第6話・オーナーの家

 目が覚めて最初に見えたのは、全く見慣れない天井。少し固めの枕に頭を乗せたまま、穂香は自分が今どこにいるのかを思い出すのに必死だった。ここ最近、毎朝全く違う場所で目覚めているから、起きてすぐは頭が混乱しそうになる。


 ――えっと、確か、弥生さんとオーナーと飲みに行って、その帰りにオーナーにタクシーに乗れって言われて……あ、そっか。


 幸いなことに、昨晩の記憶はちゃんとしてる。だからここは、オーナーの自宅だ。念の為に自分が今ちゃんと服を着ていることを確かめて、ホッと安堵の溜め息をつく。お酒が入っていたとはいえ、さすがに何も無かったみたいだ。


 着いてすぐにお風呂を借りて、その後もまだ仕事中の家主に挨拶してから布団に入った。ちゃんとした寝具で眠るのは久しぶりで、人の家なのにガッツリと眠ることができた。ずっと取れなかった疲労感は随分とマシになっている。今更ながら、睡眠の大切さを実感した。


 駅からはそこまで遠くないはずなのに、この部屋はとても静かだ。防音対策がしっかりしているマンションなのだろう。常に誰かの気配がするネットカフェとは全く違う。


 でも流石に同じ居住区内の音は伝わるから、廊下の向かいの部屋の扉が開き、川岸がリビングの方へ歩いていくのが聞こえてくる。キッチンへ回ったのか水を流し、ガスを点ける音がする。

 気になった穂香が部屋を出て、そっとキッチンを覗いてみると、Tシャツにジャージ姿のラフな格好の川岸がケトルに火をかけているところだった。


「おはようございます」

「ああ、おはよう。ちゃんと眠れたか?」


 カウンター越しに声を掛けると、川岸が振り返る。前髪が普段とは違う分け目になっているのは、寝ぐせだろうか?


「はい、意外なほど、ぐっすりと」

「それは良かった。インスタントだけれど、飲むか?」


 片手で瓶を持ち上げて、穂香の方にラベルが分かるよう見せてくる。お手軽価格の大手メーカーの物だ。黙って頷き返したのを確認すると、川岸は食器棚からマグカップを二つ取り出して珈琲を淹れ始めた。

 完璧主義の彼のことだから、拘りの豆を一から挽いて淹れるイメージを抱いていたけれど、インスタント珈琲が出てきたのには少し驚いた。効率重視なんだろうか?


 キッチンの棚の上に、彼のイメージそのままの本格的なコーヒーメーカーが置かれているのが目に入ったが、あれは使わないんだろうかと眺めていると、川岸が気まずそうに苦笑いする。


「あれは元カノが使ってたやつで、俺はちょっとね……」

「使い方が分からない、とか?」


 「ああ」と照れ笑いして頷く上司に、穂香は思わず噴き出した。穂香の反応に、川岸が慌てて言い訳し始める。


「いや、取説を見ればちゃんと使えるはず。ただ、こういうのって分解してから洗わないとダメだろ? それが面倒で――」

「分かります。インスタント最強ですよね」


 お湯を注いで淹れた珈琲に、パックごと手渡された牛乳をたっぷりと注ぎ足す。ほど良い温度のカフェオレは、昨晩に少し食べ過ぎて凭れ気味だった胃にも優しい。向かい合ってダイニングテーブルに腰かけると、目の前には無造作に袋ごと置かれたミニクロワッサン。コンビニで5個入りで販売しているやつだ。そう言えば、さっきの牛乳もコンビニの商品だった。オーナーでもコンビニで買い物するんだと、少し親近感が湧いてくる。


 穂香の抱いていた川岸のイメージは、拘って淹れたブラック珈琲に手早く調理したホットサンドか、パン屋さんの焼き立てのバターロールだ。寝起きからびしっと隙が無く、常にこちらに緊張感を走らせるような。

 少なくとも寝癖の付いた髪のまま、コンビニのパンを齧ってカフェオレを飲んでいる姿は想像できなかった。


 ――オーナーって、意外と庶民派なんだ……。


「あ、そうだ。オーナー、今日は何時頃に出ていかれます?」


 定休日の穂香と違って、川岸は今日も仕事があるはずだ。彼より先に出ていくのが筋だと、目の前でまだ眠そうに欠伸を漏らしている上司に確認する。昨晩は勢いで泊めて貰うことになったが、必要以上の長居は迷惑だろう。

 というか、この状況はいろいろと問題があるはずだ。


「いや。今日は君の用事に付き合うつもりで、夜の内に仕事はおおかた片付けてある。家のことは早いうちに何とかした方がいい」

「それはそうなんですけど……」

「鍵を交換するのも、引っ越すのもすぐって訳にはいかないだろ。どうせ、あの部屋はずっと使ってないから、好きにしてもらっていい」


 そういって立ち上がると、リビングの引き出しから合鍵を取り出してきて、穂香の前に置く。黒猫のキーホルダーが付いたそれは、例の婚約者が以前に使っていたものだろうか。


「ネットカフェをホテル代わりにするよりはマシだろ」

「いえ、でも、世間体とかいろいろありますし……」


 大体、オーナーのマンションに居候してるなんて、他のスタッフにバレた時に何て言い訳をすればいいのか。それに、ご近所にオーナーの変な噂が流れでもしたら、申し訳ない。


「そうか。俺はそういう細かい事を気にする歳でもないけど、確かに世間体はあるな。じゃあ、俺が代わりにそっちの家に住もうか?」

「いやいやいや。万が一、あいつと鉢合わせになった時、修羅場確定ですからやめて下さい! そもそも私、すでに同棲してたから、そういうのは気にしないですし」


 首をブンブンと横に振って否定する穂香のことを、川岸はおかしそうに笑って見ていた。揶揄われただけだと分かると、穂香はかーっと顔を赤らめる。

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