群遊の一片~環獄の一片SSまとめ番外編短編集~
迷昧 捺
Page:01 ぼくのおとうとは、なまずみたいでした。
「
「うん。家族で遊園地に行くんだ」
友達と話しながら、遊び終わって片付けの始まる夕暮れの帰り道を歩いた。ランドセルにつけたジンベイザメのフェルトマスコット、防犯ブザーと防犯用の鈴、給食袋、通学定期が、少し煩雑な音を立てるのだって心地良いくらいだった。
明日からは待ちに待った大型連休で、僕は子どもなりにそれを楽しみにしていた。どのくらい楽しみだったかといえば、長期休暇用の課題を休暇が始まる前に作文以外全て終わらせて、毎日家族とどこに出かけるかの話ばかりする程度に、だ。
だから。
「えっ。遊園地、中止……? な、なんで? 昨日は行くって」
「
「あ、――う、うん。わかった」
自分の要求が他人の寝返り一つで容易く却下されてしまった事実は、慣れていたとしても、やはり子どもの僕にはどうしても受け入れがたいものだった。
「照美はお兄ちゃんだから、凪沙に優しくできるわね?」
「う、うん。僕、お兄ちゃんだから! 水族館、とっても楽しみ!」
それでも、僕はなまずにはなれなかった。その日の僕はただの、人間にしかなれなかったんだ。
【Page:01 ぼくのおとうとは、なまずみたいでした。】
そんなわけで家族の遠出が決行される日。
いつもは仕事に行くお父さんの車に、大きなクーラーボックスと僕ら兄弟の遠足用リュックが積み込まれた。
何も一日水族館に費やすわけではなく、いつものルート――水族館を楽しんだあとで浜辺で一頻り遊んで帰る、というわけだ。何ともまあ、立派な長期休暇のプランだ。これが恒例のものでなければ、僕はもっと喜んでいたに違いない。
小綺麗にめかしこんだ母と、普段よりもラフな格好をしている父は、リビングで「今日は一段と綺麗だよ」「あなただって」と朝から抱きしめ合ってキスをしていた。
我が家では日常の光景。仲良しなのはとてもいいことだ、と学校の先生に教わったけど……正直、子どもに見られて恥ずかしいと思わないのかは気になった。この前の保険の授業で習った思春期とかいうものが僕にも平等に訪れているということだろうか。
「僕、なぎさのこと起こしてくるね」
聞こえてはいないだろうが、居た堪れない僕はそうひと声掛けて弟の自室に向かった。階段を駆け上がり、自分の自室より奥まった場所の扉を強くノックする。
……当然、弟からの返事はない。
両親は知らないだろうが弟は小学二年生にして昼夜がめちゃくちゃになっているのだ。毎朝僕が起こさないと登校することだってできない、困った弟だった。
「なぎさーっ! いつまで寝てるの、ねぼすけー! 起きてー!」
弟の自室の扉を少し乱暴に開けるとまた当然のように、こんもりした布団の膨らみがベッドの上に鎮座していた。
……今日は、扉に細工がない。ラッキーだ。弟は僕に起こされることに抵抗して、ときどき何か良くない細工をする。この前は、そう、足元に縄跳びが張ってあった。だから僕は足元ばかり見ていた。
「痛ぁっ! あうぅ……っ、――もう!! こらぁ! なぎさー!」
下を向く僕の頭部に降り注いだのは、ラメ入りのスーパーボールの群れ。脳天に直撃した群れが、コロコロとカーペットの上を転がっていく。たんこぶになったらどうしてくれるんだ。
腹立たしい僕は足元にある大きめのスーパーボールを適当に一つ手に取ると、布団の膨らみに向かって投げつけた。子どもの手には大きなボールが、大きな的に吸い寄せられて、ぽすん、と可愛く着地する。弟にダメージは一切与えられなかった。
「……なぎさ」
さて何の反応も見せない弟に少し虚しくなりながら、嫌がって強めに抵抗する布団を引き剥がす。
