4齢

「少しここで待っていてね」

 私は指先で摘まんだユメを鉢植えのほうのミヤマオモイデバラの葉の上にそっと載せた。ユメの食欲は加速度的に増していた。昨日までにとうとう鉢植えの葉を全て食べ尽くしてしまったので、カイエダ君が今朝、新しい鉢植えを用意してくれたのだ。

 3回目の脱皮を終えて4齢となったユメは、手に持つとさすがに少しずっしりとした感覚を覚える。今はもう、中指の先から第3関節までの長さを越すほどの体長になった。一週間前に孵化したばかりの頃は爪よりも小さかったことを思えば、ユメの成長速度はやはり驚異的だ。

 そして、驚くことといえばもう一つ。私自身もこの一週間でユメを素手で触ることに何の抵抗もなくなっていた。あれだけ芋虫という存在を恐れていたのが嘘のようだ。初日にイガタさんが言った通り、育てているとどんなものでもだんだん可愛く思えてくるものらしい。それにユメの体の何割かは私の記憶で作られている。愛おしいと思えるのは、そのせいかもしれない。

 ユメは大人しく、しかし、貪欲にミヤマオモイデバラの葉を貪り続けている。私はユメを鉢植えの葉の上に載せたまま、いつものようにケージを掃除していた。

 その時、私の耳の鼓膜は、ぶん……、という微かな音をとらえた。殺気。何かが何かを狙う気配。なぜか私の脳裏に、波を蹴散らしながら沖合を走るボートの残像が通り過ぎた。

 私は咄嗟にローテーブルに転がっていたボールペンを指の間に挟んだ。振り返る。何かを考える前に無意識に手が上がっていた。手に持ったボールペンの重みはユメのそれよりも軽い。手首をわずかに捻り、狙う先に真っ直ぐに投げ飛ばす。


 私がフロントにかけた電話を受けてカイエダ君が部屋にやってきたのはそれから5分後のことだった。

「ごめんなさい。蜂が出たくらいでわざわざ来てもらったりして……」

「いえ、とんでもございません!」

 答えるカイエダ君の表情はいつもよりも心なしか固かった。

「ところでユメちゃんは? 無事ですか? 蜂はどこです?」

「あ、えっと……ユメはその鉢植えの葉っぱの上にいます。蜂は私が殺しちゃいました」

 ただならぬ様子のカイエダ君に、呼び出した私の方が少々面くらい、しどろもどろになってしまう。

 カイエダ君はユメに顔を近づけて、しばらく無言でじっと様子を見ていたが、やがて顔を上げて微笑んだ。

「良かった……無事ですね」

「あの……それはどういう……」

「この辺りにはワスレナマダラアゲハに寄生する寄生蜂が生息しているんですよ。もし、ユメちゃんに寄生蜂の卵が産みつけられていたら大変なことになるところでした。幸い、今見たところユメちゃんの体には蜂の産卵痕跡の孔はどこにも無いようでしたので大丈夫そうですが」

「寄生蜂……?」

「ええ、寄生蜂の卵は孵化するとワスレナマダラアゲハの幼虫の体を内側から食いつくしてしまうんですよ。恐ろしい蜂です。……というか、てっきり寄生蜂のことをご存じだったから、蜂のことで僕を呼んだのだと思っていました」

「いいえ、知りませんでした……ただ、何というか……すごく、いやな感じがして……その蜂に……ただの勘なんですけど……だから不安でカイエダさんを呼んでしまって……」

 私は、その「いやな感じ」を上手く言い表す言葉を見つけられなかった。焦りながら口ごもっていると、視界の端にあるものが入った。

「あ、そうだ……あの、あそこに蜂の死骸……触るのが怖くてそのままにしてしまったんですけど」

 私が指をさした先には、1本のボールペンが転がっていた。カイエダ君はボールペンの傍にしゃがみ込む。私もカイエダ君の後からおそるおそる近寄ってみた。私は、本来は虫嫌いだから、自分が殺した虫の死骸もなんとなく怖かったのだ。

