第1章 三島早希

第3話 早希と信也


「え……」


 放課後の校庭。

 無言で遠ざかっていく秋葉の背中を、信也が力なくみつめていた。





 信也の高校生活は、この半年ほどの間に激変していた。

 幼馴染の秋葉あきはによると、塚本という、同学年の連中から一目置かれている人気者に、目をつけられてしまったらしかった。

 その塚本のおかげで、クラスはおろか、学年中からいない者扱いをされだしたのだ。

 身に覚えのない集団無視という嫌がらせに、流石の信也も困惑した。

 しかしそんな中でも、秋葉だけは信也の味方だった。


 子供の頃から母親同士仲がよかったこともあり、姉と3人、よく一緒に遊んだ幼馴染。

 思春期になり、互いの体の変化に戸惑い、周囲にからかわれることもあったが、同じ高校に入ってからも、秋葉との関係は昔と変わらなかった。

 3年前、父が蒸発して自暴自棄に陥った時も、秋葉は寄り添い励ましてくれた。


 信也にとって秋葉は、何物にも代えがたい、大切な存在だった。

 いつものように校庭で彼女を見つけた信也は、


「秋葉、一緒に帰るか」


 そう言った。

 その声に立ち止まり、ゆっくりと振り返った秋葉。

 しかしその表情に、信也の胸はざわついた。

 父が消えたと、母が泣きながら言った時と同じような感覚。


「……」


 信也を見ているようで、遠くを見つめている大きな瞳。その瞳からは、様々な感情が見て取れた。


「……秋葉?」


 しかし秋葉は答えることなく視線を外すと、再び歩き出した。

 それは、ほかの生徒たちと同じ行動だった。

 秋葉もまた、信也をいない者にした瞬間だった。

 遠ざかっていく秋葉の背中を見つめる信也。

 やがて視界から秋葉が消えた頃、信也の中に一つの答えが出た。


「そうか、秋葉も……いや、よく頑張ってくれたよ。ありがとな、秋葉。こんな俺に今まで付き合ってくれて」


 そうつぶやき、信也は小さく笑った。





「……」


 目を開けると、遮光カーテンの隙間から朝の光が見えた。


「……久しぶりに見たな、あいつの夢なんて」


 人差し指を目にやると濡れていたが、不思議と気持ちは穏やかだった。

 大きく伸びをして目覚ましを止める。そして、枕元に転がっている缶コーヒーを手にした。

 一口飲むと、口の中に生ぬるい苦みが広がり、彼、紀崎信也きさき・しんやの頭が回りだした。そのまま一気にコーヒーを飲みほし、シャツを脱ぐ。


 今日は5月25日金曜日、週末の出荷が15時から。定時になったら班長会議に出席して、来週以降の商品の台数を確認して……

 着替えながら今日一日の動きを確認する。

 徐々に頭が仕事モードに変わっていき、工場ラインの副作業長らしい表情になっていく。


「ん……?」


 ふと信也が、いい感じに覚醒していく自身に違和感を感じた。

 妙に頭が回るし、体の調子もいい。

 いつもと変わらない睡眠時間のはずなのに……なんだこの、すがすがしい気持ちは。


「ぬおっ!」


 時計の針は7時半をさしていた。

 優雅な朝の終わりだった。信也は飛び跳ねるように立ち上がって眼鏡をかけると、玄関に向かって走り出した。





「……と言うことで、今日の15時の出荷に合わせてみなさん、段取りの方よろしくお願いします。あと、生産の方ですが目標数値に対して順調に進行してますので、来週も水曜以外は定時となります……あ、副長も来られたようですね。みなさん今日も一日、よろしくお願いします」


「……はぁ、はぁ……ま、また間に合わなかった……」


 ラインの作業長から朝礼を任されて2か月。まともに来れたのは数えるほどしかなかった。

 肩で息をする信也に、作業員たちが冷やかし半分に挨拶していく。


「副長、おはようございます。今週、朝礼全滅ですね」


 意地悪な笑みを浮かべながら、朝礼を済ませた女が信也に近づいてきた。


 女の名は三島早希みしま・さき


 今年23歳になる彼女は、4月から配属された信也直属の部下である。

 大阪府茨木市にある大手電機メーカーの工場に、派遣社員として入ってきたのは2年前。

 その真面目な勤務態度を認められ、今年から正式に社員として採用されていた。

 工程管理や段取りする能力を作業長に見込まれ、ラインの副作業長である信也のサポートを任されている。


「作業長、怒ってましたよ。4月に副長にあがったばかりなのに、なんで紀崎はこうも朝に弱いんだ。仕事の手際も段取りも完璧なのにって」


「いやその、それは……って、ごめん三島さん。悪かった」


「あれ? 今日はずいぶん素直ですね。いつもみたいに言い訳してくれないんですか? 私、副長の朝の言い訳が楽しみなのに。ほら、前みたいなやつ。突然電車が逆走したんだ、とかなんとか」