ひょっとして、弟の身長が伸びたら僕は太刀打ちできなくなるんだろうか、そしたら誰が弟を起こすのだろう、など漠然と思った。
「んうぅ……まぶしい……」
布団の中から深い青色の爆発した癖毛が出てきたので、僕はより強く布団を引っ張って全て剥がす。弟は俯せで丸まっていた。なんだ、起きてるんじゃないか。「早くして」と遠慮なく言うと、弟は呻きながら仰向けになった。
せっかくの可愛い顔をぎゅうっと窄めて、布団の上で緩慢にだが日差しを防ごうとしている弟。僕のお下がりの灰色のスウェットと紺のジャージは僕が小柄なせいか、それとも弟が大柄なのか、既に丈がぴったりに見えた。
「ねえ早く起きろって。もう朝の七時半。八時には出発するって昨日言われたでしょ」
「……いかない。連休に遠出なんて頭わるいことしたくない。テキトーにぼくはおなかがいたいってことにしておいて」
「は、や、く、し、ろ! ほら、着る服どれ! 髪もとかさないと!」
弟はお腹が痛いから行きたくないって、などと馬鹿正直に両親に言ったら今日の遠出が中止になるじゃないか。楽しみにしていた遊園地もなし、妥協案として出された水族館もなしに、弟の付き添いで家族総出で休日診療可の救急センターに……なんて連休の思い出としては最悪だ。それをどう感動的な休暇の作文にしろって言うんだ。
僕は、弟の腕を引っ張ってベッドの下に引きずり落とした。ゴツン! と大きな音を立てて嫌がる弟は床に落ちた。ちょっと可哀想になったが、医者も認める骨太な弟なのでこのくらいでは怪我はしないだろう。
未だに寝ぼけたままの半目で恨めしげに睨まれたので、僕は渾身の嫌味を込めた顔で睨み返す。弟の昼夜がめちゃくちゃなのが悪いんだ。出かけるって分かってるのにちゃんと目覚ましをかけないやつが悪いんだ。
それから服を着替えさせて、靴下を履かせて、大きな欠伸をする弟を洗面所に引っ張って連れていき、歯を磨かせて、顔を洗わせて、イカれた寝癖のついた髪をどうにか梳かし終わってから、弟を連れてリビングに戻った。八時はとうに十五分ほど過ぎていた。
「あら。凪沙、自分で起きられたのね。今日のお洋服もとっても可愛いわね。水族館にぴったり」
「――えへへ〜っ! 兄ちゃんとね、いっしょに、がんばって、えらんだんだよ!」
「そうか。凪沙もママに似て、服のセンスがいいんだな。かっこいいぞ」
「でしょ〜! えへへ!」
弟に対して憤りが滲みそうになったけども必死に笑顔で塗り固めて、無言で親子を見守る。もう少し冷静でいないと。お兄ちゃんなんだから。弟が少し大袈裟に物を言うことくらいは許してあげないと大人げないじゃないか。
第一、本当のことを言ったとして僕には何のメリットもないし。
お気に入りの靴を履いて外に出ると――真上の空には真っ白な綿雲、つまり少なくとも午前中は高確率で晴れ。西の空には少し厚めの雲が見えるから、半日後は曇りかも。空の上の風は強そう、さっきから雲がどんどん形を変えていく。天気が大きく崩れないといいな。
「今日、みんなでお出かけだから、晴れてよかった!」
「ああ、そうだな。お出かけ日和だ」
でもこんなに晴れてるなら遊園地がよかった、とは口を滑らせるわけにはいかない。少なくとも父からは返事がもらえたことが嬉しくて、僕は上機嫌に大きく頷いて車の後部座席に飛び乗った。
到着したのは馴染みの水族館で、僕の中に大きな感嘆はなかった。弟の入学祝いもここだったし、この水族館には家族サービスのためのアミューズメント施設として、かなり頻繁に世話になっていた。だからこそ僕が楽しめそうなものはろくにないと来る前から分かっていた。それでも異を唱えないのは、両親と弟は魚や海が大好きだから。
