51

 それから少し話すとゆきは立ち上がった。


「ちょっとお手洗い行ってきますね」


 量はそこそこに飲んだが、きちんと管理しているゆきはいつも通りあまり変わりなくそれは宮前も目雲にも言えたことだったが、残りの二人はさらに酔いが回っていた。


「いってらぁ」


 ゆきに姿が見えなくなると、座った目をした堺が目雲の方に身を乗り出した。


「目雲さん、ワルい男じゃないでしょうね?」

「大丈夫だよ、悪い奴ではない」


 宮前が微笑むが、堺がそれを見ながらもさらに目を細めて目雲を見つめる。


「スゥを泣かせたら達治が黙ってませんよ」

「タツジ?」


 聞いたことのない名前に宮前と目雲が首を傾げる。


「スゥの元カレっすよ。小さいっヤツなんすけど、めっちゃ強いんっすから」


 目雲との対比だとどうしてもその身長差が気になった堺が、二人には分かるはずもないそこを指摘しながらも、負けないと強調した。


 愛美はすっかり赤くなった頬を自分の両手で挟んで、わざとらしく驚愕して見せた。


「うわっでたたつじぃ、いかちぃたつじ。元じゅうどう部」

「そうです、厳つい! 鬼っすから」


 堺の謎のファイティングポーズに、愛美が乗る。


「ゆきと同じくらいなのに、ぶあっついのぉ、鬼ぃー」


 やや呆れながらも宮前が頬杖をつきながら堺に視線を送る。


「元カレが何で黙ってないの? ゆきちゃんもうしばらく付き合ってる人いないって言ってたのに」


 愛美が天井に目を向ける。


「大学卒業の時にわかれたんだよねー、たつじは夢をえらんだんだぁ。たつじー」


 堺が眉間に皺を寄せて続ける。


「心優しき、小さな巨人はスゥが大事だから巻き込めないって」

「ひでぇ男だよ、たつじー」


 そしてなぜだかお酒を煽る愛美に堺も激しく頷いている。


「スゥはいつでも帰ってくるの待ってるって言ったんすよ。達治はスゥを思うと危険な地域に踏み込めなくなるからって」

「しぬなぁーたつじぃ」

「大丈夫、達治はまだ生きている。ヤツはそんなヤワじゃないぜ」


 纏まりのない会話から宮前は結論だけを聞き取った。


「それで別れちゃったんだ」

「ゆきはかっこよかったよぉ」


 泣くふりをしながら愛美が頷くのを見ながら、宮前が疑問を呈す。


「だったらタツジにゆきちゃんの事口出す権利なくない?」


 堺が開かなくなってきた目で真剣な表情になる。


「達治は誓ったんすよ、遠くからいつでもゆきの幸せを祈るって」

「は? 別れといて身勝手じゃない?」


 宮前の批判に、愛美がこくこくと頷く。


「本当にひでー男だ」

「たつじーはひでー男だけど、マジな男だから、スゥが困ったらきっと助けに来るっす」

「助けに……」


 目雲は思わず呟いていた。

 宮前は冷静に今の関係を問いただす。


「ゆきちゃん今でも連絡取ってるの?」

「わかんねーっす、そもそもあいつと連絡取るのむずいから」

「マサイ族がスマホの時代に!」

「スマホの時代に!」


 なぜかグラスを掲げる二人の後ろからゆきが戻ってきた。


「すみません、ちょっとトイレでお困りのお客さんがいて。ああ、さっきより酷くなってる。二人がすみません。ほら、あきくん。真里亜に連絡するからね」


 早速何かトラブルに巻き込まれてたと心配する目雲と宮前を余所に、それすら慣れ切っている堺はゆきに信じられない宣告をされたように、目を見開きその後手を合わせてすがり始める。


