現実世界と仮想世界
北條院 雫玖
第1話 現実と仮想の狭間
ここは、都内にある十五階建てのマンション。五階にある、501号室。
一人の青年が、複合空間で依頼を受けたAIのメンテナンスを行っていた。
依頼内容は、宅配ロボットが通る道の最適化。青年は依頼を受けると、すぐに複合空間へフルダイブをして業務を開始。無数のパネルを同時に映し出す。
この複合空間は、もう1つの現実世界。仮想空間と現実世界を融合させた、世界中の人々との交流を可能とする複合空間。
等身大に設計された専用の装置に入り、複合空間へフルダイブする。
一度、この空間にフルダイブをすると、業務はもちろんのこと、ゲームや旅行、買い物にスポーツ、映画などの趣味を季節を問わず、いつでも好きな時に体験して楽しむことが可能。その専用の装置は、人々の間ではこう呼ばれている。
通称「現実融合型、フルダイブ拡張デバイス」と。
それと同時に、人々が複合空間に潜る際には、フルダイブと呼ぶようになる。
彼もまた、その内の一人。
青年は表示させた無数のパネルを見ながら、クライアントから送られてきたデータと照らし合わせて一台ずつ入念に調べていく。エラーがないか、通行人との接触はないか、安全基準を満たした速度で走行しているか、正しい順序を通っているか。
一度エラーが見つかれば一旦宅配ロボットを停止させ、コードを書き換えて正しい情報をそのロボットに反映させていく。
ただひたすらに、その作業を彼一人で繰り返し行う。
青年は、時間を忘れて作業に集中。徐々に作業に終わりが見えてきて、ようやく最後の一台の最適化が終了すると青年は小さく呟いた。
「ふぅ。やっと終わった。流石に疲れた」
彼が複合空間にダイブしてから今に至るまで、約四時間が経過しようとしていた。青年は、全ての業務が終了したことをクライアントに報告し、待つこと数分。先方から了承されて、青年の業務が終了した。
その後、一仕事を終えた青年は、休息をとるために複合空間からログアウトをする。
次に彼が目を覚ました先は、複合空間と現実世界を往来するフルダイブ専用のカプセル状に設計された装置の中。その装置が設置されている場所は、彼の寝室でもあるし仕事部屋でもある。
緑色をした円形状のシールドが自動で開くと、青年は装置から起き上がる。大きく背伸びをすると、そのままリビングへ向かいソファーに寝転んだ。
青年は天井を見上げたまま、目の前に広がる何もない空間に片手を伸ばしてスワイプすると、彼が好む電子音と共に青白い色をしたパネルが現れる。彼はそのパネルを見ると、慣れた手つきでフリックを繰り返し、スポーツドリンクと書かれた文字を押した。
その数秒後。人間と同じような外見をした女性の人型ロボットが、さきほど青年が押した飲み物の入ったボトルを手に持った状態で青年のすぐ側まで歩み寄ると、持ってきたボトルを彼に一言添えてから渡した。
「どうぞ。お受け取り下さい。
「ありがとう。アース」
「他にご命令がありましたら、何なりと、お申し付けくださいませ」
一ノ瀬からの質問に、
一ノ瀬はソファーから起き上がり、その場から一向に動こうとしないアースを見ながら渡されたボトルのフタを開けると、一気にそれを飲み干した。渇いた喉が満たされた一ノ瀬は一息つくと、空になったボトルをアースに渡すと話しかける。
「アース。それ、捨てといて。あと、クライアントからの依頼を教えて」
「かしこまりました。一ノ瀬様は現在、全ての業務を終了しています。今のところ、新しい依頼はありません」
「じゃあ、しばらくは休めるな。……これでやっと、あのゲームが出来る!」
「他にご命令がありましたら、何なりと、お申し付けくださいませ」
今後の予定がないと知ると、一ノ瀬は高らかに声を上げた。しかし、無反応のアースの言葉に落胆してしまう。