もう少し僕が幼いならば、やだやだと拒否もしたのだろうが小学五年生にもなってそんな我儘を言う気も失せていた。僕は既に家族サービスというものを覚え、両親と弟に合わせて後ろをついていくことが当たり前になっていた。僕一人の我儘で調和を乱すのは得策じゃない、この家では特に。
多い方に従い、少ない方は折れるが吉なのだ。
とはいえ、だ。
「ま、また……はぐれちゃった」
顔を上げずに歩いていた僕は、まだ埃を被るほど昔のことではないのにデジャヴを感じていた。端的に言えば、迷子になっていた。ぽつんと一人、小柄な僕は連休の人混みの中に取り残されている。
少し前まで父と手を繋いでいた。途中の、イワシの群れが泳いでいた大きな水槽の前で弟が抱っこをせがんで、だから僕は父の手を離した。お兄ちゃんだから大丈夫、とその信頼に応えようとして。結果、同じ失敗を繰り返したとあっては、僕はもう両親にどんな顔をして立派なお兄ちゃんをやったらいいか、分からなかった。
……僕は魚が嫌いだ。特に、魚の目玉が嫌いだ。
活きのいいぬらぬら光る目玉も、命がそこにないことを示す深い黒の目玉も、こちらをじっと何も考えずに見つめてくるようで底が見えない。要するに何だか気味が悪くて嫌いなのだ。水族館にしようと言われた時、あまり気乗りしなかったのはそういうことだ。焼き魚になっていても、頭がついていると少し、いや、かなり嫌な気持ちになる。
だから僕はなるべく水槽を見ないし、足元の靴ばかりを見る。父は履き古したような白のスニーカーで、母は淡い青色のパンプスを履いていたはずだ。弟はラメの入ったマジックテープの青い靴だったはず。けれど、そんなもの水族館に来てしまえば無数の靴に押し流されて曖昧な印象しか残っていなかった。
僕はいつから両親の隣ではなく後ろをついて歩くようになったんだか。だから前を向かないと迷子になるって分かってたのに。後悔先に立たず。こんなことなら恥を忍んで、パパ、ママ、僕も手が繋ぎたい、と言えば良かった。
前回、同じように迷子になった時、僕は太平洋の魚たちのいる巨大水槽の前で立ち尽くして泣いていた。迷子アナウンスに呼ばれても動くことすらできずに。けれど、もう同じ轍は踏めない。僕は湿った目元を擦り、泣かないように拳を強く握って顔を上げた。
……と、そこでだ。
人混みの中に見知った顔を見つけ、あっ、と声を上げて駆け寄る。軽く肩を叩くと、弟と同じくらいの背丈の小さな人はふわふわの茶髪を揺らして振り返った。丸く真っ赤なイチイの目が見開かれた。
「えっ。なぎさくんの、お兄さん?」
「
僕が声をかけたのは知り合い、もとい弟の友人の
油木くんは少し緊張気味に胸元のループタイをいじって、どこのブランドか高価そうな洋服の袖を引っ張ったり、革靴の靴先を床に擦ったりしていた。話を聞くところによると、お姉さんと妹さんと一緒に見て回っているらしい。せっかくなので僕も姉妹に挨拶させてもらった。
彼の姉はどのくらい年が離れているのかかなり大人びていて、身長が高く中高生くらいに見えた。妹は油木くんとそう変わらないくらいの背丈だが、どちらかというと聡明そうな顔つきをしている。どちらもあまり彼と似ているようには見えなかった。
ついでに連休の混みあった水族館を子どもたちだけで回っているのを奇妙に思ったので尋ねると、近々、彼らのお父さんの会社とこの水族館が期間限定の提携を結ぶらしく、今日はその話し合いに来たそうだ。大事な会議の間は水族館を好きに見て回るように言われているとか何とか。
住んでる世界が違うとはこういうことだ。きっと彼らは家族サービスとこの先も縁がないだろう。
「お兄さんは一人ですか?」
