第28話 儀式
そうして再び、夜が来た。
その日は、夕食前に入浴を促された。しかも、中まで使用人さんがついてきた。これは恥ずかしい、正直恥ずかしい。仮面を付けているのは相変わらず不気味だが、確実に女の人だと分かる。今までの夜に、こんな事は無かった。
――他にも一つ嫌な事がある。俺の体には現在、蛇に締め上げられたような痣があるのだ。不審に思われるだろう。そもそも、これは消えるのだろうか。いや、痣よりも女の人が問題だ。
「あの……外に出てもらっても良いですか?」
「いえ、御流しさせて頂きます。それに、今宵の為に、汚れも取らなければなりませんので」
「いやあの、本当に流すなんてそんな……」
そう言いつつ、『汚れ』という言葉が気になった。なんだろうかと思案していると、使用人さんが袖をまくってから、なんと、なんと浣腸を取り出した……! !? 俺には悲しい事に見慣れた代物ではあるが、思わず咽せた。どういう事だ。
「これで中を綺麗になさって下さい」
「ちょ、え?」
「そちらの木の扉に厠がございます。その後は、お湯で綺麗に」
確かに檜風呂と洗い場の中間には、木製の古びた扉があった。しかしながら、イチジク浣腸を見せられて、俺は呆然とするしかない。その上、もう一方の手には、明らかに栓をするものを、その女の人は持っていた。勿論、後ろの穴への栓だ。冗談ではない。
「お一人でなさるのは辛いでしょう?」
「いえ! 俺は慣れてるんで! 一人で平気です! 完璧に出来ます!」
「え」
動揺して笑みさえ交えながら声を上げた俺に対し、女の人が、焦ったように息を呑んだ。そりゃあ引くだろうな……俺は一体何を宣言しているのだ。絶対に変に思われたと思う。
「そうですか……」
そう言うと、そそくさと女の人は出て行った。仮面越しだったが気まずそうな表情が伝わってきたように思う。
しかし、しかしだ。何故いきなり浣腸が出てきたのだろうか?
これからサナブリという何かがある――らしい。だから、汚れを取る――禊のようなものなのだろうか? だからといっていきなり浣腸を手渡されても困る。俺は悩んだ。すごく悩んだ。結果、時島の事を思い出して、迷惑は極力かけない方が良いだろうと実行する事にした。どうしても切なそうだった表情が頭を過ぎったのだ。
言われた通りに中までよく体を洗ってみた俺が、脱衣所に戻ると、外で使用人さんが待っていた。気まずかったが俺は、着物を無言で着付けてもらった。彼女もまた、気まずそうにしているように思えた。
それから再び、新しい客間へと案内された。今日もまた昨日とは異なる部屋だ。そして夕食が運ばれてきた。視界に入った隣の寝室の枕は、今日も四角い。
今日は時島の姿が無い。
食事が終わると、寝室へと促された。本日も四本の蝋燭が灯っている。燭台は同じものに見える。
それにしても、昨日あんな夢を見た上、体に蛇模様の痣があるのに、果たして眠れるのだろうか?
そう考えていた時、不意に障子が開いて、椿さんがやってきた。
「さぁ、これをお飲みになって」
椿さんは俺に、赤い紙に包まれた粉末状の薬を差し出した。紫野が普段持っている薬の包み紙よりも、表面がつるつるとしている印象的だった。
「あの、これは?」
「体を楽にするお薬ですよ」
「はぁ……」
椿さんは、じっと俺が飲むのを待っている。なんだか怪しげに思えて飲みたくなかったが、飲まないとならない雰囲気を感じた。確かに俺は、いつか時島に言われた通りで、流されやすい性格なのかもしれない。意を決して、薬を水と共に飲み込む。苦かった。
その後椿さんは、少しの間雑談をしてから、扇子を片手に帰っていった。
俺は布団に入った。
恐れていた――眠れないというような事もなく、俺は寧ろいつもよりも早く、まるで暗闇に飲まれるかのように寝入ってしまった。意識が途中で暗転したのだ。
――それから、どのくらいの時間が経ったかは分からない。
障子が開く気配で、俺は目を覚ました。軽く首だけを持ち上げて、音のした正面を見る。そうして息を飲んだ。そこには、昨夜夢で見た大蛇がいたからだ。逃げようと体を起こしたのだが、動かない。少し後退するのが精一杯で、上半身すら満足には起こせなかった。嫌な汗が伝ってくる。
「うあ」
それから蛇に、巻き付かれた。ああ――きっとこれは夢なのだろう。恐怖と困惑に飲み込まれそうになりながら、俺は必死で藻掻こうとした。しかし体が動かない。蛇が俺を締め上げているからだ。その内に、昨日夢を見ていた時と同じように、少しだけ思考が朦朧とし始めた。鈍い痛みはあるのだが、全てが夢なのだと、そんな気がしてきたのだ。実際に夢なのかもしれない。分からなくなっていく。
