夜の小田原

 ストッキングを替えようとロッカー室へ行った。ロッカー室の重い扉を開けると、無菌室のように殺風景な部屋にロッカーが墓のように冷たく並ぶ。自分のロッカーへ着くとストッキングを脱いだ。濡れたストッキングを絞る。だらだら水が滴り落ちる。


 ふと、床の上に何かが金色に輝いていた。目を凝らす。光り輝く名刺だった。全面が金色の名刺には、小田原駅前・栄町のスナックの看板でしか見たことのない耽美なフォントで「奇跡少年東京 小田原支店・水無月咲夜」と書かれている。


 ――女性向け風俗か。男に金を払って性感マッサージを受ける。後輩の女子たちがハマっているらしい。興味が湧いて調べたこともあったが、結局一回も行かなかった。だけど、この名刺っていったい誰が落としたんだろう。わざとらしく、ロッカーの目の前に置かれたような気がする。とにかく視界に入れたくない。


 名刺をどけようと足を載せた。黒いストッキングの足から名刺がはみ出て妖しく輝く。わたしの足元に自分の知らない世界がある。そう思った瞬間、急に心臓が高鳴った。


 真面目一辺倒で生きるとやがてどん詰まる。生真面目な同期ほどすぐ会社を辞めていった。そうだ、遊びを覚えれば生産性向上につながるかもしれない。屈んで名刺を拾い上げ、書かれていた番号に電話をかけた。


 呼び出し音が鳴る。一回、二回。緊張で喉が乾く。三回目の呼び出し音が鳴った。その直後、スマホのスピーカーから柔らかい女性の声が聞こえた。


「はい、こちら、女性の夢を応援・奇跡少年東京です」


 声を聞いて緊張がふっと途切れる。


「申し訳ありません。本当に突然ですが、今日の夜に小田原駅前まで来てくれる子っていますか? 薄幸の美少年、できれば弟タイプのイケメンを紹介してほしいんですが」


 ふと出た好みの男のタイプに、自分でも笑ってしまいそうになる。夫の見た目がまさにそれなのだ。放っておけば、この世ではないどこかに消えてしまいそうなタイプ。その夫は出張で家にいない。同居する両親には「仕事のトラブル対応で職場に泊まった」と言えばいいだろう。


* * *


 午後十時、小田原駅前の小洒落たホテルの部屋から小田原の夜を眺める。中心部の町割は、北条氏がこの街を作った室町時代からほとんど変わらない。遠くにはライトアップされた白い小田原城が気高く輝いていた。

 下を見る。鎖帷子のように張り巡らされた路地が広がり、街灯の甘ったるい光、居酒屋の仄暗い光など様々な明かりが何色も重なって騒々しかった。路地ではヤンキーが叫んでいた。

 

 汚い声を出しやがって。倉庫のスピーカーのほうがよっぽど美しく音を出してくれるし、安価で働いてくれる。生産性が高い。

 心のなかで蔑んでいるとノックする音が聞こえた。いよいよだ。意を決してドアを開ける。


 目の前に男が立っていた。漆黒のウルフカット。まったく凹凸のない肌は白く、顔は薄く化粧をしている。細くて直線の眉。深い紺青色の瞳はカラコンを入れているのだろう。ヨーロッパの自動人形のような美しさ。こちらが人生のすべてを尽くし。丁寧に扱わないと儚く崩れてしまう男。思わず息を飲んだ。


 服はゆったりとした紫のビッグTと黒スキニー。ふと、卒業旅行で行ったソウルを思い出した。江南のコエックスモールにこんなイケメンが大勢歩いていた。


「はじめまして。水無月咲夜です。よろしくお願いします」


 拾った名刺の子だった。運命を感じる。挨拶は滑らか。目はまっすぐこちらを見つめていた。男がいたずらっぽく笑う。ああ、やっぱりイケメンを眺めると健康にいい。胸が高鳴った。


