第16話 上書き
それから、五日が経過した。
――最近は、お腹の調子が良い。
そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。
「紫野が来ると言っていた」
「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」
俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。
それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。
「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」
ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。
「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」
確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。
「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」
強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。
俺の表情に、紫野は察したようだった。
「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」
「だよな」
俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。
「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」
「ん? 何?」
「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」
「ああ……」
紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。
――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。
「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ」
「……俺、考えたんだよ。左鳥の事だし、気にしないでなんていられない」
「何を考えたんだ? 警察に行くとか?」
「違う」
そう言うと、俺の隣に座っていた紫野が、ずいと身を乗り出した。そして膝で立って俺の顔を覗き込んできた。
「上書き、したら良いと思う」
「上書き?」
どういう事だろうかと、僅かに仰け反りながら、俺は問い返した。距離が近い。
「その――だから、SEXするんだよ。男と」
「は?」
「それで、それが例えばそれが善かったら、嫌な記憶も上書き出来るんじゃないか?」
「何言ってるんだよ……」
考えただけで震えが走った。驚いて紫野を見る。すると紫野は、非常に真剣な顔をしていた。
ただ確かに、紫野の言っている事は、一理あるような気もする。我ながらおかしいとは思うのだが……根拠めいたものもあったのだ。それは、時島との関係だ。一度時島と体を重ねて以降は、男と二人でいる時の恐怖が少し和らいでいる気がする。例えば今も、こうやって密室で、紫野と二人でも居られるようになった。昔は、鍵がかけられたら、絶対に無理だった。最初に時島が俺の家にやって来た時も、サークルの誰かが来た場合も、その性別が男で、二人きりの状況ならば、必ず俺は鍵を開けていたのだ。ただ……場所が、この部屋だからなのかもしれないが。何故なのか時島の部屋は安心するのだ。
「もしも、だ。俺で良かったら――」
「おい! 待ってくれ、紫野。何だよそれ。お前、好きな奴がいるんだろ?」
「……左鳥って鈍いよな」
そう言って溜息をついた紫野は、体勢を直すと鞄から、和紙の包みを取り出した。三角形におられている、小さな袋を見る。
「何それ?」
「俺の実家は、N県なんだけどな、そこにも『薬売り』がいるんだよ」
「薬売り?」
「これは体の力を抜けさせて、頭をぼーっとさせる効果がある」
「何でそれを、今ここで取り出したんだよ?」
「左鳥。俺はお前を楽にしてやりたいんだよ」
中に入っていた二つの錠剤を手に取ると、紫野が俺に差し出した。何とはなしに受け取る。すると紫野が、麦茶のコップを手に取って、俺に渡した。そちらも受け取る。
「飲め」
「なんで……?」
「必ず、楽にしてやるから」
俺は何度か瞬きをしたのだが、相手は紫野だ。信頼できる友達なのだ。それに薬だというのだから人体に害は無いだろう。そう考えて、思い切って飲んでみる。特に深く考えていなかったのだ。
「飲んだぞ。それで? これと、さっきの話が、どう関係するんだよ?」
「ああ。さっきの話――上書きだ」
「……上書きね……だけど、考えたくもない」
紫野に対して、俺は首を振った。
「お前さ、痛みとか恐怖とか、そう言うのと、抱かれるっていうのをセットで考えてるから、悪夢を見るんじゃないか? 俺はそう思うぞ」