「あー……、探してる、とこ。あぁその、迷子ってわけじゃなくて、僕一人でゆっくり見て回ろうと思って、家族は先に行ってて、だから……」
急に苦笑しながら歯切れ悪くなった僕を見て、彼はキョトンとしたが深くは聞いてこなかった。そうなんですね、と短く会話が切り上げられる。
できれば弟がそうするように――弟を中心にした関係のため、僕は不覚にも彼にお兄ちゃんらしからぬ言動をするところを見られていた。弟もまた、彼にはちょっと失礼なくらい無遠慮である。――僕も彼と気兼ねなく話したいのだけど、やはり弟の友達というそこはかとない他人の距離感であるのは否めなかった。
彼のお姉さんが微妙な空気の中で助け舟を出してくれる。
「それなら一緒に回ろうか、照美くん。はぐれないようにお姉ちゃんと手を繋ごう。お客さんがいっぱいだから迷子にならないようにね」
「へ? あ、ありがとうございます……でも、僕、だいじょ――」
「まる姉と、てるみにぃにがつなぐから、花も、みっちゃんと手つなぐ」
「う、うん。ありがと、花。いっしょにまわろうね」
油木くんと妹さんが手を繋ぐ。僕と弟とは大違いの関係性に、ほんの少し、喉の奥に小骨が刺さるような違和感を覚えた。
「あ、あの、すみません。せっかく家族で見て回っていたのに」
「え? ああ気にしないで。こういう場所は、一緒に見て回る人が多い方が楽しいでしょ」
子どもたちだけで薄暗い空間での遠足は愉快だった。いつも魚を注視して、弟の話す魚の
それでも魚が水槽のガラス越しでもこちらに近づいてくると、僕は怖くなって体を強張らせてしまった。自然と汗ばんでしまう手が気になって離しそうになる度に、お姉さんがぎゅっと握ってくれる。普段は魚がいないので見に来ないカワウソやカメやクラゲのいるコーナーも、彼らと一緒に見て回った。僕が歩幅を狭めても合わせてくれるのがどうにも新鮮で申し訳なくて何だか複雑な気持ちになっていた。
「れっとてえる、きゃっと、ふぃっしゅ。おさかなの、ねこちゃん?」
妹さんが足を止めて一つの水槽を指さした。変な名前の響きに誘われて、僕も水槽を覗き込む。水槽の中を泳ぐ、濁った黒色の巨体が少し窮屈そうに身をひるがえしてこちらを見た。びくり、僕が反射的に手をぎゅっと掴んでしまうと、お姉さんは反対の手で説明文を指さして僕の視線を魚から反らした。
「ネコちゃんじゃないけど、凄く大きなナマズさんだね。尻尾が赤色だから、レッドテールっていうみたい」
「ぁ、ほ、ほんとだ……せなかのヒレも、あ、赤い。かわいい」
油木くんと姉妹たちが水槽を覗き込み、魚もこちらを眺めている。僕もいつまでも説明だけ読むわけにはいかないので、勇気をもって長い物には巻かれようと水槽の中を見つめて……魚と目が合ってしまった。
心なしか窮屈そうにその魚は体を揺らして、髭を動かしながら何だか不満そうな仏頂面で僕らを見ていた。魚にニコニコ笑われても怖いけど、しかしこのナマズはコメントに困る顔をしているのだ。僕の中にある適切な言葉で表現するなら、へのへのもへじと同じ顔だと思う。
「何だか、おくちが、への字になってる時の、なぎさくんみたい」
「え?」
「あ。え、えっと」
油木くんが正気を疑うことを口にしたので、僕の喉からもいつもの声の高さからかけ離れた低い声が出る。他でもない件の人物の関係者である僕に非難されたと思ったのだろう、油木くんは視線を彷徨わせながら少し早口で弁明を始めた。
「な、なぎさくん、クラスでいやなことがあると、いっ、いつも、おくちがへの字になる、んです。だっ、だから、このナマズとなぎさくんと、にてて……えっと、ご、ごめんなさい……」