「また、それか。まぁ、所詮はプログラムされた機械だもんな。便利だからいいけどさ。……もういいよ。アース。充電しながら、スリープモードに切り替えて」
「かしこまりました。一ノ瀬様」
一ノ瀬からの命令でアースは言葉の通りに行動を移すと、リビングの奥にある冷蔵庫の隣に設置されている専用の装置に入りスリープモードへ移行した。
「はぁ。AIも人間みたいに会話できたらいいんだろうけど……無理だよな。これだけ技術が進歩しても、性格や感情は実現されていない」
ボソっと呟く一ノ瀬。
確かに、今となってはAI技術が加速度的に進化を遂げて、人々の暮らしの殆どがAIロボットで支えられている。人間は、その管理とメンテナンスさえしていればいい。それが仕事として成り立ち、人々は収入を得ている。危険が伴う作業では、全てAIロボットが代わりにやるし、複合空間で買い物をすれば、宅配ロボットが自宅まで届けてくれる。それに、お世話係として一世帯に一台は人型ロボットがある。
だけど、お世話係としても出来ることは限られる。AIロボットが補えない細かい部分は、やはり人間がやらなくてはならない。機械だからと言って万能ではない。
会話をしようにも、AIロボットには感情が一切なく、ただひたすらにプログラムをされたことしか出来ないし、やらない。技術がいくら進歩したとしても、AIロボットに人間味がある感情を実現させることは叶わなかった。
「まぁ、いっか。不可能なことをいくら考えても仕方がない。ゲームの世界で気分転換だ。最近、話題になってるから気になって買ったんだよな。インストールはしてあるから、あとは起動するだけだ」
一ノ瀬は再び仕事部屋に戻ると、フルダイブ専用の装置へ入り仰向けになると、装置のシールドが自動で閉まる。シールドが完全に閉まったことを確認した一ノ瀬は、音声入力でゲームの世界へとフルダイブを開始する。
「融合システム起動。ゲーム名、永遠の道標~幻想の架け橋~、フルダイブを開始」
一ノ瀬が言い終わると独特の機械音がなり、シールドには文字の羅列が上から下へと流れていく。程なくして音が止まると、女性の音声案内が聞こえてくる。
『声紋認証クリア。音声入力を承認。ユーザー名、
「このゲーム。現実と同じ感覚になるってあったからな。一体、どんな世界なんだろうな。しかも、人間と同じような会話をNPCと出来るなんてまるで夢のようだ。そんなこと、どのゲームや複合空間でも体験したことがないからワクワクするぜ!」
一ノ瀬が購入したのは、永遠の道標~幻想の架け橋~、と言うゲームタイトル。
現実世界と仮想世界の融合を、コンセプトとして開発された。
発売されてからまだ半月ほどしか経っていないが、現実世界では実現不可能なAIロボットとの自然な会話が出来ることと、過去にそのような体験をできるゲームがなかった。それでいて、ゲームの世界を現実として体験することが出来るし、システムも面白いという人々の願望が実現されたゲームとして注目を浴びている。
一ノ瀬はこの噂を聞くと即座に購入し、拡張ドライブにインストールした。しかし、いつもよりクライアントからの依頼が多く、日々の業務に追われていた。でも一ノ瀬は、自由な時間を作るため、業務に没頭して可能な限り最短で終わらせた。
この日をずっと待ち望んでいた一ノ瀬は、未知なる体験へフルダイブをするためにそっと目を閉じる。
その数秒後。彼の脳内に、女性の音声アナウンスが聞こえてきた。音声アナウンスに従って、ゆっくり目を開けるとそこには真っ白い空間が広がっていて、彼の目の前には妖精を模した手のひらサイズの可愛らしい小さなキャラクターが浮かんでいた。