「それは、まぁ」
「だったら、痛くなく、怖くなく、つまり優しく抱かれるんだったら――って考えた事は無いか?」
「だって相手は男なんだろ? あるわけがないよ」
俺が半眼になると、紫野が身を乗り出すようにして続けた。
「男同士だって別に良いだろ……いやその、これは俺がその……好きな相手が男だから、そう思うだけかもしれないけどな……でもな、男女だって後ろでする奴らもいるだろ?」
そう言う問題なのだろうか。しかし否定したら、紫野を傷つける気がする。
――その頃からだった。
段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。
「そうだな……いるな」
朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。
「だろ?」
俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。
「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」
そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。
「力、抜けてきただろ?」
「ん……」
その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。
そして――……次に気づいた時、紫野の指が俺に触れていた。
思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。
こうして気づくと俺は紫野と体を重ねていた。
「何でこんな事……」
「これからは、こっちを思い出せよ」
「答えになってない」
「……善く無かったか?」
「ッ」
多分俺は、気持ち良いと思っていた。だけどその事実は、俺にとっては絶望的だった。気づけば、音もなく涙が垂れていく。紫野は、そんな俺の頬に触れ、涙を拭ってくれた。
「善いと思ってもらえたんなら俺は嬉しい。気持ち良いのは体の自然な反応なんだよ。痛い方がおかしいんだ」
「自然な反応?」
「ああ。だから本当に、左鳥は何にも悪く無いんだよ」
それから俺は抱きしめられた。紫野の体温は、俺よりも高いみたいだった。
暫くそうしていると、俺の呼吸が落ち着いた。俺は額を紫野の胸に押しつけたまま、静かに口を開く。
「……シャワーを浴びてくる」
「ああ」
俺は紫野を置き去りにして、浴室に向かった。
紫野が言った、『自然な反応』という声が胸に染み入ってきて、頭からシャワーをかぶりながら、本当にそう思って良いのだろうかと、また泣いてしまった。涙はシャワーと共に流れていく。
まだ頭が若干ぼんやりとしているせいなのか、不思議と嫌悪感は無い。
けれど気づけば俺は全身をくまなく洗っていたし、弄られた中にも恐る恐る指を入れ、懸命に洗っていた。
その後、何でもない顔で、俺はシャワーを終えた。すると紫野が麦茶を出してくれた。
「上書き、出来たか?」
――先ほどの出来事も、流してしまいたかったのだが、紫野はそれを許してくれなかった。
「……多分、な」
俺はそう答えるので精一杯だった。
時島が帰ってきたのは、それから三十分後の事である。
その日の夜、俺は時島と二人で、夕食をとっていた。
紫野は手際よく持参していたアロマオイルを焚いたまま、時島と入れ違うようにして帰っていった。俺の事を気遣ってくれたのだとしても、計画的犯行だったよなぁと考えてしまう。同時に、これは――時島には相談してはならない話だと思った。
俺は別の気になる紫野の話を、時島に聞いてみる事にした。
「時島は紫野が、『薬売り』だって知ってた?」
「ああ。紫野の家は、有名だからな」
「そうなの?」
「どこまで聞いた?」
「N県の『薬売り』って話だけ」
「そうか。なら、それ以上は本人に聞くべきだ」
時島はそう言うと、白米を食べ始めた。俺もそれに倣う。
箸を持ちながら考える。時島が『視える変人』として名を馳せているのは知っている。そんな時島のように、紫野もまた――視えたり視えなかったりはするものの、何かしら力があるのだろうか?
「何か飲まされたのか?」
「ッ……べ、別に?」
「なら良い。ただ、アイツの薬には、『力』があるから、無闇に飲むなよ」
俺は思いっきり動揺した所を見せてしまったが、時島は深くは触れてこなかった。
食事をしてからお互いに歯磨きをして、定位置のコタツの前に座る。
すると卓の上で、時島が頬杖をついた。
「左鳥」
「ん?」
「まだ怖い話を集めてるのか?」
「ああ、一応……」
「だったら、良かったら二人で出かけないか? 俺の知っている場所に、山神地区という場所があるんだ」
時島からそんな事を言われるのは初めてだった。なお、山神地区というのは仮称である。俺はこの時紫野との事もあって、気分転換をしたくなっていた。なので、大きく頷いた。紫野は誘わないのかと、普段なら聞いただろうが、そうする気分では無かった。
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