サキュバスと令嬢

「はあ…………」

月夜の晩、あたくしは窓辺で溜息を吐いていた。はしたなく全開にした窓からはお星さまがちかちかと光っていて、お月様はまんまるに輝いている。こんな素敵な夜なのに、あたくしはとにかく憂鬱だった。

「(いやだわ、あたくし。もう立派なレディだってのに)」

―――――――――明日。あたくしはお見合いをさせられるのだ。

相手はうちと同じぐらいの力を持った貴族の次男――――――らしい。らしいっていうのは、情報としてしか彼のことを知らないから。あたくしはお父様からこの家のこの人と結婚して欲しい、と言われたら「はい」と言うしかない。

ああ、でもね。お父様のこと、嫌いじゃないの。好きよ。

けれど貴族ってのは「これ」が普通なのね。お母様だってそうやってお父様と結婚して、やがて時を経て愛し合うようになったって言ってた。だからきっと、あたくしだって大丈夫。あちらの殿方のこと、きっと愛せるわ。時間がかかったって大丈夫。

「…………………」

何度目かわからない溜息を吐き、空を見上げる。あれだけお星さまがいたって、あたくしの心の雲を晴らしてくれる光は無い。

ああ、イヤだ。だってあたくし、本当は好いたひとと添い遂げたいのよ。自由に恋がしたいわ。この世には空に光るお星さまと同じぐらい殿方がいらっしゃるのに、一度結婚してしまったら目移りすることもできないなんて。

実際にそんなことをしたらお父様とお母様に迷惑が掛かってしまうし、何より相手の旦那様に申し訳ない。あたくしのポリシーにだって反するわ。だからゼッタイに浮気なんてしない―――――――のだけど。


…………けど、あたくしまだ十歳よ?


たかが子供が知らない男の所へ道具になって嫁ぐ。嫌で嫌でたまらない。けれど、今まであたくしを育ててくれたお父様とお母様に報いるにはそれしかない。

そもそも、「貴族」は――――――世界とは、そういうものなの。

「諦めるしかない、わね………」

「何を諦めるのです?」

「それは―――――――きゃあっ!」

ふと顔を上げれば―――――――そこには、悪魔がいた。

羊のような黒いツノ、シャープなかたちの羽根。ひらべったい、細い体に銀色の長い髪。

なんとなくつめたい印象を与える女性が、窓の外に浮いていた。肌面積の多いみだらな服に、あたくしは少しだけ目を逸らす。

「――――――――あ、あなた………悪魔?」

「少し違いますね。私は悪魔ではなく、サキュバスです」

「さ、さきゅばす…………って、なに?悪魔とどう違うの?」

「私たちサキュバスは殿方と交尾をし、生気を吸い上げる事を目的としております」

「ま!」

全部はわからないけど、なんとなくはわかる。だからあたくしはつい、口元を押さえてしまった。

「じゃ、じゃあお父様や執事長を狙ってるのね?だ、だめよ!みんなに変なことしちゃ、だめ!」

「随分勇敢なお嬢様ですね。先程まではあんなに眉を下げていたのに。」

サキュバスは目をすうっと細めて、その細い首をこてんと横にころがした。

「…………随分表情が豊かなようで………羨ましい」

あたくしはその一言に、否が応でも明日の事を思い出してしまって――――――ぐ、と言葉に詰まる。

「―――――――――サキュバス、さん」

はい、と彼女は夜闇の静けさのような声で返す。あたくしは唇を少しだけ噛んで、それからまた口を開いた。

「――――――――――――あたくしの話、聞いてくださる………?」



何故、あたくしは今知り合ったばかりのサキュバスに己の気持ちを吐露してしまったのか。

「(ああ、弱音だなんて…………なんて情けない!)」

なんだか恥ずかしくてパジャマの裾をくしゃりと掴んでしまう。お月様もお星様も味方になってくれないのなら、サキュバスなんてもってのほかだ。

何を言ってくれるわけでもないのに、どうして言ってしまったんだろう?