「よろしくお願いします」


 緊張しながらつい頭を下げる。


 ソファーに腰掛け、咲夜から軽いカウンセリングを受ける。緊張で喉が乾き、咲夜が持ってきたペットボトルの水をカウンセリングが終わるまでずっと飲んでいた。


 カラダを洗ったあと、バスローブ姿でベッドに座る。バスルームから咲夜が現れた。バスローブの隙間から見える咲夜の裸体は、獣のようにたくましかった。


「それでは施術のほうに参らせていただきますね」


 咲夜は丁重に言うと、バスローブを脱いで上半身をむき出しにした。細い腰には、青い花の刺青が絡みつくように緻密に彫られている。なんだろう、この花は。


「咲夜さん。よかったらでいいですが、何の花か教えていただけないでしょうか?」


 刺青をじっと見つめる。吸い込まれるような青。


「リンドウですよ。美しいでしょ、触ってみます?」


 咲夜がわたしの手をとって指でなぞらせた。指先から咲夜の体温が伝わり、カラダが一気に火照った。ベッドにうつ伏せると背中にひんやりとしたマッサージオイルを垂らされ、咲夜の細い指で触れられる。


 気になることがあった。この顔はどこかで見たことがある。


「咲夜さん、昼はどこで働いている?」


 我ながらなんて図々しい言葉が出たんだろうと若干後悔した。


「ヘルメスの倉庫です」


 咲夜がすぐ返事をした。やっぱりあの緑か。


「へえ、わたしもヘルメスで働いているのよ。どこの工程?」


「梱包です」


 次に生み出す仲間が、咲夜の仕事を奪う。食らい尽くす。


「さっさと金を貯めて派遣から足を洗った方がいいわよ。契約書のとおり働いてくれればいいだけの奴隷だもの。まだ風俗のキャストの方がマシ」


 咲夜はじっと黙った。


「……いまのは言い過ぎたね」


 反省。デリヘル嬢に説教するおじさんは聞いたことがあるが、いつのまにか同じようなことをしていた。だが、それでも説教しなければいけない。咲夜は変わらなければならない。正義感。使命感。みな、先行きが不安だから、弱そうな人間を見つけて叩いて強くなった気になる。そんなクソッタレた社会を咲夜には強く生きていてもらいたい。


 振り返って男の目を見る。なぜか哀れんだ目をして問いかけてきた。


「お仕事、お辛いのですね」


 当たり前。数千万円、数億円。それが仕事に求められる経費低減のノルマ。青の責任も重大。緑とは違う。


「いえ、特にそうでも……」


「そうですか。顔色が優れないようだったので心配しました」


 咲夜が耳元でささやく。吐息がくすぐったい。頭が混乱する。逃げなければいけない。そう思ってつき飛ばそうとした。だが、咲夜が強く抱きしめる。だんだんと心が蕩けていく。やめて。時給一〇〇〇円程度で使い捨てる緑が、数億円の仕事をする青を誑かしていけない……。


 それからどんなことをされたか、あまり記憶に残っていない。気づいたときにはすでに朝だった。くしゃくしゃのシーツの中で目を覚ました。二日酔いで頭が割れるほど痛い。いつの間にか酒を飲んでいたらしい。咲夜はもうすでに帰っていた。土曜日で休みだから、チェックアウトまでゆっくりいられる。そういえばリンドウの花言葉ってなんなんだろう。スマホで調べようとテーブルに手を伸ばすと、メモが置いてあった。咲夜からだった。


「免許証落ちていましたよ。また呼んでくださいね。音羽芽衣さん、これからも、ずっとよろしくお願いします」


 免許証なんて落としたっけ。テーブルの上のスマホを手にとり画面をつける。メッセージが届いていた。沖宮からだった。


「今度、音羽の家に行きたい。美羽の仏壇に線香をあげたい」




 酔いが醒めた。妹の美羽が死んで十一年経つ。沖宮は、美羽の彼氏だった。

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