その時、蛇が長い舌を出して、俺の首筋を舐めあげた。
「ひッ」
ヌメるその感触に、皮膚が粟立つ。何度も何度もその舌は俺の首筋を舐め上げては、それから俺の鎖骨の辺を蠢く。赤い舌がチロチロと動く。舌の大きさは、蛇の体の大きさに比例しているようだ。そのまま俺は、全身を蛇の舌に舐められた。蛇の胴体が俺に巻き付いていて、蛇の頭は、昨晩とは違い縦横無尽に動いている。その度に舌が、俺の体をベタベタにしていく。そんな現実なのか夢なのか分からない狭間の中で俺がクラクラとしていると、不意にわらわらと、今度は小さな蛇が大量にわき出してきた。
「嫌だ、待ッ、止め――ッ」
そして俺は大蛇と交わる事になった。
「助け、助けてくれ! 時島!! 時島ァ!!」
その時勢いよく障子が開いた。
虚ろな瞳を向ければ、そこに立っていたのは時島だった。時島は、素早く四隅の蝋燭を消した。何故そうしたのかは不明だ。だが同時に、蛇は消えた。全て掻き消えたのだ。
「時島……うッ、俺、俺」
相変わらず体が動かないままだった俺が見上げると、時島が苦しそうな顔をした。
すると俺を抱きしめた時島が、俺を押し倒した。
その後のことを俺はあまりよく覚えていないが、時島と体を重ねたのだったと思う。
翌日の朝、俺はしっかりと白い着物を着て、布団に横たわっていた。
体は酷く気怠かった。
おずおずと起きあがると、隣には時島が座っていた。錆浅黄色の和服を着ている。
昨日の事が夢だったのか現実だったのか、俺は聞くのが怖かったと言うよりも、なんだかどうでも良かった。それほどまでに体が怠かったのだ。
「大丈夫か?」
「……うん」
「サナブリは終わった。後は……後、一晩だけ我慢してくれ。蛇は俺に降りた」
「サナブリって、あれ、何だったんだ?」
聞いた俺の声は掠れていた。少なくとも、昨夜泣き叫んだのは夢ではないだろうと思う。
「田植え、苗付け――……時島の家では、種付けの事を言う」
ああ、田植えという意味で合ってたんだ、なんて言う感想を抱いてから、俺は再び眠ってしまったのだった。
その日の夕方頃、俺は改めて目を覚ました。俺は一日中寝室にいたようだった。もう時島の姿は無くて、代わりに、見計らったかのように使用人さんが入ってきた。そして俺は絶食を命じられた。だが、そもそも食欲なんて無い。ぼんやりと体を起こして、開けっ放しの襖から、夕日を俺は眺めていた。赤い花も橙色に染まっていた。そうして夜はすぐに訪れた。今日は蝋燭が灯っていない。
俺が月を眺めていると、時島が一人でやって来た。
「左鳥」
「ああ……何?」
「本当に悪い」
「……ああ、いいや、その……大丈夫だよ」
何を言えば良いのか俺は分からなかった。すると、奥にまわった時島に、後ろから抱きしめられた。頬に時島の髪が触れる。本当は全然大丈夫なんかじゃない。訳が分からなくて泣きそうだった。
「これで最後だから」
「最後……」
まだ何かあるのか……と、俺は気が遠くなりそうになった。俯く。
すると時島が腕に力を込め直した。
俺はその腕に触れながら、小さく頷く。そんな俺に、時島が言った。
「
「産子?」
「蛇神の卵を産むという儀式なんだ。勿論、実際に蛇の卵を産むわけじゃない」
実際になんて無理で当たり前だと思っていると、時島が手を動かした。そして白い球体がいくつも紐で繋がれ連なっている物を取り出した。俺の布団の側に置いてあった筺からだ。表面は、ドロドロとしているように見える。
「これを中に入れて、産めば――出せば、全て終わる」
終わるのか。その言葉だけが正確に理解できた。それで助かるのだ。そう思えば、俺はどこかで安堵すらしていた。
それから俺は球体を内側に受け入れた。
「左鳥」
それから名を呼ばれ、顎を掴まれた。時島の唇が降ってくる。薄いその感触に吐息した時、舌が入り込んできて、口腔中を貪られた。舌を絡め取られて、甘く噛まれた。それだけで全身が疼く。唇が離れた時、俺はそれまで以上に肩で息をしていて、唾液が繋がっているのを確かに見た。時島が、その直後俺の耳元で囁いた。
「産め」
小さい声だったのに、はっきりと俺には聞こえた。
そして俺には、それが当然の事のように思えた。今思えば不思議だが。
「左鳥、神産みだ。これだけだ、これだけだから」
