第8話・川岸の変化

 あんなにオーナーのことを怖がっていたのに、なぜか一緒に住むことになった。世の中、何が起こるかは分からない。

 店では相変わらず、チェックが厳しくて細かくて、数字と掃除に煩い。もしかして穂香のことは掃除要員とでも思ってるんじゃないかというほど、顔を合わせればどこどこが汚れてると指示してくる。


「ごめん、田村が一番丁寧にやってくれるから、つい……」


 掃除や片付けの指示ばかりが続いた時、穂香の表情で怒っているのに気付いたらしく、川岸がストックルームでのすれ違いざまに謝ってきた。他のスタッフに言っても表面をさっと拭う程度で終わらせてしまうから、再チェックが必要になって結局は二度手間になる。だからつい、穂香にばかり頼んでしまうのだという。


 そんな風に言われては、穂香も悪い気はしない。仕事ぶりをちゃんと見て貰えていたことに、少しばかり浮足立ってしまう。今日の夕ご飯はちょっと手の込んだ物でも作ろうかと、頭の中で料理のレパートリーを模索する。


「何かご機嫌じゃない? 夜逃げした彼氏が戻ってきてくれたとか?」


 島什器のカットソーを畳み直していると、弥生が好奇心丸出しで近付いてくる。まさか、と首を横に振って「何も無いですよ」と否定する。そう、弥生が期待しているようなことは本当に何も無い。


「ねえ、気付いてた? オーナー、穂香だけ呼び捨てになってるの。こないだ飲みに行った後、何かあった?」

「え、別に何も……」

「最近、オーナーがうちに来るの、何か増えてる気がするんだよねー。まあ、お客様が喜んでくれるからいいんだけどさ」


 接客中にオーナーの方をチラチラと盗み見する女性客は確かに多い。レディース商品ばかりの店で男性スタッフがいるだけでも目立つのに、オーナーは長身で女性受けする顔立ち――いわゆる、イケメンだ。業界歴が長い分、程よくお洒落だし目の保養には申し分ないのだろう。


 ――朝はいつも、髪の毛に寝癖がついてるけどね。


 今朝は靴下の左右の色が微妙に違っていることを指摘されて、家を出る直前で慌てていた。黒と紺だから分かりにくかったと言い訳していたが、長さも違ったのに履いた時にどうして気付かなかったのかが不思議だ。

 実はちょっと、否、かなりと言っていいくらいにオーナーは天然だと気づいてしまった。ドが付いてもおかしくはないレベルで、今までよく一人でやってこれたなと感心してしまう。


「以前は元カノがいろいろ気を使ってくれてたからな。玄関に鏡を設置したのも彼女だったし」


 川岸曰く、元婚約者は手のかかる彼に嫌気がさして出て行ってしまったのだという。「私はあなたのお母さんじゃない!」という捨て台詞を吐きながら。


「今日、夜は雨らしいんで、折り畳みを持って行った方がいいかもです」

「分かった」

「ちょ、ちょっ、オーナー、鍵忘れてますってばっ! 傘持ったからって鍵を置いてってどうするんですかっ」

「あ……」


 折り畳み傘が掛けてあったフックへキーケースがおもむろに掛かっているのに気付き、玄関前で穂香が慌てた声を出す。戻って来た川岸にキーケースを手渡してから、腕を伸ばしてネクタイの歪みを直しながら小言を言う。


「もうっ、出掛ける前には鏡見る癖付けないとダメですよ」

「ちゃんと見てるつもりなんだけどな……」


 他人の服装の乱れには目ざといくせに、自分はいつもどこか抜けている。それを愛らしいと思うか、いい大人が情けないと思うかは人それぞれだ。少なくとも元婚約者だった人は、後者だったのだろう。反対に、穂香は自分がこんなに世話好きだったのに気付いて意外に思っていた。母性本能というやつだろうか、川岸の方が年上なはずなのになぜか放っておけない。


 家主を無事に見送った後、絶賛居候中の穂香は連勤で出来なかった掃除と洗濯をまとめてこなしていた。自身に関することには抜けが多いけれど、川岸も一通りのことはそれなりに出来る。互いに休みの日に掃除機をかける程度だったが、夜逃げした元カレはそれすらもしてくれなかった。家事どころか、家賃も光熱費も全て穂香に丸投げだった。


「なんであんなのと付き合ってたんだろ……」


 いつか起業して経営者になる、と熱く語っている姿に、幻想を抱いていたのかもしれない。起業したら結婚しようという甘い言葉を信じてしまっていた。

 でも、実際の経営者である川岸のことを傍で見ていれば、元カレには絶対に無理だと分かる。具体的に何かをやりたいのではなく、単に肩書が欲しいだけの薄っぺらさ。手切れ金代わりにしてはいろいろと持ち去られてしまったが、離れられて良かったとさえ思う。


 夜になり、玄関の鍵が二回開く音が聞こえてくると、少しホッとする。この家は一人で過ごすには広すぎる。オーナーの帰宅を心底喜んでいる自分に気付いて、穂香はそれを否定するよう首を横に振った。


 ――ここには、そういう対象で置いて貰ってるんじゃないんだから。


 ネットカフェで寝泊まりしている部下を放ってはおけなかっただけだ。穂香じゃなく、他のスタッフがそうだったとしても、川岸は同じように家に連れて帰ってあげただろう。自分だけが特別なんじゃない、勘違いしてはダメだと己に言い聞かせる。

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