「それは、それだけは」

「結婚式のことで何かあったんでしょ。今日はもうちゃんと寝て、また話し合うんだよ」


 堺の彼女である真里亜とも交流のあるゆきに図星を刺されて、素直に項垂れる。


「うぅー、わかってる」


 それを放っておいて、愛美に水を渡しながら笑いかける。


「メグはうちに行こうね」

「はい! ゆきさま!」


 背もたれに体を預けてフラフラでも綺麗に敬礼してみせる愛美をよしよしと撫でると、ゆきは抱きつかれた。

 そうして支えながらゆきは目雲と宮前に眉を下げた笑顔を向ける。


「本当にすみません。二人とも飲みすぎちゃって。よくある事なんですけど。二人の分は私が払うので、今日はこのへんで」


 宮前はその前にと、ゆきに声を掛ける。


「トイレの人は大丈夫だった?」

「お友達がトイレから出て来なくなっちゃったらしくて、ちゃんとバイトの方と店長にも対応お願いしたので、大丈夫だと思います」


 そのくらいのことは居酒屋では日常茶飯事かと、頷きつつ、宮前はきちんと確認しておきたいことを口にする。


「あき君は結婚するの?」


 ゆきはにっこりと幸せそうに微笑んだ。


「そうなんですよ。真里亜ちゃんっていう彼女がいて、同棲もしてるので迎えに来てもらいます」


 自分事のように喜んでいる様子は目雲と宮前にも伝わった。


「先にその、まりあちゃん? に連絡しておいで。迎えに来るまでこのまま待った方が良いし」

「そうですね、ちょっと電話してきます」


 愛美をそっとテーブルの上に伏せさせると、足元のかごに入れているカバンからスマホを取り出して、騒がしい店内を避けて外に出ていった。


「まりあ……おこられる……」

「ゆきぃ……」


 机の上で頭を抱える堺と、両肘をついて頬を支える愛美がうつらうつらとゆきを目線で追うのを、宮前が見守りながら目雲に声を掛ける。


「ゆきちゃんは本当にお姉さん体質だね」

「ああ」


 騒がしい店内を出て、外で電話していたゆきが戻ってくる。


「すぐ来てくれるそうです。車で十分、十五分くらいなので、帰り支度しましょう」

「じゃあおあいそするね、すみませーん」


 宮前が伝票を貰うために店員に声を掛ける横で目雲がゆきに提案する。


「ゆきさん、お金は僕らで払いますよ」

「いえいえ、ちゃんと払いますよ」

「大丈夫だよー、二人にはいっぱい話聞かせ貰ったから、そのお礼にさ」


 伝票を受け取りながら宮前も言うが、ゆきは財布を取り出す。


「じゃあせめて私の分くらいは。これは受け取ってください」

「わかった、じゃあ千円」


 宮前からの明らかに安すぎる金額に、ゆきはこの店の客単価の一人分より多い金額を提示する。


「一万円」

「うーん、二千円」

「八千円」

「三千円、これ以上はまかりませんえ!」

「まけてないだろ」


 目雲の突っ込みにゆきは笑いながら、それは一人分には足りないくらいだろうが払うことができて、こうしたやり取りも宮前との粋なコミュニケーションだとゆきも受け止めている。


「すみません、じゃあ三千円だけ」


 ゆきがお金を渡すと、宮前が支払を済ませて、ゆきはマスターに愛美は何も変わってないと笑われ、弁解もできずにまた来ますと挨拶をしたあと愛美を支え、堺は宮前と目雲が支えて外に出る。店の前は道が狭いので、大通りまで出て迎えを待った。

 少しすると車がやって来て、真里亜は酔っ払っている堺の様子にドン引いて、ひたすらお礼と謝罪をしながら引き取っていった。

 すぐに目雲がタクシーを呼んで、ゆきと愛美が乗り込む。


「今日はありがとうございました」


 ゆきのいろんな意味を含んだお礼に宮前が笑う。


「いえいえ、楽しかったよ。またね」

「ゆきさんお気をつけて」


 目雲もしっかりと目をみて声を掛けた。


「はい、おやすみなさい」


 タクシーを見送って宮前が目雲を振り返る。


「俺たちは電車で帰るか」


 それに軽く頷き目雲は歩き出す。酔い覚ましによくやる事だった。


「良かったな、ライバル出現じゃなくて」

「ああ」


 横に並んで、幅の広い歩道を歩いて駅に向かう。

 宮前も目雲もいつも通り飲んでいたが、これもいつも通りあまり酔ってはいない。


 愛美の思惑にある種の感謝をしながら、宮前が堺のことを思い返す。

 愛美がゆきからどれくらいのことを聞いているかは把握できることでもないが、ゆきと親し気に話す男のことが気にならないわけがないだろうと、愛美が気を利かせてくれたのだと二人は理解していた。


