天使に血はないけれど、

赤崎弥生

Prologue

壊れかけの天使

 人は死ぬと、天使になる。天使は死ぬと、地上に堕ちる。天使の死骸は人間の手で、再び天界へと送り返される。

 それは、この世界の住人であれば幼子であっても知悉しているはずの摂理だった。しかし青年には、その自然の営みが不満に思えてならなかった。明らかに二度手間だからだ。どうせ死ぬなら、地上じゃなくて天界でくたばってくれればいいのに、と。そう感じずにはいられない。

「ま、その二度手間のおかげで飯にありつけているわけだが」

 常闇に閉ざされた街の中、ランタンの橙色の光を腰に灯して歩いていた青年が、独り言と共に足を止めた。青年は足元へと視線を落とす。そこに転がっていたのは、天使だった。四肢がもげ、頭と首と胴体と翼だけの姿となった、見るも無惨な天使の亡骸。

 青年は腰につけたランタンを薄汚れた路面に置くと、天使の前にかがみ込んだ。死骸を持ち上げ、腕と脚の付け根にある断面をランタンの明かりで照らす。切断面から垂れる半透明のチューブの束を、青年は顔色一つ変えずにぐいぐいと内側に押し込んでいく。垂れたまま持ち運ぶと、途中で千切れてしまうことがあるのだ。

 素手で天使の遺骸に触れる。それは、この世界のほぼ全ての住人にとって、恐れ多いことだった。人一倍信心深い者であれば、目眩を覚えて卒倒してもおかしくはない。しかし青年の相貌に、畏怖や崇敬などの感情は浮かんでいなかった。青年は腰元に結わえ付けていた袋から赤色の長布を取り出すと、それで天使の胴体をグルグルと巻いていった。荷物の梱包でもするかのような、乱雑な手つきだった。

 布を巻き付けた天使を背負い、落下地点から去る。本来なら、事態はそのように進行するはずだった。しかし青年のルーチンワークは、予期していなかった何者かの乱入によって中断させられた。

「――待って!」

 ガス灯のぼやけた明かりが象る薄闇の路地の向こうから、誰かが走り寄ってくる。青年は即座に立ち上がり、腰に括り付けたナイフの柄に手を添えた。同時に情報収集を開始する。背丈は一五〇ないくらい。性別は女。それも、十歳くらいの子供だ。ボロ布で出来たローブで全身を隠しているが、足元や走り方を見れば大体の身体つきは見て取れる。

 少女が、青年の目の間で足を止めた。少女の首は青年の腕の可動域に収まっている。青年がその気になれば、彼女の頸動脈は一秒と経たずに切断されて、鮮血を撒き散らすことだろう。

 青年は、三十センチほど下方にある頭に対し、何の用だ、と問いかけた。

「その天使を、譲って欲しいの。勿論、そのぶんのお金は払うわ。貴方の言い値で構わない」

 少女の口ぶりは思いのほか毅然としていて、青年は少し意外に感じた。けれど彼の口から出た返答は、「断る」という至極冷淡なものだった。

「どうして。貴方に損をさせるつもりはない。お金ならいくらでも払うわ」

 少女の声に微かな当惑が滲んだ。一方で青年は、胸の底に苛立ちが渦巻くのを感じた。

 金さえ積めば、貴方達は何だってするのでしょう? そう言われているようで、癪だった。

 金のために強盗に入り、射殺される者。金のために身体を売って、性病で命を落とす者。中心街には、そんな人間が腐るほどいる。けれどその真実を、少女のような人間に突きつけられたくはない。あんたらは人間じゃなく犬なのだ、と。そう言われているような気分になるから。

「お前、どこの家の人間だ」

「……家族なんていないわ。ここに住む人間は、誰だってそうでしょう?」

 青年はナイフの柄から手を外し、少女の手首を掴んだ。泰然とした態度を崩さなかった少女が、ここに来て初めて全身を固く硬直させた。

 強張った手のひらを眺めながら、青年は思う。綺麗な手だ。滑らかで、色白で、よく出来たビスクドールのように繊細な手。

「嘘だな。これは恵まれた人間の手だ。働かなくても、椅子に座っていれば自動的に食べ物が出てくるような、そういう家のガキの手だ」

 青年は少女の手首を離すと、吐き捨てるように言葉を続けた。

「悪いけど、いくら金を積まれようがあんたの要求は飲めない。金持ち連中の道楽に巻き込まれると、ろくな目に合わないからな」

「待って。私は何も、貴方を陥れようとしているわけじゃない。ただ、その天使は、……大切なものなの」

「断るって言ってるだろ。どんな事情があるのかは知らないけど、これが俺の仕事なんだよ」

 青年にとっての天使は、信仰の対象などではない。生きていくための、今日のパンにありつくための道具に過ぎなかった。それを、働かなくとも美味い飯にありつける、お前のような人間が奪おうと?

