65
二週間後、街中の喫茶店で父の泰三と待ち合わせをした。
目雲とゆきとで話し合って、ゆきも同席することにした。父親だけならゆきに害はないだろういう目雲の判断と、話し合いをできるだけ冷静で居たかった目雲の願いと、ゆきも少しだけ目雲の父にタイミングがあるなら聞いてみたいことがあったからだ。
時間通りに一人でやってきた泰三が先に来ていた二人の席に座る。
ゆきと目雲は二人ともオレンジジュースが目の前に置かれており、泰三はコーヒーを頼むとそれが来るまで元気でいるか、仕事はどうだ、ゆきとは仲良くやっているかと、尋ね、それに目雲が短い言葉で答えていた。
コーヒーが届き、一息つくと、しばし沈黙が訪れた。
泰三は正面からゆきを見据えた。
「この前は悪かったね、ゆきさん」
「いえいえ、謝っていただくようなことは何もなかったですよ」
ゆきがにこやかに答えると泰三もわずかに笑みを浮かべ、息子に視線を移すと真剣な表情で単調直入に本題に入った。
「お母さんに会ってみないか」
「会いたくないって言ってるだろ」
「彼女に悪気はないんだ」
同じ会話を何度するのだろうと目雲は思いながらも、自分も同じ答えを返す。
「悪気がないって一番質が悪いって分からないか?」
「それはそうだが」
「これ以上ゆきさんを傷つけないで欲しい」
押し黙ってしまう泰三を見兼ねて、ゆきも目雲にまた同じことを繰り返す。
「別に本当に傷ついてませんよ」
「前回はそうだったしても、次は分からない」
ゆきの言葉を頭ごなしに否定しなくなるくらいには、ゆきを信じてはいたが、信用ならないと思っている母親のことは受け入れられずにいた。
そしてテーブルに沈黙は降る。
もうすでに何度も話していることだからこそ、前進することがないと目雲親子には分かっていたから何も言えない。
だからこそ、異分子だと自覚があるゆきが言葉を挟む。
「あの、お父様。勘違いだったら恥ずかしいんですけど」
息子の彼女が一体どんな内容かと泰三はゆきに視線を寄せる。
「なんだい」
「あの、お父様と、お母様は、その」
どうやら言葉を探している様子に、目雲の方が不思議がる。
「ゆきさん?」
「えーと、分かりやすく言うと、その、ラブラブですか?」
「ラブラブ?」
予想外の言葉と普段のゆきがあまり使わない言い回しに目雲が首を傾げ、泰三の顔も不可思議そうなのを見てゆきはさらに言い募る。
「情愛があるとか、恋い慕い合うとか、蜜月とか相思相愛とか」
「ゆきさん、言い換えなくてたぶん大丈夫です」
目雲には質問の意図もその内容もさっぱり分からなかったが、ゆきの言うことなのでそこは追及しなかった。
そして泰三は今日一番の笑顔を見せた。
「良く分かりましたね」
「そうですよね。特にお母様はお父様にぞっこんですよね」
「伝わりましたか、ただ私もぞっこんです」
ゆきは微笑んでしまう。
「はい、それにご自分の子供達の事をとても恵愛していらっしゃる」
「そうです」
「はい、それならやっぱり傷つくようなことは言われてません」
目雲にはやはり何一つ腑に落ちるものはなかった。
自分の父親と恋人が奇妙な会話をして理解しあっていて余計に混乱する。
「僕には分かりません」
「お母様は嫌味で言ったわけじゃないってことですよ」
「父さんと同じこと言ってますよ」
ゆきは目雲にも分かるように何とか言葉を紡ぐことに努める。
「えっと、お母様、今とてもお幸せなんだと思います。そして多分これまでの人生もとても幸せだった」
「その通りです」
泰三は嬉しそうに笑ったままそう頷く。
どうやら間違っていないようだと、ゆきは自分の印象をそのまま言葉にする。
「お父様と結婚出来て、子供が三人生まれて、その暮らしがとても幸せに満ちていたから、めく……、周弥さんにもそんな風に幸せになってほしいんです」
「そうだとしてもあんな言い方はないと思います、それもゆきさんに向かって」
目雲の言いたいこともゆきにはきちんと理解できていたからこそ、否定はしない。
