両隣の幼馴染が交代で家に来る

みらいつりびと

第1話 ふたりの幼馴染

 両親がタイへ行く。

 父親が3月上旬に上司から命じられた。4月1日からバンコクで勤務する。

 うちの父と母はいわゆるおしどり夫婦というやつで、離れては生きていけない。

「冬樹、ひとりで暮らせる?」と母さんが顔面を蒼白にして言った。絶対に父さんについて行きたいと思っているにちがいないのだ。

「だいじょうぶだよ」と俺は答えた。首を振ることはできなかった。そんなことをしたって、母さんはさめざめと泣くだけだ。

 俺の返答に両親はほっとしたようだ。父もひとりでは行きたくないのだ。ふたりは息子から見てもびっくりするほど仲がよく、いってきます、いってらっしゃいのキスを毎朝欠かさないほどなのだ。

 いつまでも新婚みたいな夫婦。思春期の息子の前でキスするのはやめて。


 父さんは海外赴任のために荷物をまとめた。

 母さんは急いでパスポートを取得した。

 そして3月末、高校生の俺をほったらかして、ふたりはタイへ飛んでいってしまった。

 俺は2階建ての一軒家にぽつんと取り残された。


 兄弟姉妹はいない。これからひとり暮らしをしなくてはならない。少し寂しいが、別に嫌というほどではない。

 気楽だ。

 家事はひととおりできる。簡単な料理ならつくれるし、洗濯機の使い方もわかっている。アイロンがけだってやれないことはない。

 趣味は読書。

 紙の本を偏愛している。

 書痴と言われてもかまわない。

 電子書籍なんて認めない。あんなのは本じゃない。

 世の中から書店が減っていく現状を、心の底から憂いている。

 これからは思いきり羽を伸ばして、好きなだけ本を読もうと考えている。

 俺はひとりでも平気なタイプで、孤独は苦にならない。


 お金の心配もない。

 海外赴任手当がもらえるらしく、父の給料は大幅に増える。

 父は俺のために新たに銀行口座を開設して、預金通帳とキャッシュカードをくれた。そこには最初から七桁の金額が入っていた。しかも今後毎月振り込んでくれるという。

 俺は高校生としては破格なほどの金額を自由にできるようになった。

 もちろん生活費なので、書籍代にすべてつぎ込むわけにはいかないが、それでもやりくりして欲しい本を買うことはできる。いままでは小遣いで月に3冊くらいしか買えなかったが、これからはもっと買える。

 我慢しないで本を購入できるのは、本好きにとって夢のような境遇だ。


 俺はこの春から高校2年生になる。

 4月7日までは春休み。

 父が異国で仕事を始めた4月1日、俺は電車に乗ってターミナル駅へ行き、喜々として大型書店に入った。

 平積みにされている新刊書籍、真新しい雑誌、立ち並ぶ書架。俺にとって書店は心躍る空間だ。なにを買おうかなと見て回るだけで楽しい。

 最近気に入っている女性作家の純文学と全巻購入しているファンタジー漫画の最新刊を手に取った。さらにラノベのコーナーで可愛くて肌色多めの女の子のイラストに目が釘付けになってしまい、散々迷ったあげく、表紙買いすることにした。

 3冊の本をレジに持っていった。

 純文学、ラノベ、漫画の順に重ねて、店員さんに差し出す。ラノベは表紙がエロく、一番番上に載せるのは避けた。


 面白そうな本を手に入れて、午後3時ごろにうきうきと自宅に帰ったら、浅香空あさかくうが玄関の前に立っていた。

 彼女を見て、ドキッとした。

 黒髪ショートカット、ちょっと吊り目のクール系美少女。背はすらっと高く、脚がとても長い。

 右隣の家に住む同い年の幼馴染で、小学生のときは「空ちゃん」「冬くん」と呼び合って親しくしていたのが、思春期になって縁遠くなった。

 同じ高校に通っているが、クラスは別で、最近はまったく話したことがない。

 そんな彼女が腕組みをし、ちょっと待ちくたびれたようすで虚空を見つめている。

 どうしてうちの前で立っているのだろう?


 呆然と眺めていたら、彼女がこちらを向き、目が合った。

「冬樹」と彼女は言った。いきなり呼び捨てですか、なんて思ったけれど、中学1年生のときに呼び方が「冬樹」「空」に変わったことを思い出した。その後、交流が激減してしまったので、忘れていたのだ。