彼は、ログインしてから最初のイベントかもと気になり、その小さい妖精に触れようとする。しかし、その妖精は一ノ瀬から離れていく。近づけば離れるの繰り返し。このままでは埒が明かない。一ノ瀬はこの小さな妖精の進む先をついてき、導かれるかたちで後を追いかけて行くと、小さな妖精はその途中で移動するのをやめた。
「お、早速イベント発生か! あれが、喋るNPCか? けど、あれは何だ? なんか光ってる」
彼が案内されてたどり着いた場所には、円形状の魔法陣が光輝いていた。その魔法陣に吸い込まれるように、中へと入っていく。
どんなかたちでゲームがスタートするのかと、ワクワクしながら魔法陣の中にいると、近くで浮いていた小さな妖精から話しかけられた。
「永遠の道標へようこそ。私は、あなたの案内役をする妖精だよ。まずは、この世界の分身であるあなたのキャラクターを作成してください。終わったら私に声をかけてね」
小さな妖精がそう言うと、キャラクターの外見を作成するメイキンングのパネルが一ノ瀬の前に現れた。
「なぁ、君が会話をできるNPCか?」
一ノ瀬は、小さな妖精に話しかけるも反応がなく、少しがっかりしてしまう。なんどか話してみたけど、同じように返答されることは無かった。一ノ瀬は諦めて、目の前にあるパネルへ目線を移してキャラクターの作成を始めた。
彼はどういったパーツがあるのかを確認するために、現れたパネルをフリックしながら隅々まで見る。
そこには、髪型、髪色、輪郭、身長、体格、性別、肌の色、目の色等々上げたらきりがないくらい膨大で自由度が高く、その自由度に興奮する。これまで、過去にゲームをプレイしてキャラメイキングは何度もやってきた。過去にプレイしてきたゲームに似ている箇所はあるものの、ここまで緻密に作成できるゲームは少なかった。
早くゲーム内にダイブしたい気持ちと、ある種の儀式を疎かにしないよう、1つずつパーツを組み合わせていき、キャラメイキングに集中する。
どれぐらいの時間が経過したかは分からない。だけど、ようやく彼自身が納得できるキャラクターを作成することができた。
髪型は短髪。色は黒。身長は170センチで、やや筋肉質の体格。アバターは男性。衣装は初期設定で決められていて、変更することは出来なかった。しかし、いくら自由度が高いと言っても、結局は普段から作成してきたキャラクターとほとんど同じ外見という結果になってしまった。一ノ瀬は、作成が終わったことを小さな妖精に伝えると続けてこう言われた。
「作成したキャラクターを保存してください。いつでも、自分好みにデザインは変更できますので安心してね」
「へぇ、いつでも変更できるのか。んじゃ、いつでも自分好みに設定できるな。それに、キャラクリは楽しいから飽きないし」
一ノ瀬は、先ほど作成したキャラクターのデザインをサーバーに保存した。
「これで、あなたのデーターはサーバーに保存されました。さぁ、次が最後です。あなたの職業と名前。それと、私の名前を決めてください」
「話しか――って言っても無駄だよな。でも、このキャラにも名前をつけるのか」
小さな妖精がそう言うと新しいパネルが表示され、一ノ瀬はそのパネルを食い入るように見る。
「まぁ、いいや。名前は後で。先に職業だな。えっと、盾に近接、魔法に回復と支援かぁ。んー、どうすっかな。ん、剣豪? へぇ。日本刀を使うのか。こんなの、博物館に行かないと見ることができないし。面白そうだからこれにしよう。……いや待て、ここで決めたら変更できない、とか?」
一ノ瀬は悩んだ末、物珍しい剣豪と言う職業を選ぼうとするが、疑問が浮かび再び悩む。すると、側にいた小さな妖精から話しかけられた。
「大丈夫だよ。あとで、好きな職業に変更できるから安心して」
「あ、そうなんだ。じゃあ、剣豪にしよう」
一ノ瀬は、小さな妖精の言葉を聞くと、最初に選んだ剣豪を選択した。