僕はかなり驚いていた。僕にはこうもすんなりと弟が不機嫌な時の表情は思い浮かばないのに、彼は弟を容易く思い出してしまったから。友人であることを加味しても本当によく見ているのだろう。反面、僕は弟が見えていないのだろう。強いて言うなら不機嫌な弟は、大きな声で泣きながら僕の髪を引っ張ったり、物を投げつけたりはするが、その時にどんな顔かまでは詳細には思い出せなかった。
しゅんと肩を縮こまらせる彼に僕は「怒ってないよ、ちょっとびっくりしたんだ」と取り繕うが、彼は僕の反応が腑に落ちなさそうに曇った顔をしていた。透明な壁越しに距離感を図りあぐねた僕と油木くんの雰囲気を何とかしようと、お姉さんが横からこんなことを言う。
「ねえ。照美くんも
「ひえ……なまずおばけ……っ!」
「へえ、そうなんですね。ナマズが土の下に……」
そこでようやく僕の頭の中に、今朝の弟の抵抗と窄んだ顔が思い浮かんだ。日光に当たって不機嫌な弟の顔は、確かに目の前のこのナマズを彷彿とさせる。見れば見るほど、何となくそんな気になってきた。水槽の向こうに拗ねた顔の弟がいる。
「……そっか。それなら、うん、弟と似てるかも」
僕が腑に落ちると今度は油木くんの方が腑に落ちなさそうな顔をした。弟も一丁前に、学校や友達の前では猫を被るらしい。しかし、僕と違って彼はクスクス笑って何かを期待する眼差しでナマズの方を見た。
「っふふ。なぎさくんが、なまずおばけになっちゃうところ、ぼ、ボクも一回見てみたいな……」
当の魚は呆れたような表情で、ひげと尾びれをゆったり動かしている。僕は地面の下でいつもの如くバタバタと引っくり返って手足を振り回しながら暴れる弟と、そんな弟の起こした揺れに慌てる家族らを想像した。天変地異なら弟の我儘も仕方がない。きっと弟はナマズでも優秀なナマズになれるだろうと思う僕は、気づけば「ふ、へへ」と声を出して釣られて笑っていた。彼らがどんな顔をしていたかまでは、僕は気に留めもしなかった。
「見つけた。まいごの兄ちゃん……と、ユキ?」
「あっ、なぎさくんだ。ほんとうにいた……」
不意に飛んできた言葉を聞く僕の心のどこかに安心と寂しさがやってくる。くしゃくしゃに握りしめたプリントみたいな心をぎゅっと内側に仕舞って、僕は不思議そうに首を傾げた弟の方へと、お姉さんの手を離して駆け寄った。
「なぎさ! 探したよ!」
「さがしたのは、ぼくの方なんだけど。五年生なのにまいごにならないでよ」
「あっ、ばっ……ちがっ! 僕が迷子なんじゃなくてなぎさが……!」
「前もまいごになったの、わすれてるの? 魚がこわいって泣い――っ、もぐぐっ……!」
「わああっ! 言うなよ……!」
すっかりいつもの調子でやり取りする僕らを、遅れてやってきた油木くんたちは笑って見ていた。急に恥ずかしくなってしまった僕は、それこそ魚みたいに口をパクパクさせる。迷子じゃない体だったのに台無しだ。張っていた見栄がハリボテだと露呈してしまった。所在なくもじもじする僕だったが、そこにすっとお姉さんが屈んで目を合わせてくれる。
「照美くん。お魚が苦手でも水族館は楽しかった?」
そこで初めて僕は、お姉さんが僕は魚が苦手なのが分かっていたことも、敢えて気を利かせて魚の少ない道順で出口の方へと進んでいたことにも気づいた。そういえばいつも家族で見るような大きな水槽の前を、彼らと一緒に歩く間は一度も通っていない。考え至って情けないと同時に、その気遣いのむず痒さが心地いい。
「はい。楽しかった、です。ありがとう、ございました……」
「そうかそうか。よかった! 弟くんも見つかったし、もう大丈夫かな?」
――その言葉が何だか少し、心臓に刺さる棘みたいに痛んだのは知らないふりをする。
「……、はい! 本当に、ありがとうございました!」