 青年は内心で毒を吐きながら少女に背を向け、途切れていた天使の梱包を再開した。乱暴に布で包んで、布の残りを背中に巻きつけるようにして荷物を背負い、立ち上がる。

 一歩、足を前に踏み出した瞬間、青年は背中に軽い抵抗を受けた。

「……お願い。その天使は、私のお母様なの」

 少女が、天使に巻き付けた布の端を掴んだ。少女の声音は芯の通ったそれから、懇願するような弱々しいものへと変化していた。けれど布を掴む指先の力だけは強く、しがみつくようだった。勿論、その程度の負荷は青年にとっては、あってないようなものだった。しかし青年は、少女の指を強引に振り払うことはしなかった。これ見よがしにため息を吐きはしたけれど。

 青年は少女に向き直ると、言葉を選ぶようにしばし虚空を眺めてから、こう告げた。

「この天使は既に堕天している。死んでるんだよ。天使の亡骸は、ただの壊れた器に過ぎない。後生大事に持ってたところで、あんたの母親が返ってくるわけじゃない」

 青年の声色は、先程までのそれとは微妙に質が変わっていた。ぶっきらぼうではあるものの、冷めたさや拒絶の色合いはない。聞き分けの悪い子供を相手に、ものの道理を言い聞かせるかのような響きをしていた。しかしその表情は決して教師じみたものではなく、むしろ途方に暮れる子供に似ていた。青年には今まで、このような状況に直面する機会がなかったのだろう。

 だが少女からの返答は、青年を更なる困惑の渦へと落とし込むものだった。

「じゃあ、直して」

「直すって、何を」

「この天使を。私のお母様の天使を、貴方の手で再び蘇らせて」

 青年は絶句した。直す? 地に堕ちて、二度目の死を迎えた天使を? 生命力も神秘性も何もかもが消え失せた、蝉の抜け殻のように軽い天使を?

 当惑する青年の眼前に、少女は麻でできた袋を突き出した。はちきれんばかりに膨らんだその袋の口からは、幾つもの黄金色の輝きがあふれ出していた。中を覗き込んだ瞬間、青年は腰を抜かしそうになった。少女の差し出した金貨は優に、青年の一ヶ月分の収入を超えている。それどころか、一年分をも超えるかもしれない。

「お前、一体どこの家の人間だ? あんたみたいなガキに、こんな大金をもたせるなんて」

 少女は一瞬、答えるのを躊躇するように音のない息を吐き出した。しかしすぐに、冷えた空気を肺の中に吸い込んで、こう答えた。

「私は、フランソワの一族の人間よ」

 フランソワ。その言葉を聞いた瞬間、青年の脳裏に一連のイメージが湧き上がった。再生された映像の中の視点は、今の青年よりもずっと低い。ちょうど少女の背丈と同じくらいの高さだ。だからこそ青年は、地面に広がっていく血の朱色を、生臭い鉄の臭気を、色濃く感じ取ることが出来た。緑色の燐光。色鮮やかな赤い絨毯。力なく横たわる、背の高い男の身体――

「乗った。その依頼、引き受けた」

 込み上げる想念を強引に断ち切るように、青年は口にした。胡乱の念を抱かせてもおかしくないほどの手のひらの返しようだが、少女は心変わりの理由を問い詰めることはしなかった。それどころか、早々に実利面での交渉を開始した。

「ありがとう。じゃあ早速、契約内容についての議論に移りましょう。給与については一日につき金貨一枚。修理が完了した暁には別途で報酬も支払う、という形でどう? 終了時の報酬金の額は、出来る限り貴方の側の希望に沿うようにするわ。なにか不満はある?」

「いや、ない。あんたは俺に、金貨一枚を毎日支払う。その代わりに俺は、この天使を修理する。そういうことでいいんだな?」

 ええ、と少女が首を縦に振る。

「ああでも、一つだけ追加でお願いをさせて。これから毎日、貴方の仕事に同行させてもらいたいのだけど、構わない?」

「毎日? まさか、わざわざ中心街まで通うつもりなのか?」

「当然でしょ。仕事もせずにお金だけ掠め取るような真似をされたら、たまらないもの。嫌なら契約してくれなくて結構よ。別の回収者に話を持ちかけるから」

 交渉権はあくまでもこちらにあるのだ、と主張するかのような強気な態度だった。しかし青年はそれで気を悪くするようなこともなく、「あんたの好きなようにしてくれ」と口にした。