「あれは言い換えることができます。もしくは補足することで意味がまた変わってきます」
「ゆきさんには分かりましたか」
泰三の嬉しそうな表情に、別の嫉妬を抱き始めていた目雲がさらに眉間に皺を寄せる。
「俺には分からない」
「やってみましょうか?」
「お願いします」
憮然としている目雲に、ゆきはその時の会話を心情を加えて繰り返してみた。
「まず目雲さんが想像してる方を言いますね。結婚しないの? そんな適当な気持ちでうちの息子と付き合う気なの。結婚するつもりがなくてもお付き合いするの? この家に嫁ぐ自覚もないのに挨拶なんか来るんじゃありません。結婚式はするでしょ? 当然でしょ、それくらいの想定がないならさっさと別れなさい。子供のことは? 結婚すればそれくらい当たり前なんですからね。産めるならたくさんいた方がいいわ。一人っ子なんて可哀そうだもの、それに男の子を二人以上ね。こんな風な想像で合ってますか?」
どこか憎々しさが滲むゆきの言葉遣いに目雲は感心すらした。
「ゆきさんは、創作性がないと言ってましたが、嘘ですね」
「これは私が創作したことではなくて、多くの書籍から引き出した統計的ないびるお姑さんの典型です、当たってますか?」
目雲は頷いた。
「具体的に考えていたわけではないですが、そんな感じです」
「では次は私がお母様と話した時の印象で付け足しますね」
「はい」
ゆきはさっきとは違い明るく楽し気に話し始めた。
「結婚しないの? とても素敵なことなのに。結婚するつもりがなくてもお付き合いするの? だって大好きな人とずっと一緒にいるという約束ができるのよ。結婚式はするでしょ? たくさんの人に祝福してもらえるわ。子供の事は? とぉぉぉても可愛いのよ? 産めるならたくさんいた方がいいわ。私の子供達みんな可愛くて素晴らしいの、三人が生まれてきてくれて幸せ。こんな感じでしょうか」
「本当に?」
目雲の眉間にはまた皺が寄ったがさっきとは違い困惑を表していた。泰三が逆にほぉっと明るい表情になる。
「完璧だ」
「これはのろけと子供自慢ですね」
ゆきが泰三に向けて言ったが、目雲は理解が追いつかず首を横に振る。
「とてもあれだけでそんな風には聞こえない」
ゆきはそれに笑う。
「お母様は、とても可愛らしい方ですね」
「彼女は自分が幸せだから、その幸せを君にも味わってほしいだけなんだ。大翔も颯天も結婚したから、周弥もと思っているんだ」
「押しつけだ」
雰囲気は大きく変わり意図も違ってはくるが、それでも強要していることには違いないと目雲には思えた。
「そうだな」
泰三もそれは否定しなかったが、目雲の方が少し譲歩の余地を持ち始めた。
「でもゆきさんを蔑ろにしようとか、認めていないわけじゃないんだな」
ゆきの立場を諭していたわけではなく、自分語りをしたかったのだと腑に落ち始めてはいた。
目雲が泰三に向けて呟いたから、ゆきはそう思った経緯を説明する。
「お母様はたぶん好きな人と生きていくことが素敵で幸せだって言いたかったんだと思います。ついでにお母様自身の幸せ自慢もしたんだと。目雲さんがお嬢様だと言っていたので、当時ご令嬢としての教育を施されたならあまり直接的な物言いはしないかなと思ったんです。女性はまだまだ控えめてあることが美徳な時代かなと、それなのに先進的な考え方なさるんだなとも思いました」
ゆきの抱く印象が何もかも想像と違い過ぎて全く分からなくなっている目雲は混乱に近い戸惑いを持っている。
「どこがですか? 言い方は違いますけど、結局結婚して子供を産むことが幸せだって言ってるんですよ」
「お母様は結果としてそうだったということだと思います。誰かに強要されたことなら、あんな笑顔でおっしゃらないだろうし、もっと含みのある言い方をなさると思うんです。例えばですけど、目雲さんが好きな人ができたと言って男の人を連れてきてもお母様の態度は変わらないと思いますよ、私に言ったことと全く同じことを言ったと思います」