お礼に深々頭を下げる。それから今にも逃げ出そうとする弟の手をぎゅっと掴んだ。再び迷子になりたくない気持ち半分、僕の中の行き場のないチクチクの八つ当たり半分。わざとらしく大きく溜め息を吐く弟は迷惑そうな、ナマズとそっくりの、への字の口をしていた。
「ユキばいばい。また学校で」
「うん! ま、またね、なぎさくん……!」
僕たちはそれぞれ別れ、今度は正しく家族の元へ合流することになった。帰るまでが遠足だ。
ところで弟はなぜ一人でうろうろしていたのか道中尋ねたら、飽きたから、と口にした。魚大好き弟が一体何に飽きたのかは分からないけど、今日の水族館はもしかすると弟の琴線に刺さらなかったのかもしれない。まさか両親を放り出して歩き回るとは思わなかったが。相変わらず我儘で気難しい弟だ。
出口付近の案内所のところでは、前回同様どころか状況が悪化し、僕と弟二人揃っていないことに気づいて両手で顔を覆って泣く母と、それを宥め励ます父がいた。今日はまだ聞いていない自分の名前の迷子アナウンスはこれから流されるというところだった。両親にそんなに心配されていたのが嬉しいと思いそうになったが、よく考えたら弟の方を心配しているはずだろうことは想像に難くない。なにせ小学二年生なのだから。
「ただいまー」
「お父さん! お母さん! なぎさ、ここにいるよ!」
やっと帰ってきた息子たちというよりは主に弟を抱きしめる母。泣きながら心配したと叱責する声に、僕の「はぐれて、ごめんなさい」と弟の不満そうな「だいじょうぶなのに……」が重なって、母はもっと泣いてしまった。公衆の面前で何だか居たたまれないけれど、今の僕はもうお兄ちゃんだから我慢しよう。父は、僕らが見つかってホッと安心したようで眉を下げて笑っていた。
水族館はおしまい。次は海に行く。車までの道で、父に抱っこされる弟は機嫌よく足をバタバタさせていた。僕は、はぐれないように父の横にいて、僕の反対隣を泣きはらした目の母が歩いた。手は繋いでないし、やっぱり繋ぎたいとは言えなかった。
「ねえ、なぎさ。お兄ちゃん、なぎさにそっくりな魚を見つけたんだ」
「――え! どんなおさかな!?」
「レッドテールキャットフィッシュっていう、尻尾の赤い魚だよ! なぎさ、知ってる?」
「やだぁ! それ、なまず! ぼく、にてないよ! どこがにてるの、兄ちゃんのいじわる!」
連休の思い出の作文に書くことも決まった僕は満面の笑みで、弟と言い合いをする。弟は、やだやだと大きな声で言って小さな靴で僕の頭を蹴ろうと暴れていた。両親は笑いながら、それとなく窘めつつ見守ってくれる。日常がやっと戻ってきた気分で、寂しさと特別感とで僕は満たされた。
「家族、みんなで、水族館に行きました。えっと……」
どうなることかと思った連休の一幕は、こうして無事に美談となって作文用紙の上に文字になって並んでいる。どう書こうか悩んだが、都合の悪いところは全て省くことにした。だから、僕が迷子になったことも、油木くんたちに助けてもらったことも、両親の恥ずかしいあれやこれやも、僕の中にだけ仕舞っておく。あくまで作文の中の僕は、しっかりもののお兄ちゃんであった方がいいはずだから。
「僕もいつかお姉さんみたいな、立派なお兄ちゃんになりたいな。……えへへ。頑張らなくちゃ」
僕はまた日中のことを思い出しながら鉛筆を握って家族のことも水槽の中身も、ちょっと大げさにそれっぽく書き綴った。学習机のスタンドライトが、ジジジ、と小さな音を立てていた。
――僕の弟は、ナマズみたいでした。
END
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