「いや、だから……勘弁してください。この後作業長にも絞られるんだから」


「ふふっ、分かりました。じゃあ一週間分の朝礼は貸しってことで」


「お昼にジュースでもおごるよ」


「えー、ジュース一杯でチャラにする気ですかー」


「あ、いや……わ、分かったよ。なんでも言ってくれ」


「ふふっ、じゃあ考えておきますね。それから副長」


 そう言って、早希が胸ポケットから小さな櫛を取り出した。


「また寝ぐせ、ついてますよ」


「いいよ。どうせ作業帽かぶるんだし」


「駄目です。帽子をかぶるからこそ、ちゃんとしてないと。帰りに爆発してますよ」


「爆発でもいいよ、この頭で電車に乗って来たんだし」


「駄目です。私が見たからには、ちゃんとしてもらいます」


 くすくすと笑いながら、早希は信也の髪に櫛を入れた。





 週末の出荷も終え、班長会議を乗り切った信也が、ロッカー室に向かい安堵のため息を漏らした。


「お疲れ様でした、副長」


 早希が意地悪そうに笑う。


「ああ、お疲れ。それと……ありがとう、助かったよ」


「工程管理の会議なのに、副長の遅刻が議題にあがるとは思いませんでしたよ。ふふっ」


「でも助かったよ。あそこで三島さんがフォローしてくれなかったら、下手したら降格って話になりかねなかったから」


「いいですよ。私も副長のおかげで、今こうしていられるんですから」


「俺は別に、何もしてないだろ」


「このラインに来てからずっと、副長に手取り足取り教えてもらってるんです。正社員になったばかりの私が班長会議に出席出来てるのって、副長のおかげなんですよ」


「特別なことはしてないと思うけど、そうなのか?」


「そうですよ。でも、そうですね……じゃあ、今朝の貸しと一緒におねだりしていいですか?」


「そうだった。今朝って言うか、一週間の貸しだったな。何か思いついた?」


「副長、来週の金曜ってお時間とれませんか」


「来週の金曜? 特に用事はないけど」


「じゃあその日、仕事終わりに付き合ってくれませんか。相談したいことがあって」


「別にいいけど。なんなら今からでも」


「いえ、来週の方が都合がいいので」


「分かった。でももし深刻な相談なら、いつでも言ってくれていいからな」


「ほら、そう言うところですよ。本当副長、面倒見がいいから」


 そう言って早希が小さく笑った。





 真っ暗な部屋に入り電気をつけると、朝の惨状そのままになっていた。

 布団の上に折り畳みテーブルを置き、コンビニ弁当を広げる。

 味わいながらと言う訳でもなく、目についた物から順に口に入れていく。

 最後にお茶で胃袋に流し込む。あっと言う間の食事だった。


「ふうっ……」


 煙草に火をつけ、白い息を吐く。この時間が信也にとって、一日で一番至福の時だった。

 その時携帯電話がなった。憩いのひと時を邪魔されたような気になり、小さくため息をつく。


「もしもし……ああ、母ちゃんか。ああ、うん、今帰ってきたところ……大丈夫、ちゃんと食べてるから」


 信也の母、幸子からだった。

 生返事を繰り返す信也。しかし、表情は穏やかだった。


「明日? まあ、特に用事はないけど……分かった、じゃあ帰りにそっちに行くから。うん、うん……分かった。じゃあ明日」


 そう言って通話を終えると、携帯を布団の上に放り投げた。


「明日は家に泊まりか……なら、あさっての予定は決まりだな」


 そう言って、ラックの上に並べてある石に目をやり、小さく笑った。

 携帯が再びなった。手にすると、メッセージが届いていた。

 早希からだった。


『副長、明日は寝坊しちゃダメですからね。早く休んでくださいよ笑』


 メッセージに笑みを漏らしながら、信也は「了解」と返信すると、


「確かにそろそろやばいよな。今日は早く寝るか」


 そうつぶやき、風呂場に向かった。



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