「次に名前か。そんなの、いつも使ってる名前に決まっている。『サイファス』っと。んで、このキャラは……アース。だと、ウチのロボットだからな。んー、『ミカン』でいっか」
一ノ瀬は、ゲーム内での名前をサイファス。小さな妖精の名前をミカン。と入力をしてパネルの一番下にある承認を押した。その後、どこからともなく一ノ瀬の脳内に女性の音声アナウンスが聞こえて来る。
『キャラクター名、サイファス。妖精名、ミカン。が承認されました。それでは良い旅を』
音声アナウンスの終了とともに、眩い光が一ノ瀬を包み込む。咄嗟に片腕で顔を覆い目を瞑る一ノ瀬。ほどなくして、彼がゆっくり目を開けると、そこにはレンガで作られた家や石畳の大きな道に大きな噴水、石の壁を背にしてテントを張ったお店らしきものや、街並みを往来する無数のプレイヤーが一ノ瀬を刺激した。
「ここが、永遠の道標の世界か」
「ようこそ。永遠の道標へ。ここは、始まりの街サーヴェントだよ。最初は私がこの街を案内するから、分からなかったらなんでも聞いてね。……っていうか、何で私の名前が『ミカン』なのよ。食べ物じゃないよ、私。可愛い妖精だよ?」
「えっ! 何? 喋った! ってか、AIから質問された?」
サイファスは驚く。何せ、『ミカン』と名付けたこの小さな妖精が喋ることを想定していないし思ってもいない。
確かにこの妖精は、キャラクリエイトの時はサイファスが話しかけても、一切反応がなかった。だけど、今は違う。まるで、AIが自分の意思を持ったかのように会話をしている。
この現象は、これまでプレイしてきたゲームで初めての体験だった。
「すげぇ、ホントに会話ができてる! ホントにAIなのか?」
「うん、そうだよー。喋れるよ? だから、もっと可愛い名前がよかったなぁ」
「……普通に会話できてる。AIの進歩ってすげぇな。なんで、この技術を現実で実現できないんだろう。不思議だ。まっ、いいか。よろしくなミカン。早速、街を案内してくれ」
「……スルーされた。はぁ。しょうがないか。いいわ。よろしくね、サイファス。こっちよ、ついてきて」
ミカンはサイファスを街並みを案内する。まず最初に、骨董品店、洋服店、雑貨店の順番にサイファスを導いた。
「さぁ、着いたわ。ここが第一商店街ね。骨董品店は、サイファスの武器。洋服店は、防具っていうか衣装ね。雑貨店は、アクセサリーなんかを買えたりできるとこ。お店ごとで売ってるものが違うから、立ち寄ってみるのも面白いわよ」
「すご、両脇にずらーっと並んでる。この通り、全部そうかよ」
「まぁね。でも、装備したとしてもステータスは上がらないから、ファッションみたいな感じだよ」
「へぇ、ファッションか。時間があるときに見てみようっと」
「日替わりで売ってるものが違うから、退屈はしないと思うよ。さっ、次、いくよー」
ミカンは、第一商店街を通過してサイファスはその後ろをついていく。街並みを歩いていると、大勢のプレイヤーとすれ違う。大通りの両脇にはいくつものお店が並んでいて、プレイヤー達が買い物を楽しむ様子を伺えた。
街並みの雑音や、プレイヤーたちの声が入り混じる。時折、サイファスは足を止めると初めての体験に歓喜する。
ミカンは次の場所に着くと、サイファスに説明しようと後ろを振り向くが、そこには彼の姿がない。ミカンは彼を探し始めると、少し離れた場所でサイファスがあちらこちらに寄り道をしていたことに気が付いた。ミカンは少し文句を言ってやろうと、サイファスがいる場所まで飛んでいく。
「ちょっとぉ。せっかく案内しているんだから、ちゃんとついて来なさいよね」
「いやぁ。すまん。つい興奮してしまってな」
「全くもう。まぁ、いいわ。じゃあ、早速説明するよぉ。お次は、第一複合施設。ここは、喫茶店と宿泊施設だね。ホテルはとくに重要だよぉ。サイファスのあらゆる数値を回復させるし、アイテム類を預ける場所になるからね」