「男同士なら尚更結婚も子供出来ないですけど」
喜美のあの様子だと目雲が愛する人ならば全力で応援しそうな気がしてしまうゆきは、できないことよりできることを考える。
「日本における戸籍上の結婚はできませんが、方法が全くないと言うことはありませんよ。子供も遺伝子や血縁に過度に拘らなければ、我が子として育児をしていく人生も選べます」
「母がそこまで考えると?」
目雲の母が実際どうなのかはゆきに分かる訳もなかったが、それでも言えることはあった。
「私の場合もこの仮定の場合も、考え、決めるのは目雲さんなんです。お母様は自分が体感した幸せな事実を伝えただけですから、考えて選択するのは目雲さんです。その決定をお母様は笑顔で受け入れるだけです。お母様はきっと我が子は絶対に幸せになると信じていらっしゃるんですよ。だから目雲さんには言わずに私に言ったんです。初対面の私にはお母様の幸せも、目雲さんの成長も知る術がないですから」
自分に対して幸せ自慢をしていたんだと思っているゆきは、その中に目雲に何かしてやって欲しいと言う要望は一切なかったと認識していた。ただ自分の幸せパターンを紹介して、一緒のをいかかですかと勧められただけで、それはゆきに対して人生の選択肢の一つを提示したに過ぎない。
自分の息子と付き合っているから、という視点が抜けているような気はしないでもなかったが、それは目雲のことを信頼している証拠でもあるなとゆきは感じていた。
「信じて受け入れる?」
ゆきが行ったあの日も目雲の行動には何一つ口出しをしていなかった。何も言うなと言われていたから、ただの雑談のつもりでもあったのかなとゆきは考えていたが、その上でも喜美のあの陰りのない佇まいは揺るぎない何かを持っている気がしていた。
それが子供に対する信頼も一端を担っているように感じたのだ。
「これまでもそうじゃなかったですか?」
「確かに、母に何かを否定されたり、反対されたことはありませんが」
「あとはお父様がそういうお母様を大事になさったんですね」
ゆきが泰三に向かって言えば、嬉しそうに微笑んだ。
「喜美ちゃんが心の底から笑っていてくれるのが僕の幸せだからね。苦労も掛けたけどそんなことも嫌がらずに僕といてくれて、一緒にいるのが幸せなのは僕の方だから」
「駆け落ちなさってからはやはりご苦労されたんですか?」
宮前から聞いたのだと説明すれば、隼二郎とも久しく会っていないと懐かし気な表情をした後、ゆきに答えた。
「そうなんだ、お金が全然なくてね。僕も絵を描きながら仕事もいろいろして、喜美ちゃんも家事は全然できなくて、でも一緒に覚えてくれたよ」
目雲はハッとした。
「そうだ、母さん料理が全然上手くなくて、それで俺たち兄弟は料理ができるようになったんだ」
目雲の料理のルーツが分かり、中々料理歴が長いからだとその腕前にゆきは納得がいった。
泰三もその頃をより鮮明に思い出したようで、温かくそれでいてどこか面白そうに笑う。
「そうだな、美味い物をたくさん食べたかったら自分たちで作るしかないと言って、特に大翔と周弥は買い物も料理も色々試行錯誤していたね」
ゆきがそれで買い物も上手であれだけのものが作れるのだと、自宅で料理をしてくれる時のことが大いに腑に落ちた。
目雲はそれをきっかけに色々と思い出すことがあるらしく、それを確認するように口にしていく。
「あの家を建て替える時も父さんも母さんもこだわって生活費を圧迫して、その上祖父さんの援助の条件で絵だけで生活するようになって生活費の変動が激しくて中学もしばらくは家計簿と睨み合う生活で裕福とは程遠かった」
「すまんすまん。好きにしていいと言われたらついな。頑張って作品は作って、売ってもらったから大翔が高校に入るくらいまでにはなんとか余裕ができたから許してくれ」
親子の思い出話をゆきは微笑みながら聞いていた。