「じゃ、契約は成立ね」

 少女は金貨の入った袋を腰元に結えつけて、纏っていたボロのローブを脱いた。

 金色の、産毛のように細い長髪が、暗がりの中にふわりと舞った。

 白磁のように傷一つない肌。絹糸のように艶やかな金髪。高名な彫刻家に削らせたかのように、均整の取れた容貌。闇の中に立ち現れた姿の全てが、彼女の出自が如何に恵まれたものであるのかを清らかに歌い上げていた。肌を包む衣服でさえも、生まれながらの高貴さを損なうことは一切なかった。白黒のワンピースにはレースやフリルがふんだんに取り入れられており、その一着を仕立てるのにどれほどの手間暇がかけられているのかは、想像さえつかないほどだ。

 だが、青年が何よりも惹きつけられたのは、整った容姿でも高価な衣服でもなく、その瞳だった。彼女の湛えた翡翠色の双眸は横溢する闇に飲まれるのでも、だからといって払うのでもなく、むしろ闇そのものを塗りつぶすかのように強烈な、薄緑色の輝きを放っていた。

 青年は一歩、無意識に足を後ろに下がらせた。日の当たらない土地に生きる自分には彼女の姿は眩しすぎる、とでも言うかのように。これはただの偶然だが、青年の髪と瞳は少女のそれとは対照的な、濡れた鴉の翼を思わせる黒色だった。

「ラウラ・フランソワ。それが、私の名前よ」

 フランソワ。その名前を舌先で転がした瞬間に、青年は冷えた鉄の味が広がっていくのを感じた。だから青年は、少女のことをラウラと呼ぶことに決めた。

 自分の理性を保つために。この少女を、利用できるところまで利用し尽くすために。

「で、貴方の方は?」

 その問いかけに青年は、トオル、とだけ答えた。少女のように姓を名乗ることはしなかった。しなかったというよりも、できないのだ。青年には、いや、彼に限らず中心街に住む人々は誰もが、名乗るべき家の名を持ち合わせてはいないのだから。

「じゃあ、これからよろしく頼むわ、トオル。給料に見合うだけの働きを期待しているわ」

 少女は先程の袋から金貨数枚を無造作に取り出すと、「これ、前金だから」と言って、青年の前に差し出した。青年が手のひらを水平に突き出すと、その上に金貨を落とした。青年の手のひらの上で、黄金色の貨幣がキン、と音を立てた。

 青年は貰った貨幣を袋の中に仕舞いつつ、ところで、と尋ねた。

「天使の修理の具体的な方法は、そっちで提示してくれるってことでいいんだよな?」

 青年に、堕ちた天使を修理した経験なんてなかった。いやそもそも、この世に誰一人としてそのような蛮行を志した者はいないだろう。やり方を知っているものがいるとすれば、天使局を司る一族である、フランソワ家くらいのものだ。

「ええ、勿論よ。帰ったら調べてみるわ」

「待て。あんたは修理の仕方を知っているから、この依頼を持ちかけたんじゃないのか?」

「そんなわけないじゃない。天使の亡骸を弄ぶのは、禁忌なのだから」

 青年は言葉を失った。格式張った契約を結んでおきながら、肝心なところがただの勢いでしかなかったなんて。矛盾しているような気もするけれど、要するに彼女の行動原理は打算ではなく、感情に根ざしているということなのだろう。青年が依頼を引き受けた理由と、同じで。

 青年は腰に巻き付けていた赤布を緩めると、天使の亡骸を身体の正面に回した。荷物のように背負うのではなく、腕で抱えて教会まで運ぶことにしたのだ。その姿を見て少女は、張り詰めた糸のように澄ましていた表情を一瞬だけ緩ませて、ありがとう、とお礼の言葉を口にした。

 青年はその言葉に何かを返すことはなく、仕事に関連する質問を口にした。

「修理の方法の調査はあんたに任せるが、ひとまず手脚は回収しておく必要があるよな? 明日拾いに行くことにするから、同行するなら中央聖堂の入口で待ってろ」

 それだけ言うと、青年は踵を返し、闇の中に溶けるように少女の下から立ち去った。

 天使回収者の青年と、フランソワ家の娘。

 常闇の支配する街の中、堕ちた天使に導かれた二人が、そうして出会った。

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