「あらゆる数値ってなんだ?」
「んっとね。数値は、主に生命力の回復や魔法やスキルの回復。あとは、状態異常とか」
「なるほどな。てか、俺って今、AIと会話している! すげー。人間と話しているみたいだ!」
「ん? 私と話すのが、そんなに珍しいことなの?」
「そうだとも! これは初めての体験だ!」
ミカンの質問に、サイファスは何度も頷く。彼の自宅にいる人型ロボットのアースは、自らの意思で話しかけてはこない。でも、ミカンは違った。そこに、意思があるのかどうかはわからない。プログラム通りに、話しているだけかもしれない。だけど、NPCと自然な会話ができる。この現象だけでも、彼からしてみれば夢物語を体験することが出来たのだから。
でも、ミカンはその小さな顔をキョトンとさせながら、何度も頷くサイファスを不思議そうに眺めていた。
「へぇ、そうなんだぁ。じゃあ、話したかったらいつでも相手になるよ。さて、次は喫茶店だね」
「おう。頼む」
ミカンは喫茶店へとサイファスを案内すると、彼はその後ろをついていく。ミカンが通った後には、光の帯が煌びやかに輝いている。その輝きは、まるで後を追って来る人が迷わないために、痕跡を残しているようにも見える。
「ここが喫茶店だよ。この場所はね、ご飯を食べてサイファスのステータスを上げることも出来るし、他の人たちと交流をする場所だよぉ」
「そうなんだ。でもさ、喫茶店にしては大きいな。……どのぐらいの敷地面積があるんだ」
サイファスが見た喫茶店の壁沿いには、小さな花壇がいくつも置いてあり様々な花が咲いていた。小さな窓ガラスが等間隔に配置され、店内の一部分の様子を見ることが出来る。店内に入るガラス張りの入り口の近くには、本日のおすすめ料理の名前が書かれてある立て看板が置かれていた。
「面積はねぇ。人数で言うと、百人は余裕で入れるよ。ここ以外にもたくさんあるよー。どんな感じか、試しに入ってみる?」
「おう! ……でも、その前に1つ質問がある。ミカンには性格っていうか、感情みたいなものがあるのか? さっきから見てると、めっちゃ人間に近い反応をするしさ」
ミカンはサイファスからの質問に、目をキョトンとさせる。ミカンからすれば、性格や感情といったものがあるのは、この世界で生きているミカンにとってはごく普通で当たり前のこと。プレイヤーから聞こえてくる声のトーンや、しぐさ、行動、思考など、様々な情報を瞬時に分析して音声として会話をする。
「ん? 性格? 感情って? 私はただ、思ったことや感じたことを言ってるだけだよ?」
「……何でこの技術が、現実では実現できないんだ。この世界をもっと知りたい。……さぁ、ミカン。中へ入ろう。案内を頼む」
「おっけー」
ミカンとサイファスは、喫茶店のドアを開けて中へと入る。
そこには大勢のプレイヤーで溢れかえっていた。入り口の正面にはNPCが二人配置されている。左側を向けば広い大部屋があり、丸い机や長方形の大きな机に様々な形をした椅子があった。
サイファスは気になり、大部屋の方へ歩きながら周囲を観察し始めた。プレイヤーたちはそれらの椅子に座り、机には料理を模したアイテムが並べられていた。それに、至る所からプレイヤーたちの声が飛び交うが、それぞれの声が入り混じり、誰がどんな話をしているのかを聞き取ることが出来なかった。
しかし、サイファスが更に奥まで進もうとしたときに、ミカンは彼の耳元まで飛んでいき小さく呟いた。
「ごめーん。やっぱ私、この場所苦手だぁ。頭がガンガンしてくるし、すっごく眠くなる。だから少し寝るねぇ。静かな場所になったら教えて」
「あ、あぁ。分かった」
ミカンはそう言うと、サイファスの服の中に入ってしまう。