さらに目雲が続ける。忘れていたからこそ湧き出すように次々と引き合うように思い出されていく。
「それでも母さんはずっと笑顔だった。俺がしたいと言ったことも金がないなりに叶えてくれて」
「いろんな建物見に行ったね、そのおかげで喜美ちゃんのお父さんとも仲直りできたんだよ。僕との仲を反対されて喜美ちゃんは絶対にもう実家に近づくことさえしないと固く決めていたんだけど、先のお父さんの方が折れてね、僕に何度か手紙をくれたり会ったりもしたんだけど、喜美ちゃんは本当にもう取り付く島もなくてね」
その知らなかった事実に目雲はもう表情すら失くす。
「想像できない」
「強い人なんだよ。でもね、周弥が建築に興味が出てきて、たくさん資料を眺めてるのを見て、喜美ちゃんはもっといろんなものを見せたいって思ったんだよ。それには自分のお父さんが一番適任だと思った」
「俺のせいで」
人を拒絶するような姿は全く想像できない母が、強固に会おうとしなかった人間と会わなければならなくなったわけが自分にあるのだと、自責の念に駆られそうになっているのを父親が止める。
「違うよ、言い方は悪いけど喜美ちゃんは強かなんだ、本物のお嬢様だからね。プライドなんかより大事なものがあると知ってるから、使えるものは親でも使う。利用したんだよ。そうとお義父さんも分かっていたけど、切っ掛けなんだから、お義父さんも本物の資産家だからチャンスを逃すようなことはしない。周弥の見聞を広めることを口実に二人は仲直りするんだよ」
「だから俺を気に入ってくれてのか?」
祖父の行動がその対価なのだとしたら少し残念だと思う目雲に、泰三はまた首を振る。
「それも違うかな。周弥は一番お義父さんと感覚が同じだったんだよ、大翔も颯天もお義父さんは大事にしてくれたのが証拠だよ。ただ一番喜ぶものが分かるのが周弥だったってことだね、だから逆に周弥もおじいちゃんの好きな物が良く分かったんじゃないかい」
「そうか」
それは目雲も感じていたことだったの、疑うことはなかった。
「でも必要以上の支援は受け入れなかったから、僕の絵だけで生活して君達にはちょっと金銭面以上に日常生活では迷惑を掛けたけどね。何度もお手伝いさんを雇ってくれると言ってくれてたんだけど、喜美さんが子供たちに負担になってると思うまでは家族だけで生活するってね」
「そういうことか」
「僕と喜美ちゃんはそれでもとても楽しい暮らしだったんだけど、辛かったかな?」
思い返せば目雲はもう首を振るしかない。
「いや、楽しかった」
「それなら良かったよ、大翔も颯天もそうだと良いんだけど」
「今度聞いてみればいい」
「そうするよ、母さんともできればまた会ってくれるかい」
目雲は一瞬息をのみ、そして大きくゆっくり吐くと、横のゆきに視線を移した。
ゆきはいつも通り微笑むだけで、言葉を発することも、頷くことすらしなかった。
ただ目雲の判断を優先するその姿に、肩の力を抜いた。
「分かった」
その言葉と様子に、泰三は嬉しそうに笑う。そして視線を息子から横に移す。
「ゆきさんも」
「はい、是非」
目雲は漸く割り切れなかった感情の答えを見つけ出せたような感覚を持てていた。
幼いころから見ていた母を変える必要がないと、納得できたことが、何よりの救いだった。
ゆきが毒親ではないと言っていたように、目雲は前の恋人とのことがあるまでは親に対して疑問を持ったことはなかった。だからこそ恋人を傷つけることが理解できず、ただ一般的に相容れない立場があるのだと知ってもいたが故に、今までになく大事にしたいゆきも傷つけられるとより一層警戒していた。
けれどゆきは全く別の印象を抱き、本当に傷ついていたわけではないのだと分かったことも目雲にとってはとても大きな意味があった。
大きな枷が一つ取れた様なそれほどの心情の変化だった。
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