 俺は彼女のことをなんと呼べばいいのか迷った。

「浅香さん、どうしたの?」

 迷ったあげく、そう言った。空と呼び捨てにするのははばかられ、空ちゃんと呼ぶのは不自然なほど彼女は大人びていた。 

 つきあいが途絶えていた期間が長く、距離感がわからない。

 浅香空。

 幼馴染でなければ、話しかけるのもためらわれる高嶺の花のような見目麗しい女の子。


「なんで名字呼び?」

 彼女は不機嫌そうに口をへの字にした。

「あー、変かな。ずいぶん久しぶりに話すから……」

「前みたいに空でいいわよ」

 空ちゃんではないんだな、と俺は思った。

「わかったよ。空、突然どうしたの? うちに来るなんて、めずらしいね」

 空はわずかに首をひねった。なんでそんなことを訊かれるのだろう、というふうに。

「おじさんにあなたの世話を頼まれたのよ。冬樹をよろしく頼むって。あなたは今日からひとり暮らしなんでしょう?」

「ああ、そうだけど……」


 俺は驚いた。

 なんで父さんは空に頼んだのだろう? 空はどうしてそれを素直に実行しているのだろう? 

 そんな疑問が湧いたけれど、言葉が出てこなくて、たずねることができなかった。

 高校生になって、ますます綺麗になったなあ。

 そんなふうに思いながら、疎遠になっていた幼馴染と久しぶりに対面して、ちょっと緊張した。


「鍵がかかってる。開けて」

「空、いつから待ってたんだ?」

「30分ほど前」

 それを聞いて、俺は申し訳なく思った。約束をしていたわけではなく、なにも悪いことはしていないのだが。

「ごめん」と言ってしまった。

 俺はあわてて鍵を開け、ふたりで家の中に入った。


 うちの1階にはリビングとキッチン、和室、風呂、洗面所、トイレがある。

 リビングには食卓とソファとテレビがあって、お客さんにはたいていソファに座ってもらう。空にもそうしてもらおうと思ったけれど、彼女はキッチンに注目していた。


「ちょっと失礼」と言って、空は冷蔵庫を開けた。

「ほとんどなにもないわね。買い物してきた?」

 買ってきたのは本だけだ。訊かれているのは、食材のことだろう。

「してない」と答えた。  

「じゃあスーパーへ行ってくるわ。なにか食べたいものある?」

「ごはんをつくってくれるの?」

「もちろんそのつもりよ」

「悪いよ」

「気にしなくていい」

 空は表情を変えず、極めてクールにそう言った。

 俺はまた言葉を失った。

 本当に俺の世話をするつもりなのだろうか。


「適当に買ってきていいかな。好き嫌いはほとんどなかったわよね?」

「うん」

「いってきます。あ、お金は後でもらうわよ」

 空は靴を履いてから、一度俺の方へ振り返り、微かに笑った。

 もともと綺麗な顔をしていたけれど、最近は大人っぽくなって、美しさに磨きがかかっている。

 彼女が出ていった後、俺はソファにくてっと座り、なんなんだこの状況は、と考えた。

 どうして彼女が俺なんかの世話を?

 疑問が脳裡をぐるぐると回った。

 

 5分くらい後、ピンポーンとドアホンが鳴った。

 もう帰ってきたのだろうか?

 早すぎるなと思いながら玄関を開けると、そこにいたのは浅香空ではなく、天乃灯あまのあかりだった。

 俺はびっくりした。


 今度現れたのは、左隣の家に住む同い年の幼馴染。

 彼女は腰まで伸ばした髪を明るい茶色に染めた派手めの美少女。ぱっちりとしたアーモンド型の目を長い睫毛が飾っている。それが自毛なのかつけまつげなのか、俺にはわからない。

 やはり同じ高校に通っている。クラスはちがうが、グラビアモデル並みのスタイルで男子を悩殺していることは知っている。単なる他人事ではなく、俺もくらくらさせられているひとりなのだ。

 小学生時代、「あかりちゃん」「ふゆっち」と呼び合っていた。

 思春期になってから縁が遠くなったのは、空と同じ。

 浅香空と天乃灯はそりが合わなくて、微妙に仲が悪い。俺はふたりと仲よく遊んでいたが、3人で遊ぶことは少なかった。

 日替わりで遊んでいた記憶がある。

 かつて俺は、ふたりの美少女と親しくしていたのだ。


「天乃さん、どうしたの?」と俺はたずねた。久しぶりに話すので、空と同じように距離感がわからない。

 天乃灯。

 空と並んで注目を集めている学年のアイドルのような女の子。どちらがより綺麗なのか判断しがたい。


「ふゆっち、その呼び方は気に入らないなー」

 彼女は以前と同じように親しみの込もった声で俺を呼んだ。

「前みたいにあかりちゃんって呼んでよ」

 そんなふうに言われて戸惑ったが、嬉しくもあった。距離が一気に縮まり、昔に戻ったような気がする。

「わかったよ。あかりちゃん、どうしてうちに来たの?」

 彼女は上目遣いでにこーっと笑った。

「おばさんからふゆっちの世話を頼まれたんだよ。冬樹をよろしく頼むわねって。ふゆっち、今日からひとり暮らしなんでしょ?」 

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