うっかり異世界に転移してしまった理系女は今度こそ本物の聖女をめざす ~聖女様の物理学第二部

スティーブ中元

第1話 プロローグ

 アンは目を覚ました。まだ薄暗い部屋のベッドで父さまと母さまにはさまれている。幸せであるがトイレに行きたい。父さまの上を乗り越えてベッドから降りた。トイレからの帰り、窓を開けると見慣れた畑と向こうに木立が色彩なく見える。まだ起きるには早い。

 

 それでもすっかり目が覚めてしまったアンは、椅子に腰掛けさっきまで見ていた夢を思い返した。時々見る夢である。星々が光る黒い空間を、若い男性と手を繋いで飛んでいた。笑っていた気がするが、あの男性は誰だろう。アンは昨日やりかけだった算術の本を開いてみたが、まだ暗すぎる。台所で汲み置きの水を一口飲んで、もう一度ベッドに入った。

 

 アンは八才、父さまは村の牧師であり、母さまは父さまを手伝って教会学校で教えている。アンは他の村の子どもと同様、六才から教会学校で学んでいる。楽な暮らしではないが、特に不自由はない。多くはないが教会には本がある。アンは時間があれば本を読んだり、算術の問題に挑戦したりした。

 

 アンは神童と呼ばれていた。学び初めてまだ二年というのに、もう算術は六年生のことをやっている。またどの本で読んできたのか、父さまも知らないことを色々知っていた。

 アンが村の子どもたちと一緒に森に入ると、薬草を見つけるのがうまかった。貴重な小遣い稼ぎになるので、アンは男女・年令問わず、よく森へと誘われた。森には魔物がいるのだが、不思議とアンは襲われない。魔物とであっても、魔物はじっとアンをみつめ、しばらくすると茂みへと姿を隠してしまうのである。

 村で家畜が暴れるとアンが呼ばれる。暴れる家畜にアンが近づくと、不思議と大人しくなるのである。そして足に棘がささっているとか、獣医を呼ぶべきかとか、判断してしまうのである。獣医としては予診がすんでいるので仕事が楽であり、アンとは自然仲良かった。

 

 この日、村に聖女様がやって来た。神童の噂を聞きつけたのだろう、アンとの面会を希望した。教会は午前中は授業であったので、村の子ども達が帰宅した午後、礼拝堂での面会となった。

 

 アンは礼拝堂の長机最前列で聖女様を待っていた。聖女様はいったいどんな方だろう。聖女様は病人を癒やし、荒れた土地を緑にし、人々を救っていると聞く。また、王様も困ったときは相談しているそうだ。アンは想像した。聖女様はその行いに等しく、きっときっと美しい。美しい聖女様が奇跡を起こすのが目に浮かんだ。期待に胸がふくらむが、同時に緊張もしてきた。

 

 コトッと音がして礼拝堂と執務室を隔てるドアが開いた。母さまに続き礼拝堂に入ってきた聖女様は、おばあさまだった。


 母さまは聖女様にアンを引き合わせると、すぐに礼拝堂から出ていった。聖女様はおばあさまではあったけれど背は高く、暖かにほほえんでいた。そのほほえみにアンは緊張感も解け、立ち上がってあいさつした。

「聖女様、はじめまして。アンと申します」

「どうぞすわって、楽にしていいのよ」

 アンが長机に座ると、聖女様は長机の向こう側をまわって、アンの隣に腰掛けた。

「あなたはいつもどういう生活をしているの」


 聖女様は世間話をするかのように、自然と自然とアンの日常生活について問いかけてきた。アンは話した。算術のこと、本のこと。薬草のこと、魔物のこと。村人のこと、家畜のこと。父さま、母さま、お友だち。


 アンが話してばっかりで、聖女様は相槌をうつばかり。でも相槌を打つ聖女様のお顔が優しくて、アンは思いつくままに何でもかんでも話してしまった。あまりに長く話すので、母さまがハーブティーを淹れてきて、お茶請けの炒り豆とともに聖女様とアンの机に並べた。

「申し訳ありません、こんなものしかなくて」

「いえいえ、けっこうよ。ありがとう」

「聖女様、これはみんなこの村でとれたものなの。おいしいよ」

 アンは豊かでない村の実情を知っていたがそうとも言えず、とりあえず出されたものを褒めた。聖女様はゆっくりとハーブティーを口に含む。

「本当、これはおいしいわ。ハーブはあなたが摘んできたんでしょう」

 アンの顔が輝いた。自分の採ってきたものが褒められたのも嬉しい。でもそれよりも、言っていないのにハーブを採ってきたのが自分であることが聖女様にわかってもらえたのが嬉しかったのだ。

「聖女様、おわかりになるんですね」

「あたりまえです」


 聖女様は、大人ならば状況的にそれくらいわかると言いたかったのだが、アンには聖女の力で誰が採ってきたのかわかると聞こえた。だからアンは、日頃から気になっていたことを尋ねてみた。

「聖女様、お願いがあります」

「なにかしら」

「わたし、前から『聖女様』ということばを聞くと、なんだか不安になるんです」

「わたしか前の聖女が、あなたになにかしてしまったのかしら」

「ちがうんです。『聖女』という言葉では何も思わないんです。『聖女様』と聞くと、なにか大事なことを忘れてしまっている気がしてくるんです」


 聖女様は立ち上がってアンを招いた。

「おいでなさい。私の力であなたの忘れたことをとりもどせるかわからないけれど」

 アンは聖女様とともに祭壇に並んだ。

「祈りましょう。今から言う言葉を強く念じてお祈りするのです」

「はい」

「神よ、失われた記憶を私にお返しください、いいですか」

「はい、わかりました」

 うなずくアンを見て、聖女様は祭壇に向かい、手をあわせた。アンはそれをまね、目を閉じ、声に出した。

 

「神よ、失われた記憶を私にお返しください」


 そのとたん、頭の芯が熱くなり、閉じている目に白い強い光が見えた。

 しかし、それだけだった。

 アンは目を開け、となりの聖女様を見ると、聖女様はやはり優しく微笑んでいた。

「お祈りはできましたか」

「はい」

「あなたの祈りが神に届いたかは、しばらくすればわかるでしょう」


 聖女様はそう言って、教会から出ていった。

 

 アンはその夜夢を見た。その夢の中で、かつて共に生きてきた人々に出会った。川崎の両親、扶桑女子大、札幌国立大の先生方、仲間たち。そして修二。

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