「ありゃ、動かなくなっちゃった。んー。多分、スリープモードに移行したのかな? いくら会話ができると言っても、これだけの人数がいると情報量が多すぎて処理しきれないのかも。まっ、奥まで進んでみますか」
サイファスは、再び歩き始める。
だけど、前へ進もうとしても、大勢のプレイヤーが行き来しているので、所々で歩みを止める。でも、その途中で声をかけられたり、手を挙げられたりもした。サイファスもまた、幾人かのプレイヤーから手を挙げられたら、軽く会釈等をして簡単な挨拶をする。
そんなことを繰り返しながら大部屋の一番奥まで行くと、カウンターテーブルになっていて、丸い椅子がテーブルに沿って一定の間隔で設置されていた。もちろん、NPCもカウンター越しに一人だけだが、しっかりと配置されていた。
サイファスはカウンター席に腰を下ろすと、テーブルの上に料理名や飲み物名らしき文字が値段と一緒に書かれているメニューが置いてあることに気が付いた。
「なんだ、これ? あぁ、料理のメニューか。ご丁寧に、値段まで書いてある。えっと、最低でも100カーブル。カーブル?」
メニューを手に取り眺めていたサイファスは、カウンター越しにいるNPCから声をかけられた。
「おう。いらっしゃい。カーブルってのはな、ここでのお金の単位さ。何にするよ?」
「へぇ。お金の単位のことだったのか。悪いが、もう少し見させてくれ」
一見、ごく普通の会話。声をかけられたサイファスは、自然と言葉を返す。しかし、話し相手はプレイヤーではなくプログラムされたNPC。先ほど街を案内してくれた妖精といい、このNPCといい。どこか人間味がある。
「……ちょっと待て。今、俺、会話した? 誰と?」
サイファスは、手にしていたメニューを机の上に置いてから目の前にいるNPCの顔を見ると、そのNPCはにこやかに笑っていた。自然な笑顔を見せるNPC。彼は、NPCを注意深く観察し始める。
サイファスが過去にプレイしたゲームでは、NPCとプレイヤーを区分させるマーカーが頭上にあるものだが、このNPCにはそういった表記がなく名前の表記すらない。
サイファスは不思議な感覚に陥る。プレイヤー同士でなら、こういった自然な会話は日常茶飯事。だが、今目の前にいるのは紛れもないNPC。彼は確かめるように、NPCに話しかけた。
「なぁ、1つ質問していいか? 君には、名前はあるのか?」
「ん? 俺か。もちろんあるぜ。俺はな、ここの喫茶店のマスターで『ジェイド』って言うんだ。よろしくな」
「あ、あぁ。よろしく。俺はサイファスだ」
「ほう。サイファスって言うのか。よろしくな」
サイファスは、ジェイドと名乗ったNPCとの会話を交わした。そう、プレイヤー同士とのごく自然な会話を。会話をしている最中も、『ジェイド』はサイファスが過去に他のゲームと対話したことがあるプレイヤーと比べても遜色がないほどに、しぐさ、行動、感情、表現、声のトーンが同じであった。
会話のやり取りがあまりにも自然で、プレイヤーと会話をしている感覚になるサイファスは、再びメニューを手に取った。
どんな料理が書いてあるのかを隅々まで見ると、料理名の下に数値が書いてあることに気が付いた。
「ナポリタン、400カーブル、攻撃1。スポーツドリンク、150カーブル、回避1。これって、現実と同じ名前の料理と飲み物だな。しかも、この数字は何だ?」
サイファスは、料理名や飲み物の下に書いてある数字が気になりメニューと睨めっこをしていると、ジェイドと名乗ったNPCから声を話しかけられた。
「ああ。その数字か。それはな、書いてある通りサイファスさんのステータスを上昇させる効果だ。階層をクリアするか、階層から撤退するまで効果が続くぜ。その2つにするのかい?」
「そうだったのか。すまない。ゲームは好きだが、こういうのには疎くてな……って、俺! 会話してるぞ! ミカンといい、ジェイドといい。すごすぎるぞ、この世界は!」
