第19話 過食

  次第に夏の気配が近づいてきた。


 この日俺の食欲は、おかしかった。今日は時島がいない。俺はエビカツパンとヒレカツパンを買ってきた。紫野も遊びに来ないという。二つのパンを食べてお腹がいっぱいだと思うのに、俺はさらにオムライスを作った。それも食べた。その後はパスタを食べた。


 ――気づけば俺は、冷蔵庫の中身が空になるまで食べていた。

 我に返ったのは、帰ってきた時島に肩を叩かれた時の事である。


「あ、俺……」

「つかれてるんだよ」


 思わず頭を抱えた時、不意に嘔吐感が襲ってきた。気持ち悪い。勿論、食べ過ぎだ。俺は全てを吐いてしまいたくなり、気づくとトイレに走っていた。


 ――出てきたモノを見て、俺は目を見開いた。


 そこには大きな溝鼠がいたのだ。


「時島、時島!!」


 すぐさま引き返すと、時島が立っていた。そして俺へと歩み寄る。俺はトイレの中を指差した。


「これ、これ!!」

「鼠だな」


 そんな事は分かっていた。問題はそれが俺の口から出てきた事だ。

 何事も無いように、時島はトイレの水を流す。呆然と俺はそれを見守っていた。

 それからコタツのある部屋へ戻り、時島が大量の食材が入ったビニール袋を見た。買って帰ってきたらしい。それを手に、時島が冷蔵庫へと向かったので、俺も後を追う。


「俺が食べちゃうって、予測してたのか……?」

「昨日の野菜炒めで、冷蔵庫の中身は空になっただろう」

「あ」


 では、俺は何を食べていたのだろうか……?

 全身に怖気が走った。気づけば俺は座り込んでいた。再び気持ちが悪くなってきた。


「何も憑くのは、人ばかりじゃないからな」

「え?」

「本当、左鳥はどうして、そんなに取り憑かれやすいんだろうな」


 淡々と言いながら、時島が食材を冷蔵庫にしまい始める。直接憑きやすいと言われたのは、久しぶりの事だった。


「本来なら、こういう時こそ、紫野の薬が効くんだ」

「そうなんだ……」

「すぐに呼んだ方が良いと言いたい……ただな」


 不意に時島が、俺の正面に座った。そして両手で俺の頬に触れた。

 少し上を向かされて、顔を覗き込まれる。


「お前と紫野を二人にしたくない」

「え……?」


 真剣な顔でそう言われた。黒い時島の瞳に、俺が映っているようだった。

 ――あ、キスされる。

 そう思った瞬間、インターフォンが鳴った。


 慌てて立ち上がってから、俺は、片手で両目を覆っている時島を一瞥した。……。なにか声を掛けようかと思ったのだが、俺の口からは何も声が出てこなかった。なのでそのまま玄関へと向かう。


 するとそこには、紫野が立っていた。


「よ」


 紫野はそう言った後、何故なのか息を呑んで、俺をまじまじと見た。


「……――何かあっただろ」

「え?」


 溝鼠の事を一気に思い出して、俺は顔を背けた。しかし紫野の言葉は俺の予想とは違う方向に進んだ。


「色気がすごい――相手は、時島か?」

「な」

「……少なくともお前、誰かとヤっただろ」


 溜息をつきながら、靴を脱いで中へと紫野が入ってきた。どうして分かったんだろう?

 そして定位置に座りながら、何故なのか時島に向かい目を細める。時島も視線を返していた。俺は自分の場所に座り、二人を見守る。気まずいような沈黙が、そこには横たわっていた。


 先にそれを破ったのは時島だった。


「左鳥に薬をあげてくれ」

「ああ。見れば分かる」


 紫野はそう言うと、鞄から、いつか見た品によく似た紙包みを取り出した。

 受け取った俺は、麦茶で素直にそれを飲む。トイレで見た溝鼠の、長く太い尻尾を思い出して吐き気がした。

 その間二人は、難しい話をしていた。


「俺は、時島と、友達でいたい」

「俺も紫野とは、今の関係でいたい。俺も友達だと思っている」


 いいや別段、難しくはないのかもしれない。だが、どうしてこんな話を二人がしているのか、俺にはよく分からなかっただけだ。何故二人が友情について語り始めたのかが、俺には理解出来無かったのだ。


「ただ……いくら紫野が相手でも、渡す気はない」

「俺も諦めきれない」


 何か俺があずかり知らない宝物の話でもしているのかと思いながら、静かに俺は麦茶を飲んでいた。なにやら、以前黒いモノが出てきた部屋には、様々な『宝物』と呼ばれるモノがあって、何かを閉じこめていたりするらしいのだ。あの後、少しだけ聞いたのである。


 麦茶を飲んでいると、胃が落ち着く気がする。その内に薬が効いてきたのか、俺の体が少しだけ弛緩した。それから俺は眠ってしまったらしい。


 目を覚ますと、もう紫野は帰った後のようで、時島がパスタを茹でていた。


「俺は好きなんだ」

「俺もナポリタンは好きだよ」

「かわすな」


 まだ頭がぼんやりしていたので、食後再び俺は、眠ってしまったのだった。




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