第24話【龍昇】背負う重責

(さて、どうしたものか……)


 飛路の手柄で官吏の洗い出しに目途がついた翌日――皇帝執務室の扉の前。

 重厚な雰囲気漂うその部屋の前で、雪華は来室を告げることができず無為に立ちつくしていた。


 女官長の指示によると、今日は自分が執務室の清掃当番なのだそうだ。

 現皇帝は大勢の者が房室に入ることを嫌うため、清掃は毎日女官が一人で行っている。「あなたは大丈夫だと思うけれど、粗相そそうのないように」と念を押され、渋々やって来たのだが――どうにも入りづらい。

 この時間、龍昇は一人で政務を行っているはずだ。そんなところに最下級の女官風情が乗り込んでもいいのだろうか。


(政務の邪魔になるんじゃないか……?)


「ん……?」


 ふと、自分の思考に違和感を覚えて雪華は目を瞬いた。龍昇の邪魔になるかもしれないだなんて、以前の自分なら考えもしなかったことだ。

 あえて邪魔してやろうとは思っていなかったが、極力関わりたくないとは思っていた。それが、どうしたことだろう。


(……違うな。本当の理由は、そうじゃない)


 龍昇の仕事の邪魔はしたくない。しかしそれ以上に、龍昇と二人きりになることに戸惑っているのだと気付いてしまった。

 先日の会話で……いや、再会してからこれまでに積み重ねてきた時間で、自分の中の何かが崩れ始めた。それを自覚して雪華は惑う。


(でも……仕事は仕事だ。城を去ることを一応は伝えないといけないだろうし――)


 課せられた義務を思い出し、迷う気持ちにケリを付ける。短く息を吸うと、黒い扉を叩いた。


「失礼いたします。清掃に入らせていただきます」


「ああ。開いている、入ってくれ」


 奥から聞こえてきたのは、淡々とした声音だった。静かに扉を押し開け、室内に入る。


「いつものように頼む」


「……はい」


 正面に目をやると、龍昇が大きな机に向かって何か書き物をしていた。扉が閉まる音にも雪華の声にも顔を上げようとしない。

 険しい顔で、細かい文字が記された巻物を眺めている。……かなり集中しているようだ。


 音を立てないよう細心の注意を払い、とりあえず指示通りに部屋の清掃を行った。そして十分が経った頃、手を止めた雪華は龍昇の正面へと歩み寄った。


「終わりました」


「ああ、ありがとう」


「……礼ぐらい、相手の顔を見て言ったらどうだ」


「え……。――ッ!?」


 女官らしからぬ低い声音に龍昇がふと顔を上げる。その目が雪華を捉えると、彼は椅子を鳴らして立ち上がった。


「姫!? なぜ、あなたが……っ」


「何度言えば分かる。姫じゃない。……ずいぶん集中していたが、根を詰めすぎじゃないか。そんな態度では官に反感を持たれるぞ」


「え……。あ、ああ……そうだな。いつもは話をする余裕があるんだが、今日はおこたっていた。……すまない」


「だから、そう簡単に謝るな。……いいよ、別に。次から気を付ければいいことだ」


「ああ……」


 椅子に座りなおした龍昇が、またまじまじと雪華を見つめてくる。斎国の若き皇帝は筆を置くと、無意識のように眉間を指で揉んだ。


「疲れているようだな」


「そんなことは――、…………。そうだな……少し、疲れているかもしれない。政務が大詰めで」


 薄く笑いかけた龍昇が、笑みを消して重く息をつく。自分でも苦しい嘘だと気付いたのだろう。正直に疲れを吐露とろする姿に、彼の激務が垣間見えた気がした。


「これに全部目を通して、裁可の判を押すのか……。考えただけで肩が凝りそうだ」


「判を押すだけで済めば、楽なんだがな」


 龍昇が力なく笑う。首を鳴らすと、彼は少し赤くなった目で雪華を見上げた。


「今日はここの担当だったのか」


「ああ。だが毎日清掃しているだけあって、大してやることもなかった。これなら頻度を減らして他の仕事に回した方が、人手が増えるし効率もいい」


「そうか。女官長と検討してみよう」


 龍昇は小さく笑うと、また目頭を押さえる。その様に、雪華は呆れた息をついた。


「ちょっと待ってろ。鍵は開けたままにしておけ。それから私が戻るまで、仕事は休んでろ」


「え……」


「いいな」


 そう言い置き、持ってきた道具を手に取ると回廊へと続く扉を押し開けた。龍昇の返答も聞かないまま、足早に回廊を歩く。


(あんな、無理をして――)