サイファスは感動のあまり手に持っていたメニューを放り投げると、両手で思いっきり机を叩いて勢いよく立ち上がる。彼が言った言葉は、後ろにあるテーブル席で座りながら談笑をしているプレイヤーたちにも聞こえるほどの声量。
サイファスは感情を抑えきれず、ジェイドに質問を繰り返す。
「ジェイドは眠くないのか? こんなにたくさんプレイヤーがいるのに、頭は痛くならないのか? 感情はあるのか? 普段、どんなことを考えているんだ? 意思はあるのか?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、サイファスさん。そんなにいっぺんに質問されても困るってもんだ」
「あ! 今! 俺の名前を呼んだだろ! もしかして、さっき覚えたのか!」
サイファスからの質問攻めに困ったジェイドは、苦笑いをしながら右手で後頭部を数回叩く。その反応が、ますますサイファスの感情を揺さぶった。サイファスはジェイドに興味津々で、周りが見えなくなっていた。
しかし、そんなサイファスの様子をカウンター席からほど近い後ろの席で見ていた一人の男性プレイヤーが席を立つ。
男性プレイヤーは、サイファスがいる場所まで近づくと、彼の肩を軽く叩きながら声をかけた。
「お兄さん。興奮する気持ちは分かるが、ちょっとは落ち着いたらどうだい?」
突然叩かれたサイファスは驚き、声が聞こえた方向を見た。
「よっ! お兄さん。あっち、見てみな?」
男性プレイヤーがそう言うとカウンター席の反対側を指でさし、サイファスはその指先が示した先を見ると、二名の男性プレイヤーが小さく手を挙げていた。
男性プレイヤーは、彼と同じ方向を見ながら会話を続ける。
「あそこに座ってる二人は俺の友達だ。んで、世間話をしてたらカウンターの方から突然大声が聞こえてきてな。それ以来、俺たち三人はずーっとお兄さんのこと見てたよ。ただ、ちーとばかし暴走しかねなかったんでな。それで声をかけた」
「……あ、すまない。迷惑をかけた。俺自身、興奮しちまってな」
サイファスは、視線の先にいる二名のプレイヤーに一礼をすると、再びカウンター席に座る。
男性プレイヤーも同様に、彼の隣の席へ座るとジェイドに向かって注文をした。
「ジェイドさん。スポーツドリンクを2つ頼む」
「おうよって、グレイベルさんじゃねぇか。いらっしゃい。2つで、300カーブルだ」
グレイベル。と呼ばれたプレイヤーは、片手でスワイプをして青白いパネルを表示させる。フリックをしてインベントリを開き、同じ動作を数回繰り返すと会計の支払いを済ませた。
「まいどあり。ちょっと取りに行ってくるからよ」
会計が支払われたことを確認したジェイドは、奥にある冷蔵庫まで注文された商品を取りに行き、グレイベルの前に2つ置く。
「ほれ、スポーツドリンクだ。今日は、回避が1つ上がるぜ。階層攻略、頑張ってな」
「ありがと。ジェイドさん」
グレイベルは、注文したスポーツドリンクを1つだけ掴むと、カウンターの上を滑らせながらサイファスの前に差し出した。
「ほれ、お兄さん。これ飲んで、ちょっとは落ち着きな」
「あ、あぁ。すまない。ありがとう。お金、払うよ」
「気にすんなって。いいから飲みな。俺も最初は、お兄さんと同じ反応をしたんだからよ」
「そうだったのか。ありがとう。頂くよ」
サイファスはスポーツドリンクを手に取ると、キャップを開けて半分ぐらいまで飲む。
「どうだ?」
「……いや。どうだって言われても、ただ普通に飲んだだけだし、味だっていつも飲んでるスポド……リ……のあじ、だ」
サイファスは、現実世界でもスポーツドリンクをよく飲む。それ故に、現実世界と形状があまりにも同じで、意識的に区別することが出来なかった。結果、無意識に現実と同じ行動をしてしまう。しかも、味までも再現されていた。
