妖精の声を聞いたので

烏川 ハル

前編

   

 小雨がぱらつく中、俺はケーキ屋の軒下に佇んでいた。

 入り口はガラス扉なので、中の店員からは丸見えだ。外は外で、駅前の大通りだから通行人も多い。はたから見れば、今の俺は雨宿り、あるいはボーッと休んでいるように思われるのだろうか。

 もしそうであるならば、俺としては好都合。実際は探偵仕事の真っ最中さいちゅうであり、向かいの喫茶店を密かに見張っているところなのだから。



 子供の頃に読んだ物語では、よく名探偵が活躍していた。決まって頭脳明晰であり、その卓越した推理力を駆使して、警察だけでは迷宮入りするような難事件を鮮やかに解決に導くのだ。

 そうした胸踊る探偵譚を読むたびに「大人になったら僕も私立探偵になる!」と言っていたほどだが……。

 ある意味では、夢がかなったのだろうか。今の俺は、街の小さな探偵事務所の職員として働いていた。しかしその仕事内容は、憧れていたものとは大きく違う。

 聞き込みや張り込み、尾行といった地道な調査だ。物語の探偵はそれらを全て警察に任せて、集まってきた証拠や証言から、自分は頭を使うだけで良かったのに……。

 しかも調査の対象自体が、探偵譚とはまるで別物。現実の探偵が調べるのは殺人や盗難みたいな刑事事件ではなく、浮気調査や素行調査など。個人のプライベートの、どうでもいい話ばかりだ。



 今日も俺は、朝からずっと一人の男を尾行していた。奥さんから浮気を疑われているサラリーマンだ。夕方の会社帰りに、部下の女性と二人で喫茶店に入ったのをようやく確認したところだった。


「気をつけて。あなた、気づかれてるわよ」

 突然、耳元で不思議な声が聞こえてくる。

 甘い響きの囁きだ。しかも遠い昔に聞き覚えがあるような、どこか懐かしい声だった。

 ハッとして振り返るが、その声のぬしらしき者は見当たらない。俺の近くには誰もおらず、一番近いのが二軒先で同じように雨宿りしている学生か、あるいは前から来る通行人だが、そちらもまだ結構な距離があった。


「ダメよ! そんなことしてる場合じゃないでしょう? ほら!」

 再び間近から聞こえる声。

 何が「そんなことしてる場合じゃない」なのか一瞬わからなかったが、その答えはすぐに判明する。

 俺がキョロキョロと周りを見回していた間に、調査対象だった男が喫茶店から出てきて、俺の目前まで迫ってきていたのだ。

 彼は怒りの形相で、それをこちらに向けている。いや表情だけでなく、行動にも表していた。

「ずっと俺をつけ回していただろう!? いったい何が目的だ、この野郎!」

 と言いながら、殴りかかってきたのだ!

   

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