サキュバスは羽根をぱたぱたさせながら「ふむ」と零した。

「人間は面倒ですね。自分の食べたいものさえ好きに選べないなんて」

「え?」

あたくしはサキュバスを見やる。彼女は無表情のまま、あたくしをじっと見つめる。

「私は好きにしてます。サキュバスの主食は生気だけど、私は経口摂取を好みます」

「つまり」

「焼きたてのスコーンに苺のジャムを付けて食べるのが好きです。あと、濃い目の紅茶を熱いうちに飲むのが好き」

「なにそれ、らしくない」

「でしょう。自覚はしていますし、同族からも眉をひそまれます。けれど、私はそれで良いと思っているので――――――――まあ、つまり」

好きにすればいいんじゃないですか。サキュバスは無表情のまま言った。

あたくしは少しだけぽかんとしてから、すぐにかあっと頭に血が上る。そうして夜なのにはしたなく、大きな声を出してしまった。

「ふ――――――ふざけないで、あたくしとあなたじゃ背負ってるものが違うわ!」

サキュバスは変わらずの表情であたくしを見やる。選択の自由という言葉の上で、食べ物と未来を同列に語られたのが気に食わなくて―――――――あたくしは止まらなくて、続ける。

「あたくしは家を、お父様とお母様の想いを背負ってるの。世界が『そういうもの』なら、そう生きるしかない。けれどあたくし、小さいけれど貴族としての誇りがあるの、…………見くびらないで!」

「――――――――――…………」

サキュバスはあっけに取られたようで、ちょっとだけ夜の静寂が戻ってくる。そのうちサキュバスは「すばらしい」と言いながら、小さく拍手をした。

「小さいのに立派なレディなのですね。貴女」

「え、」


「勇敢で、気高くて、優しくて、純粋で、ひどく愚か」


あたくしは。

彼女の言い方と、言葉と、己の中の自己矛盾に―――――――どうしようもなく苛ついて、「…………帰って!」と叫んだ。

「はい。………ですが、レディ。これだけは忘れずに」

サキュバスは羽根をはためかせて。

「選択は全て平等で。」

くるりと身を翻して、こう言った。


「人間と化け物の違いだなんて、実はそんなに無いのですよ」




「――――――――――……………」

頭の中でうるさく鐘が鳴る。完全に二日酔いだ。

「くそ、あの客…………変な酒飲ませやがって」

度数の強い、甘い、甘すぎる酒。あの中に何かしらの薬が入っていたに違いない。おかげであたしの体は脳天からつま先まで怠く、その中心は「最悪」の二文字で埋まっていた。しかも、夢の中まで最悪。

「(よりにもよって小さい頃の夢とか。ありえない………)」

ありふれた、ごくありふれた話。

十歳で結婚したあたしは、かなり年上の旦那様を持った。旦那様はお優しい人で、もしかしたらこの人ならあたしも恋ができちゃうんじゃないかと思った。毎日が大変で、毎日が寂しくて、毎日が厳しかった。けれど、ちゃんと幸せだった。

しかし、まあ。そんな生活がずっと続くわけではなく―――――――

没落した貴族に待っていたのは、一番愚かでどうしようもない結末だった。


「………………」

ベッドサイドの水を飲みながら溜息を吐く。結論から言うと今、あたしは娼館で客を取って居る。お父様とお母様はとっくに死んでしまった。帰る家はない。旦那様との間には、結局子供はできなかった。