 隠すことができないほどに、今日の龍昇は疲れきっている。力なく笑った顔を思い出すと、だんだん腹が立ってきた。自然、歩調が荒くなる。

 雪華は官舎に飛び込むと、休憩していた同僚たちに目もくれず自分の荷物をあさった。


「よ…陽佳さん、どうしたの?」


「いえ、特には。ちょっと時間がかかりますんで、女官長には適当に誤魔化しといてください」


「え……?」


 目的の物を掴むと、また足音も荒く官舎を退出する。そんな雪華を同僚女官たちが唖然とした表情で見送った。


「……今の陽佳さん、なんだか男らしかったわね……」


「ええ。鬼気迫る勢いでしたわね……」






「失礼。……茶器を借りるぞ。湯はこれか?」


「あ……ああ。何をするつもりだ?」


「茶器でできることと言ったら、一つしかないと思うが」


 出たときの倍の速さぐらいで執務室へと戻ってくると、雪華は開口一番龍昇に告げた。

 許可を待たず、窓際に置いてあった急須を手に取り官舎から持ってきた茶葉を淹れる。蒸気を立てたやかんから湯を注ぐと、そっと蓋をした。


(私にはいつも茶を淹れるくせに――なんで、自分のためには淹れないんだ……!)


 使われた形跡のない茶器類を見ていると、ろくに休息も取っていない仕事ぶりが窺える。けれどそれは、彼の体を追い詰める。

 茶葉が開くのを待ちながら、卓子に爪を立てた。背中に龍昇の物言いたげな視線を感じる。それを無視して茶を注ぐと、杯を机の上に置いた。


「飲め」


「これは……」


「いいから黙って飲め。毒は入ってない。……疲労回復によく効く。あと、目の疲れにも」


 雪華の顔と杯とを交互に見やり、龍昇が吐息をつく。巻物を横に押しのけると彼は杯を手に取った。


「わざわざ、持ってきてくれたのか……」


「別に。……目の前で倒れそうな顔をしてたんでな。私の仕事中に倒れられても迷惑だ」


「ふ……。そうだな」


 小さく笑った龍昇が、濃い目に淹れた茶をすすった。杯から口を離すと、なんともいえない表情を浮かべる。


「……個性的な味だな」


「そうだろうな。どう味わっても美味くはないだろう。だが効果はてきめんだ。私も疲れた日によく飲む」


「そうか。……ありがとう、嬉しいよ」


「……ああ」


 茶を飲み干した龍昇が、ゆったりと椅子にもたれた。ようやく肩の力を抜いた皇帝の姿に、雪華も安堵の息を吐く。


「駄目だな……。自分の状態にも気付けないようでは、為政者としてまだまだだ」


「人から指摘されるまで気付けないことなんて、いくらでもあるさ。何もあんたに限ったことじゃない」


「そう…かな。けれど俺は、知っていないといけない。自分のことが分からずに、城や国のことが分かるはずもない」


「どちらだって、すべてを一人で理解するのは無理だ。そのためにあんたの周りには人がいるんだろう。すべて背負い込む必要はない」


「雪華……」


 雪華の言葉に、龍昇が驚いたように目を見張る。その視線を受けて、雪華もまた驚いた。

 なぜ、この男を励ますようなことを言っているのだろう。龍昇の視線から逃れるように、ぽつりと口を開く。


「……もうすぐ、任務が終わる」


「そうか。あえて聞きはしないが、何か情報を得られたんだな」


「ああ。……あんたにとっても有益になるはずだ。きっとそのうちに報告がいく」


「え……」


 龍昇はまじまじと雪華の顔を見つめた。雪華の言葉が予想外だったのだろうか。


「なんだ。……城や人に害をなす気はないと言っただろう。今の政治まつりごとを乱すような調査はしていないぞ。あんたの味方から頼まれた依頼だからな」


「そう……なのか。いや、俺はてっきり――」


 龍昇がはっとしたように口元を押さえる。その言葉の先が容易に想像できてしまい、雪華は眉を歪めた。


「シルキアに情報を渡しているとでも思ったか? ……見くびるなよ。今の情勢でそんなことをしたら国がどうなるか、それぐらいは考える分別がある」


「すまない。俺は――」


「いい。そう思われるような仕事をしているのは私だ。……一応は祖国だからな。他国に蹂躙じゅうりんされるのは、できれば見たくはない」


「…………」


 龍昇は遠い場所を見るように目を逸らすと、ついできつく瞳を閉じた。苦悩する表情に、何事かと雪華は戸惑う。


「どうした」


「そこまで知っているなら、伝えるが……陽連から離れた方がいいかもしれない。……戦になる可能性がある」


「……なんだと?」


 龍昇の言葉に耳を疑う。雪華が見上げると彼は固く唇を引き結んだまま、じっと眉根を寄せている。


「どうして……」


「……シルキアが、鉱物を輸出できる大規模な港を以前から手に入れたいと思っていることを知っているか」


「ああ……。噂には聞いたことがあるが」


「ここ数年、王が代替わりしてからシルキアは西峨さいがの港をあからさまに狙ってくるようになった。西峨の官吏も、シルキアとの癒着を深めている」


 陽連――皇帝直轄地の西に位置する西峨は、シルキアと唯一国境を接している州だ。その西峨とシルキアが癒着しているということは、この陽連の喉元に剣を向けられているに等しいことではないか。眉を寄せた雪華に龍昇は続ける。


