第2話・セレクトショップ『セラーデ』

 朝、ベッドで横になったまま見上げた天井に向かって、穂香はハァと大きな溜め息を吐いた。古びたビジネスホテルの、日焼けして黄ばんだ壁紙。ベッドの他には備え付けの机と椅子があるだけの、簡素な空間。

 目が覚めた時にはバカバカしい夢だったと笑い飛ばせると思っていたのに、昨夜のことは残念ながら現実だったと思い知らされる。


 ユニットバスに用意されていたリンスインシャンプーが合わなかったのか、普段よりもまとまりの悪い髪にテンションが一気に下がった。空調が強すぎたのか、喉にも違和感はあるし、最低最悪の気分だ。


 素泊まり5000円の駅前ホテルで、コンビニで買って来ていたサンドイッチを頬張って、ペットボトルの緑茶で流し込む。チェックアウトの時間を逆算しつつ身支度を整えると、壁に貼り付けられた姿見に向かって作り笑顔を浮かべた。


「おはようございます」


 自宅マンションのある最寄り駅から乗り換え無しで4駅。駅から直結したショッピングモールの建物をぐるりと回り込み、従業員専用口から入店する。警備員や他店の店員など、すれ違う人達に挨拶をしつつ、薄暗いバックヤードを抜け、まだ照明が点いていない店内を進んでいく。主にレディース商品を扱う店舗の並びに、穂香の勤務するセレクトショップ『セラーデ』はある。


 テナントの中では少し広めの50坪の店内は、オーナーが買い付けてきたブランドの洋服が並んでいて、色とりどりでとても華やかだ。働く女性向けのキレイめカジュアルな商品達。ゆったりと余裕のある陳列の割に、値段は意外とお手頃価格だからリピーター客も多い。このモールに入っているアパレルショップの中でも人気店の内には入るだろう。


「弥生さん、おはようございます」

「あ、おはよう……って、なんでスーツケース?」


 ガラガラと大荷物を引き摺りながら出勤してきた後輩へ、北村弥生が目をぱちくりさせて聞いてくる。


「えっと、昨日いろいろあって、しばらくマンションには帰れなくなったというか……」

「彼氏と喧嘩でもした?」

「いえ、喧嘩にすらなってないです」


 何それ? と言いながら、弥生はフロアモップで開店前の掃除を始める。穂香も慌ててストックルームへ入ると、従業員用のロッカーの横にスーツケースを立て掛け、用具入れの中からハンディモップを取り出す。ネームプレートを付けながら店頭へ出て、壁面什器から順に埃を手早く払っていく。一晩で積もった綿埃がさっと拭うだけでキレイになっていく、この瞬間が結構好きだ。


 平日の早番が終わる時刻は、まだ駅前を歩く人も多くて賑やかだ。すれ違う人は皆、目的地があって歩いている。立ち寄る店や帰る家、それらに向かって進んで行く人達を横目に、穂香は駅前ロータリーのベンチでスマホの画面を見つめていた。


 昨晩は急だったから仕方ないにしても、毎日ホテルを利用する訳にもいかない。連泊すれば諭吉が飛んでいくのだ。仕事柄、着る物についお金を掛けてしまう上に、何だかんだとずっと二人分の家賃光熱費を負担していたから、正直言ってあまり余裕がない。かと言って、急に泊めてくれるような知り合いも近くにはいないし、自宅へ帰るのも怖い。


 朝までの時間を潰すだけならカラオケかファミレスか。でも、翌日の仕事のことを考えるとシャワーも浴びたいけれど、近くにスーパー銭湯なんて見当たらない。せめて昨日のホテルよりも安いところは無いかと近辺の宿泊施設を検索してみる。

 と、検索サイトの画面下に表示されたバナー広告に目が留まった。9時間パック1500円の文字に、穂香は顔を上げた。すぐ目の前のビルに、まさにその広告の系列店がデカデカと看板を掲げているのだ。


「……ネカフェ、か」


 大学の時に友達と一度行ったきりだ。個室で二人並んでコミックを読みまくった記憶しかない。でも、今から翌朝まで過ごしてもビジネスホテルよりは随分と安く済むはずだ。穂香はベンチの前に立てていたスーツケースへと手を掛ける。


 緊張しながらネットカフェの自動ドアを潜り抜けると、フロントには学生バイトらしき若い男の子が待ち構えていた。会員登録の為の手続きを済ませ、案内されたブースは穂香の身長と同じくらいの高さのパーテーションで仕切られていた。個室の中には大き目のリクライニングシートとデスクトップPCが一台。入り口扉は透明のアクリル板で、閉めていても通路からは丸見えだったが、貸し出しされているブランケットを掛けて目隠しするのはOKみたいだ。


「すみません、後でシャワールームを使いたいんですが――」

「では、シャワーセットをお持ちしますね」


 入店の際にシャワーは使用料が無料と聞いたので、早速お願いしてみる。きっとここもリンスインシャンプーしか無いだろうと、来る前に駅前のドラッグストアでトラベルサイズのシャンプーセットを購入してきていた。一分でも早く、このギシギシする髪を何とかしたい。


 シャワーを浴び終え、備え付けの風力の弱いドライヤーでどうにか髪を整えた後、穂香は自分のブースへと戻る。途中、ドリンクバーで飲み物を確保して、コンビニで買って持ち込んだお弁当で少し遅めの夕食にする。ホテルに比べるとかなり狭いのは当然だし、パーテーションを一枚挟んだ向こうには他の客の気配を感じる。正直言って落ち着かない。けど、安さには抗えない。


 ――部屋の鍵を替えていいか、不動産屋さんに確認しないと……。


 栄悟が持ったままの合鍵の行方が分からないとなると、鍵の交換しか解決策が思いつかない。

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