なにも、なにも残らなかった。

「メアリ、起きてるかい」

こんこん、とドアが叩かれる。ここの娼館のママが顔を覗かせた。

「あんたにお客様だよ。支度しな」

「……………はあい」

のろのろとベッドから降りれば、ママは顔を顰めて「ひでえツラしてやがる」と零した。

「放っといて。ひどいツラは元からなの。それで?どんな客が来てるの?いつものハゲ親父?それともねちっこい代議士様?それとも―――――――」

「女だよ」

「は?」

あたしはママの方をまじまじと見る。ママはひとつ溜息を吐いて続けた。

「てっきり売り込みに来たのかと思ったら『自分は買う方だ』とかなんとか言ってねえ。ま、金は持ってるみたいだ。あんた、ちゃんとサービスしてやるんだよ」

「……………はい」

あたしは。

目をまんまるにして、ママを見送った。



「―――――――――――――………………」

「お久しぶりです、レディ。随分大きくなりましたね。というか、やさぐれましたね」

「放っといてよ、どいつもこいつも」

目の前の、清潔なシーツが張られたベッドの上には――――――

あの日窓際にいたサキュバスの姿が在った。それも、ご丁寧に角と尻尾、羽根を隠した「人間らしい」恰好をしている。

それ以外は全く変わらない。夜闇のような美しさ、月のような彩をした、流れる銀糸。

「………ち。この、悪食」

何もかも変わってしまったあたしとは真逆で、思わず舌打ちをしてしまった。あたしは横にどっかりと座って、足を組んで頬杖をついた。

「あたしの生気でも取りに来たの?言っておくけれど、あたし……あなたにあげられるほどの生気なんてこれっぽちも持ち合わせてないの。他をあたって頂戴な」

「別に生気は取りに来てませんが」

「は?」

「サキュバスが女の生気吸ってどうするんですか?それはインキュバスの領分です」

「じゃあ、なんで」

「さあ。なんででしょうね」

サキュバスは白く美しい足をぶらぶらと揺らして、天井を見つめながらこう言った。

「――――――――――近くを通りかかったら、貴女の気配がしたのです」

「――――――――」

「…………そういう気分になった。それだけですよ」

しかし、と彼女は続ける。


「もう貴女を縛るものは何もない。なのにどうして、まだそんな顔をされているんです?」


「――――――――――……………」

そんな顔。ママが言っていた通りの「ひどい顔」だろうか。

あの時のあたしならきっとまた、ばかみたいに怒っていただろう。けれどもう怒る気力もない、

「放っておいてよ」

「何故?もう貴女は自由でしょう。貴族の世界も何も無い」

「――――――――――――…………」

「ヒトの縛りが貴女を見捨てたのなら、それはもうこちらだって捨ててしまっても良いのではないでしょうか」

「………何を?」

「人としての責任、理性、生」

サキュバスはじっとあたしを見つめていた。覗き込むようなそれに、ふいに恐怖にも似た感情が押し寄せる。まるで何も無い暗闇を灯もなく進んでいるような、そんな怖さだった。

「欲の獣と化したところで、誰も何も言いません。だって今は誰も、貴女を守ってはくれないのだし」

「あなたは」

「はい」

「あなたこそ、何がしたいの。あたしに今更、こんなことを言って」

サキュバスは少し黙って、口元に綺麗な指をあてた。

「昔、私が言った事を覚えていますか?私、経口摂取が好きなんです。焼きたてのスコーンに温かい紅茶が好き。でも、それ以外にも好きなものがあるんですよ」

「―――――――――――……………?」

「強気で高潔な人間がここまで堕ちてくること」

サキュバスは私の太腿に手を添え、まるでピアノを弾くように撫でていく。

「ねえ、貴女の欲はなんですか。貴女は、何がしたかったんですか」

「あたし、…………あたし、は…………」


――――――――――素敵な恋がしたかった。

いいえ、違う。「自分で選んだ相手」がいい。

――――――――――添い遂げたい、愛し合いたい。

昔はそう思っていたけど。今はそんなの、どうでもいい。

―――――――――己が生きるために男どもを食べる日々は幸せか?

そんなワケない。むしろあたしは食べられてる方だ。選り好みだってできない。

食べたい。好きにしたい。貪欲に、身勝手に、本能の赴くままに、自分の食べたいものを好きなだけ食べたい。

これは恋じゃない。あの日夢見た恋と呼ぶにはあまりにも穢れすぎてしまった。

じゃあこれはなんと呼ぶ?


――――――――――決まってる。欲望だ。


じゃあ、あたしの目下の欲はなんだ?

男か?いいや、そっちはもう食傷気味だ。当分いらない。

女か?合ってるけど少し違う。あたしが、あたしが今一番食べたいものは。


「わからず屋で無神経で、人間を舐め腐ってるあなたを堕としたい」


サキュバスは口の端を少しだけ上げる。無表情な彼女が魅せた、まるで天使のような微笑みだ。


「いいでしょう。ここは元々そういう場所ですしね。遠慮せず、私をお召し上がりください」

ああ、けれど―――――――きっとこいつは、だからこそ悪魔なのだ。

「生気吸ったら殺すから」

「自分は食べ物です。」みたいな顔して、あたしが堕ちる所を特等席で楽しもうとする、趣味の悪い悪魔。

「吸いませんよ。サキュバスが女と交尾したところで得られるものなんてない。あるのは享楽だけ。それでいいでしょう、」

サキュバスは私の頬に手を添える。食べてるつもりが食べられて手、食べられてるつもりが食べている。まるで共食いだ。

ならばきっと、あたしはもうひとでなしなのだろう。


「終わったら一緒にスコーンを食べましょう。私の好きなお店があるんです」


……………その言葉が、なんだか人間臭くて。

「まともぶらないでよ、悪魔」

あたしは思わず、舌打ちをしてしまったのであった。


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