「国境の警備官を増やしたりはしているが、シルキアもとうとう本気で港を……いや、西峨一帯を狙う体制を整えてきている。交渉はしてきたが……もう、無理かもしれない」


「…………」


 重く、低く……皇帝が告げる。その声音は、それが真実であることを物語っていた。雪華は龍昇を見上げると、震える唇を開く。


「無理かもしれないなんて……簡単に言うな…! 戦だぞ…? この国の民が駆り出され、巻き込まれ、死ぬんだぞ…!?」


「……っ」


「内乱からたった十三年だ。あんたはまた民たちに戦いを強いるのか!? あんたは皇帝だろう! なぜ、そうならないように対処しないんだ!」


 気付けば、龍昇をなじっていた。

 ……十三年前の惨状を思い出す。内乱は朱朝を倒すだけにとどまらず、最終的には帝都の一部を焼きつくした。あんな戦いが――また起こるのか。声を荒げた雪華に呼応するように、龍昇もたまりかねた様子で口を開く。


「俺だって……戦など、起こしたくはない! 交渉はした。外交努力もした。けれど皇帝にだって、どうにもならないことはある……!」


「……っ」


「皇帝の称号が何かの足しになるのなら、とうに使っているさ。自国の民を誰が苦しめたいものか……! だが、流れには抗えないんだ!」


 語勢を強めた龍昇が、はっとしたように目を見開く。龍昇は雪華の顔を見つめ、気まずげに目を逸らした。


「……すまない、取り乱した。あなたに当たっても仕方ないのにな……」


「いや……。こちらこそ悪かった。あんたが何もしてないわけがないのに、勝手なことを言った。板挟みになって悩んでいるのは、あんただろうに……。失言だ、忘れてくれて構わない」


「雪華……」


 雪華の謝罪に龍昇が小さく目を見開く。雪華は重い気持ちで目を伏せると、今一度皇帝に確認を取る。


「……もう、本当に避けようがないのか」


「分からない。今すぐシルキアの軍が西峨に流れ込むということはないだろうが……交渉次第では、あと数か月のうちにということもあり得る」


「陽連も戦場になるのか?」


「帝都まで踏み入れられることは、さすがにないと思うが……。戦になるとしたら、おそらく西峨だ。一般の民には危害が及ばないよう善処するが――」


「いざ戦になれば、どうなるかは分からない、か」


「ああ……。情けないが、その通りだ。陽連にもきっと西峨から難民が入ってくる。落ち着くまで治安が悪くなるのは避けられないだろう」


 龍昇が苦渋の表情で瞳を伏せる。その顔に、雪華は胸の中で一つの決意を固めた。


「陽連から、離れるつもりはない」


「そうか。ならば、十分気を付けて――」


「その上で、もしもあんたたちが私たちの組織の力を必要とすることがあったら……協力してもいい」


「え……」


「胡朝の手足となって、情報を探ってもいい。それが斎の安定に役立つのなら、私はその任務に全力を注ぐだろう」


「雪華――」


 龍昇が目を見開き、雪華を見下ろす。静かにその視線を受け止めると、彼は少しだけ顔を歪め、ついで小さく笑みを浮かべた。


「それは……心強いな。あなたが味方になってくれるのなら、戦の方が回避してくれそうだ」


「なんだそれは。だが……まぁそうだな。自慢じゃないが、情報を得ることに関しては多少の自信があるぞ。そのぶん値は張るが」


「そうか。国庫から捻出できるよう、善処しよう。それでも駄目なら俺の私費からお願いするよ」


「皇帝のへそくりか。それは期待できるな」


 ようやく静かな笑みを浮かべた幼馴染を見やり、雪華もまた小さく笑う。空になった杯にもう一度茶を注いでやると、扉へと向かった。


「怪しまれるから、そろそろ行くよ。邪魔したな」


「いや……ありがとう。あなたが来てくれて良かった」


「じゃあ――」


「――雪華」


「…?」


 扉に手をかけた雪華を、龍昇が呼びとめた。振り返ると、静かにこちらへ歩み寄ってくる。

 龍昇が目の前に立つ。その顔を見上げると、龍昇もまた雪華を見つめ返した。視線が結ばれ、目が逸らせなくなる。


「また……文を送っても、いいか」


「…………」


 真顔で放たれたその言葉に目を見開き――しばらくして、雪華は淡々と返した。


「……文だけでいいのか?」


「いや。あなたがいいと言ってくれるのなら……また、会いたい」


 間髪入れずに龍昇が返し、数拍おいて目を見開く。


「……え? 雪華、それはどういう――」


 龍昇がきょとんと雪華を見下ろした。間の抜けた顔を眺め、雪華は小さく笑う。


「ならば、呼べばいい。……ではな」


 黒い瞳から視線を外すと、軽く手を上げて執務室を退出した。心のどこかで名残惜しさを感じながら、回廊を静かに進む。

 閉じられた黒檀の扉の奥で、部屋に残された斎国皇帝が赤く染まった顔を押さえてつぶやいた。


「……参ったな。あなたは、本当に――」



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