柄だろう。


 だなんて考えていたら、急に泰雅が真面目な顔になった。


「なぁ左鳥」

「何だよ?」

「東京には戻らないのか?」

「……」


 俺は静かに、コップに入った日本酒を飲む。ゴクリと音が響いた気がした。


「――東京って言う街はさ、俺一人いなくても何も変わらないんだよ」

「それが? もしかしたら街はそうかもしれねぇけど、人は違うだろ」

「人、か……」


 時島や紫野の顔が脳裏を過ぎっては消えていく。会いたくないわけではなかった。寧ろ久しぶりに話がしたい。そんな気もする。


「ただほら、よく言うだろ? 東京に疲れたって。俺もそれ」

「本当に? そうはとても見えないけどな。悲しい話しだけど、寂しいから俺の所に来てんじゃねぇのか?」

「泰雅に会いに来てるに決まってるだろ」


 多分それは嘘で、泰雅の言葉が正解だった。


「それなら純粋に嬉しいな」

「喜べ喜べ」

「ああ、喜んでる――けどな、俺は怖い」


 泰雅はそう言うと、頭の後ろで手を組んだ。


「左鳥がずっとここにいると思ってて、いきなりいなくなられたら死ねる」

「お坊さんが簡単に死ぬなんて言うなよ」


 二人で笑い合う。そうしながら、俺は何度も嘘を重ねた。この村や土地が好きだとか、些細な嘘だ。そして東京の悪口を言うのだ。泰雅は笑いながら聞いてくれた。作られた空虚な談笑の場のように感じたけれど、それでも泰雅は付き合ってくれた。俺は泰雅のこういう優しさが好きだ。


 その内に俺は酔ってきた。飲まずにはいられなかったのかもしれない。


「――だけどさ、泰雅。約束って脆いよな」

「どうした、急に」

「俺はさ、自分が何を欲しがっていたのか、時々分からなくなるんだ。その内の一つが、約束だったんだとは思うんだ」

「やっぱり東京でなんかあったんだろ? 失恋か?」

「近くてすごく遠いよ。なんか自分が空しい」


 酔いに乗じて歪んだ葛藤が騒ぎ出す。これが俺の慣れの果てだから、最後まで楽しく泰雅と酒でも飲んで、笑って終われればそれで良い。それで良いはずなのに、会いたいと思う気持ちに蓋が出来ない。


「泰雅には会いたい奴っている?」

「もう会ってる」

「誰?」

「お前」


 そう言った時の泰雅の顔は、いつかのように肉食獣じみていた。その瞳に、身が竦みそうになる。ただ――今日の俺は、鐘の音を聞いて眠るような予感がしていた。


 数珠が急に切れたのは、そう考えた瞬間だった。畳の上に、バラバラと音を立てて散らばっていく。


「左鳥、息を止めろ」


 立ち上がった泰雅が、俺の方へとやってきてしゃがんだ。反射的に言われた通りにした時、停電したのか部屋が真っ暗になった。ただ月明かりだけが、先ほどまで泰雅の後ろにあった、即ち俺の正面の障子を照らし出している。そこに――影が、映った。


 ああ……鐘の音が響いてくる。気づけば俺は耳を塞いでいた。

 その内に、いい加減息を止めるのが限界になった時、深く泰雅に唇を貪られた。


「ッ」


 息が、出来ない。きつく目を伏せた時、電気がついた。全身に俺は汗をかいていて、なのに寒気――いいや怖気が這い上がってくる。震えていると、泰雅が俺を抱きしめてくれた。


「今のは、何だ?」


 泰雅の声に、俺は何も言えないままで、ただその腕にしがみついていた。


「数珠が代わらなければ、どうなっていたか分からねぇぞ」


 それから肩をきつく泰雅に掴まれた。


「お前――……何抱えてんだよ?」

「……」


 呪いだなんて、俺は言えなかった。言いたくなかったのではない。何故なのか声にならず、言えなかったのだ。結局その日、泰雅は深く追求する事はせず、俺に新しい念珠とお経が書かれているらしい巻物を渡してきた。そうして就寝する事にした。


 ――並べた布団で別々に眠ったその夜は、鐘の音を聞かなかった。予感は外れた。





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