「暴走。しないでくれよ」
「あ、あぁ。あんたが……って、えっと」
「おっと。そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はグレイベル」
「俺はサイファスだ。よろしく、グレイベルさん」
サイファスとグレイベルは、お互いに自己紹介をする。しかしサイファスは、先ほどとは打って変わって冷静になっていた。彼は、この世界にダイブしてからの事を思い返す。
小さな妖精。人間味があるNPC。感情、性格、意思みたいなものがある。今まで体験したことがない。現実世界では、AIロボットにはそういったものは全くないがこのゲームでは実現されている。
何故、それらの要素が現実で再現することが出来ないのか。サイファスは、自分が思ったことを素直にグレイベルに質問する。
「なぁ、グレイベルさん。ごのゲームは現実では出来ないことを、何故ここでは実現が可能なんだろうな?」
サイファスからの質問に、グレイベルは少し真剣な表情をして返答をした。
「ふぅ。やっぱり、その疑問を真っ先に考えるよな。俺も、サイファスさんと同じ考えだ。でもな、1つだけ言えることはある」
「な、なんだ! 教えてくれ!」
サイファスは、グレイベルの言葉が気になって拳に力が入る。
「このゲームは、不可能を可能にした。原理は分からない。だから、純粋にこの世界を楽しめばいいんじゃないか? 反応からして、多分、今日初めてフルダイブしたんだろ?」
「あ。あぁ。そうだ。まだ、ミカン。……いや、妖精に案内をしてもらっている途中だ」
「やっぱりな。俺はもう終わって、今はのんびりと階層の攻略をしている。これがまた楽しいんだ。なぁに、次第にこのゲームの世界にも慣れていくさ。でも、妖精の案内が終わらないと階層にはチャレンジ出来ないから、終わったらみんなで楽しくやろうな」
「あ。あぁ! その時は、よろしく頼む! ありがとう、グレイベルさん」
「おう。またな。サイファスさん」
グレイベルはそう言い残すと、手を挙げてサイファスに挨拶をしてからその場を立ち上がり、元々座っていた席へと戻った。サイファスも同様に、手を挙げて別れの挨拶をした。
「そっか。グレイベルさんも……いや。話しを聞くからに、このゲームにフルダイブしたプレイヤー全員が俺と同じ反応をしたんだな。きっと」
サイファスは、残り半分になったスポーツドリンクを一気に飲み干すと席を立つ。
「俺も早く、階層ってところに行ってみたい。その為には、まずミカンに案内してもらわないとだな。ジェイドさん、また来るよ」
「おう。またな、サイファスさん」
サイファスはジェイドに一言伝えると、喫茶店の外へ出ようと歩き始める。その途中で、グレイベルの後ろを通り過ぎようとすると、彼が座っている三人のプレイヤー達から小さく手を振られた。
サイファスはそれに気付くと、グレイベル達に小さく手を振り挨拶を交わして喫茶店を後にする。
「ミカン、喫茶店でたぞ。次の案内を頼む」
「…………」
サイファスはミカンに話しかけるが、返事は返ってこなかった。
「ありゃ、反応なしか。参ったな。早く次に行きたかったんだが。しょうがない。ミカンが動き出すまでどっかで待つか。どこかに座れる場所は」
サイファスは、どこかで座って待てる場所がないか周囲を見ると、背もたれがあるベンチを見つけた。
「お、いい場所を発見。あそこならここから近いし、座って待てるから丁度いいな」
サイファスは、早速そのベンチまで歩いていくと腰を下ろして、ミカンが起きるまで時間を潰すことにした。
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