 床に転がったボールペン。そのペン先に1匹の蜂が体を刺し貫かれていた。よく見ると、まだ完全には死んでいないのか、脚がぴくぴくと僅かに痙攣している。

「これは、お客様が……?」

 カイエダ君が戸惑うように私の顔を見上げて言った。

「はい……びっくりして、つい……。あっ、ボールペン、ホテルの備品なのに汚しちゃってごめんなさい」

「あっ、いえいえ気にしないで下さい」

 カイエダ君は、少し慌てたように首を振り、ボールペンを取り上げると、ティッシュペーパーを使いペン先から蜂の体を抜き取った。

「やっぱり寄生蜂でした……危ないところでした。お客様の勘はすごいですねぇ」

 カイエダ君は、白いティッシュに横たわった蜂の死骸を眺めながらしみじみと言った。横から覗くと、もう蜂は動いてはいないようだった。寄生蜂と言っても、黄色と黒のストライプに彩られたごく普通の蜂に見える。こんな小さくて平凡そうな蜂がユメの命を狙っていたことが不思議に思えた。

「こんな蜂がいるなんて知らなかった……」

 思わず私がそう呟くと、カイエダ君は申し訳なさそうな表情で眉尻を下げた。

「事前にお客様に蜂のことをお伝えしてなかったのは、僕の落ち度ですね……。申し訳ありませんでした!」

 カイエダ君は、右手に蜂の死骸入りティッシュを、左手にボールペンを握りしめた格好で深々と頭を下げる。その様子がおかしくて私は少しだけ笑ってしまった。

「謝らないでください。カイエダさんがサポートしてくださるおかげで、私はどうにかここまでユメを育てることができたのだし……。それにしても、これからは掃除の時はもっと気をつけないといけないですね……ケージから出しておく時間はなるべく短くしなくちゃ」

「ああ、それなんですが」

 カイエダ君は、はっとしたように顔を上げた。その目からは、先ほどまでの憂いは消えて、何か面白い遊びを発見した子供のように瞳が輝いている。感情の切り替えが早いのか、見ていて飽きない。

「そろそろユメちゃんの大きさ的にケージは小さいんじゃないかと思いまして。ちょうどユメちゃんの新しい『お家』をご提案しようかと考えていたところなんです。すぐにご用意しますのでちょっと待っててくださいね!」

 カイエダ君は、弾む声でそう告げると、ティッシュとボールペンを持ったまま足早に部屋を去った。そして、数分足らずで、白くて大きな布のようなものを腕に抱えて帰ってきた。

「ユメちゃんを鉢植えのミヤマオモイデバラに乗せたまま、このネットで鉢植えごと覆うんです。これなら、蜂も寄りつけませんし、ユメちゃんも広々過ごせます。それにもうすぐ蛹になりますからね。ケージの中より枝にいた方が体を固定しやすいと思いますよ」

 カイエダ君はベッドにシーツを敷くような仕草でふわりとネットを広げた。家庭菜園の野菜に掛ける防虫ネットと同じようなものだった。ミヤマオモイデバラが雪のように白いネットで覆われる。そして、カイエダ君は、ポケットから取り出した紐で手早くネットの端を鉢に固定した。

「穴が開いてないか、念のため確認してくださいね。あ、あと……さっきのボールペンの代わりに、もし良かったら僕のを置いていきますので使ってください」

 カイエダ君は、そう言って、自分の胸ポケットに差していたボールペンをベッドサイドのテーブルに置いた。


 こうしてユメの居住空間は拡充された。

 目の細かいネットを透かして見るユメの姿は霞がかったようにぼんやりしている。霞の向こうのユメは、自分が恐ろしい外敵に命を奪われそうになったことにもまるで気が付かないまま、ただひたすらに食べて、排泄して、寝て、起きて、また食べる。

 ユメは明日か明後日、幼虫時代最後の脱皮をするのだろう。そして、蛹に姿を変えて、しばしの眠りにつき、目覚めた時には美しい蝶になっている。

 蝶となって羽ばたいたユメの命が絶える時は、私のあの人への思いも消滅する時だ。

 私は、ユメの灰色の影がネット越しにうごめくのを眺めながら、ずっとそんなことを考えていた。

 今、私の掌の中には、カイエダ君がくれたボールペンがある。私はその軸をそっと右の指先で撫でた。指がやけに軽く感じるのはあの指輪を外してしまったからだろうか? 私は本当はまだあの重みを恋しがっているのだろうか? 自分自身に尋ねてみても答えはいつまでも出てこない。

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