(5)

 そうして始まった三人暮らしは、順調だった。育ちも考え方も違うだろう三人が同じひとつ屋根の下に暮らしても、大きな衝突は起こっていない。それはお互いに思いやりがあり、遠慮もあるからだということは、ミオリにもわかった。ミオリも、進んで問題を起こそうという気は一切なかった。


 それでも三人での生活に慣れてきて、ルーティーンがあるていど決まってくると、余裕が生まれる。ミオリの場合は、余計なことを考える余裕が生まれた。


 ミオリがこの家でできる仕事と言えば、掃除くらいのものだ。あとは乾燥機能つきの洗濯機を使うことくらいだろうか。ミオリからすれば、それらは簡単な仕事だった。ラーセもシュヴァーも、ミオリが家事の一部をこなしてくれることに対して、感謝の意を述べてくれる。けれども、ミオリは不満だった。


 より正確に言えば、不満というよりは不安だ。ミオリからすればその家事は、だれにでもできる簡単な仕事だった。その簡単な仕事をミオリがこなすだけでも、繁忙期が不定期に訪れるらしいラーセやシュヴァーからすると、ありがたいのだろう。けれどもミオリにはふたりの役に立っている実感がなく、ゆえに不安にさいなまれるようになっていた。


 しかし、子供のミオリにできることなんて、たかが知れている。家事を手伝いたいと言い出したのはミオリからだった。子供の自分でもそれくらいならできるだろうという目算があり、実際に今まで問題なくできている。大人たちからすれば、それでじゅうぶんなのかもしれない。けれどもミオリは、不安だった。自分が無力な子供だと理解しつつも、心はラーセやシュヴァーの役に立つことを望んでしまう。


 ふたりとも、お金には困っていないと言っていた。忙しいときはまさに「忙殺」という表現が似合うほどだが、代わりに高給取りだと言っていたのはラーセだ。「貯まる一方で使い道がない」とも言って、ラーセと職場が同じらしいシュヴァーは同意していた。


 ミオリは、三人で暮らすことを安易に了承すべきではなかったかもしれないと、思いだしていた。そうは言っても、元いたマンションでの生活だって、金を出すひとがいて、食事などを差し入れる世話をするひとがいたわけで、ミオリは自分がどこまでも手のかかる子供だという認識を持った。


 ――今の自分にできることは、ふたりの面倒にならないこと……。


 邪魔だとか、手のかかる子供だとは思われたくなかった。ラーセとシュヴァーが、本心でミオリのことをどう思っているかは、もちろんわからない。ただ、内心でどう悪く思っていようと、それを表に出さない時点で、ミオリからすればふたりはじゅうぶん優しかった。


 ……そう思っていたのに。


 朝、枕元に置いたスマートフォンのバイブレーションで目覚めたミオリは、自身の気分が落ち込んでいることを認識する。それでも時間通りに起きない、という選択肢をミオリが取れるはずもない。重い体を起こして、身支度を整えていく。途中で、唇から憂鬱なため息が漏れ出た。


 鏡の前に立ち、手ぐしで一度髪を整える。元の世界にいたときよりも、髪のつやに磨きがかかっているような気がした。服装を確認し、二階にある自室から、一階にある洗面所へと向かう。部屋を出る前から、料理上手なシュヴァーがフライパンを使っているらしき音が聞こえた。


 中心部にずっしりとした重さを感じながらも、階段を一段一段降りていく。そのまま、階段を降りてすぐ左手に洗面所が見える――はずだった。


 ミオリが声を出す間もなく、ぐいと左の手首を乱暴に引っ張られる感覚が襲う。ミオリの視界がたちまちのうちに、白いもやだけで占められた。濃い霧の中に、背中から突っ込んでしまったようだった。


「ちょいとお嬢ちゃん」


 バランスを崩さないように、反射的にたたらを踏む。手首が引っ張られた方向へ、視線を寄越せば、目と鼻の先に男とも女とも見わけられない人物がいて、ミオリはおどろきに悲鳴を上げそうになった。


 その人物はミオリが驚愕に目を見開き、なにも言えない様子などを意に介した様子はなく、一方的に説教じみた口調で話を続ける。


「なんで大人しくしてるんかえ」

「え?」

「なんて大人しくカゴに閉じ込められたまま過ごしているのかって聞いてるんだよ」

「それは……」


 見知ってはいるが、見知らぬ人物に詰め寄られて、ミオリは言葉に窮した。今目の前にいる性別不詳の人物は、明らかにミオリがこの異世界へと迷い込む前に会っていた人間と同一人物で、ミオリの直感が正しければ、ミオリをこの世界へと送り込んだ張本人だろう。


「あなたは、いったいだれなんですか? わたしがこの世界にきた原因? なんですか?」


 ミオリが勇気を振り絞った問いかけは、あっさりと無視される。


「もっと外に出て、たくさんの男どもと出会って、もっとちやほやされてもらわないと」

「……それは、どういう……」

「ちやほやされるのは好きだろう? ん? 人間はそういうもんさね。外に出れば、男たちがもっと群がってくるよ」


 男とも女とも言えない人物は、ミオリの行動を批難するような声音で話を続けた。言葉選びはそれほどではないにしても、口調は完全にミオリを叱っているような、説教でもしているような雰囲気を持っていた。ミオリには、なぜこのように頭ごなしに叱られているのか、心当たりはまったくなかった。しかしその言葉を遮るほどの度胸は、ミオリにはなかった。


 度胸がなかったがゆえに、ミオリは謎の人物からの叱責を受け続けることになったが、次第に恐怖心が頭をもたげてくるのがわかった。目の前にいる人物への不信感もあれば、じわじわと周囲の霧がかった風景がにわかに晴れていくにつれて、今いる場所が家の中ではないとわかってしまったからだった。


 ミオリは謎の人物と対峙して、明らかに外にいた。頭上には青い空が広がっていて、太陽の傾きや明るさからして朝だろうことがわかる。男とも女とも言えない人物は、ミオリと最初会ったときのように、なぜか路地に挟まっている。ミオリは路地の外にスリッパを履いて立っていた。


「――とにかく、お嬢ちゃんにはもっと外に出てもらわないと……」


 そこで不自然に言葉が途切れた。自然とうつむいていたミオリが、不思議に思って顔を上げれば、遠くからほかでもない、シュヴァーがミオリを呼ぶ声が聞こえてきた。しかし今ミオリがいる場所からは少々距離があるらしく、声は遠い。


 ミオリが思わず頭だけ振り返れば、謎の人物が舌打ちをした音が後頭部に当たったような気がした。再び、くだんの人物へと視線を戻したが、路地の隙間にはもうだれの姿もなかった。


 またシュヴァーの声が聞こえた。ミオリは、それに返事をしようとしたが、だれの了承も得ず、勝手に家を出てしまった形となっていることに気づき、硬直した。背中に冷や汗が流れて、心臓がにわかにバクバクと大きく拍動を刻み始めたのがわかった。


 ――どうしよう。


 そうは思っても、冷静さを失った頭が、妙案をひねり出せるはずもなかった。


 シュヴァーの声がミオリを捜している。それは理解していたが、ミオリの肩に「無断外出」の文字がのしかかったようになって、怖くなってなにもできなくなった。……だから、うつむく自分に近づく人影にも、ミオリはすぐには気づけなかった。

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