安心させるように、時島がそう言うと再び俺を抱きしめた。何度も頷きながら俺は泣いていた。
出て行く度に、俺は体の中から、何か大きな力が抜けていくような、そんな気分になっていた。何かが俺から抜かれた感覚だった。
「後は改めて清めるだけだ。これで儀式は全て終わる」
その後俺は時島に抱かれた。
翌日、目を覚ますと、不思議な事に、体も意識もすっきりとしていた。
これまでの人生で、一番爽快な目覚めだった。
昨日の事も、まるで全てが夢だったような感覚でいると、見慣れた私服姿で時島が入ってきた。
「帰ろう。出来たらその前に、父親に会ってもらえないか?」
「分かった」
すぐに俺は頷いた。時島は、来た時に着ていたの俺の私服を持っていた。どうやら洗濯してくれたらしい。受け取って着替えた。
――時島のお父さんは、自宅で看取るのだという。
奥の座敷へと通されると、お父さんが横になっていて、傍らには和服姿の椿さんが座っていた。
「昴の伴侶か……」
俺は、「いや、そう言うと語弊があります」と、言いかけて止めた。確かに俺は、蛇神様とやらの伴侶に選ばれたらしいが、その言い方では、俺と時島が配偶者みたいに聞こえる。日本には、同性の結婚制度は無い。
「昴は昔から悪戯ばかりしておったな……だが、悪い子ではないよ」
「父さん、一体いつの話を……」
時島が辟易したような顔をすると、布団の中でお父さんが微笑した。ただ目の下には厚い隈があり、顔にも黄疸が出ていた。一目見て、先は長くないのだろうなと俺にも分かるほどだった。それでも普通に話をする時島を見ているのが、何となく辛かったが、俺もまた笑みを浮かべた方が良いような、そんな気がした。俺が心配してどうにかなる話ではない。それよりも、元気な時島の話をしようと思った。
「時島――……その、昴君は、いつも料理をしてくれたり、洗濯をしてくれたり、すごく良い奴です」
「左鳥、お前も何を言ってるんだ……」
「そりゃあもうお嫁さんに欲しいくらいです! きっと良い旦那様になりますよ!」
これは本心である。時島は、几帳面に家事をするし、料理も美味い。
時島は何せ家事が万能だ。勿論俺は家事能力ではなく、愛で配偶者は選びたいが。それこそ美人だったら文句なしだけれども。
「仲の睦まじい二人になれそうね」
クスクスと椿さんが笑った。冗談が通じて良かったと俺はホッとしたものである。
それから暫く大学の話をしてから、俺達は帰る事になった。
来た時と同様に、玄関から庭先まで、白い仮面の使用人さん達が並んでいる。来た時と違うのは、椿さんが見送りに出てきてくれた事だ。
そして――俺の耳元で囁いた。赤い扇子を閉じながら。バシンと音がした。
「お気をつけて。蛇神様は執念深いから、例えどんなに離れようとも、どこまでも追いかけて、決して貴方を離しはしないわよ」
少しだけ背筋が寒くなったが、俺は曖昧に笑って頷いた。
それから黒塗りの車に乗り込んだ。山道を走り出して暫くした頃、時島が俺を見た。
「今回は、悪かったな」
「本当だよ」
俺は深々と溜息をつくしかない。一体何だったのか、訳が分からないのは変わらない。
ただ、時島と一緒に帰る事が出来るというのは、幸せな気がした。
そうして鈍行に乗る頃には、俺の意識は完全に、日常に戻りつつあった。
「なぁ、怖い話でもしないか?」
時島の方はそれまで無言だったのだが、俺の声に、目を瞠った。
それから小さく笑った。俺は時島のこの顔が好きだ。
「そうだな。何か面白い話があるのか?」
「あー、今の所、俺には無いかも」
「じゃあ俺が何か話してやるよ。紫野の専売特許みたいになっているからな」
確かに紫野は、怖い話を頻繁にしてくれる。たった数日の出来事だったというのに、紫野の事が懐かしく思えてきた。
「ああ。期待するからな――なぁ、時島」
「なんだ?」
「帰ったら、パスタ作って」
「――何が良い? 味は」
「そうだなぁ……ミートソースとか。あとは、ものすごく肉類が食べたい」
「そう言えば冷凍庫に鶏肉があったな」
そんなやり取りをしながら、新幹線に乗り換える駅まで着いた。
俺は最後にA県の駅で、周囲の風景を見回した。
もう来る事は無いかも知れない。ただ、なんとなくまた来る気もする。
俺達はその後、新幹線に乗り、無事(?)に東京へと戻ったのだった。
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