「あっきーさ、絶対俺たちの事見極めるために一緒に飲む気になったと思うんだよな」

「だろうな」


 目雲と宮前にはゆきと堺の距離感はとても近いものに見えた。恋仲を疑うような言動はまるでないものの、親密さはかなり感じられたからだ。


「周弥もそう思った? 元カレの話もわざと出したよな。初対面で信用されないのは当然だとしても、ちょい過保護な気がするのは俺が周弥側だからかな」

「ゆきさんの魅力だろ」


 横を歩く目雲を見上げた宮前は呆れ顔だ。


「なにをのろけてくれてんだよ」

「事実だ。何もなく大丈夫に見えても、本当のところが分からないから気に掛けるんだ」


 宮前もそれには頷いた。


「まあな。あの事件ことだってまるで何も感じさせないもんな。平気そうに喋ってたし。でもきっと平気じゃないよな、普通に考えて」

「そうだな」


 話を聞いただけの目雲でも強い印象に残る事件を、体験しているゆきの本当の恐怖は想像するだけで胸が痛んだ。


 宮前は横並びに歩きつつ、その心情を共有しながら、目雲の嫉妬の対象かどうかも気になっていた。


「周弥が見かけたのはあっきーっぽいか?」

「たぶんそうだろうな」

「なんか複雑な恋愛してて、それを吹っ切るために周弥と付き合い始めたのかなとか、余計なことを考えたりしたけど違うみたいだしな」


 仲良さそうに歩いていたと聞いて、叶わぬ片想いを忘れるためになんて、宮前は深読みしたりもしたが、それを思い込むようなことはしていない。

 ただ裏を読むのは宮前の癖のようなものだった。


「ゆきさんはそんな面倒なことしない。もしするとしてもしっかりと説明してくれるはずだ」


 柔和な見た目ではあるが、カラリとした性格でもあるゆきを理解し始めている目雲はその誠実さを疑ってはいなかった。

 そして言い出した宮前も同じようなイメージを持っていた。


「俺もそれは同感。ゆきちゃん、しっかり者だからね。だから余計心配になるな」

「そうだな」


 しばらくの沈黙でそれぞれゆきの心境を慮る。


「元カレもそうだったのかな」

「どうだろうな」


 宮前は息を吐いてから、歩きつつ腕を上げて大きく伸びをする。


「でもそりゃあ、ゆきちゃんにもいるわな、元カレ」

「そうだな」

「心配させたくないって別れるってさ。てかお前と一緒だ。あー、ゆきさん、もうマジに寛大。どんだけ傷つけてんだよ」


 目雲はゆきがただ元気にいることを願うのを自分に許したと言っていたのを思い出し、同じことを繰り返させたのだときちんと理解していた。それでも笑っていたゆきのその心の中が傷ついていないなどとは思わない。


「分かってる」


 宮前は回り込んで目雲の前に立って笑う。


「タツジなかなか強そうな男だぞ、勝てるか?」

「戦うことがないだろう」


 立ち止まらされた目雲は呆れた視線を宮前に送るが、宮前は引かない。


「わからんだろ、嫌いで別れた訳じゃなさそうなんだから」


 言いながら宮前は横にあった自販機で水を買う。そしてそれを目雲に渡す。


「ゆきさんはそんな不誠実じゃない」


 素直に受け取った目雲が自販機の脇に立って、それを開ける。

 そして宮前は自分のためにもう一本買う。


「ゆきちゃんじゃなくて、タツジだよ。タツジがゆきちゃん取返しに来るかもだろ」

「考えすぎだ」


 商品口から水を取り出し、それを目雲に詰め寄るように向ける。


「前の恋愛引きずってるお前が言えるか」


 ため息が漏れる目雲はそれでもきっぱりと告げる。


「引きずってない」

「気持ちとしては割り切れてても、傷として残っているだろ」

「傷なんてほど――」

「じゃあなんでゆきちゃんに話さない」


 目雲は、押し黙って、少ししてため息を吐いた。


「話すのはまだ難しい」

「関係ないなんて言ったらどうしてやろうかと思ったよ」


 宮前はペットボトルの蓋を開けて、ぐっと流し込むように傾け、一息吐いた。

 目雲はただ足元に視線を落す。


「そう言えた方が良かった」


 過去の恋愛をすべて語るべきだとは宮前も思ってはいない。ただ目雲の現状において、宮前がゆきのことを考えると知っておいた方が良い気がしていた。


「そうかもな、でも今のお前の状態じゃ無理だろ。ゆきちゃんがどんなに気にしないでくれても、体調の事もある、あとご両親とは仲直りしてないだろ」

「するつもりもない」


 あまりにはっきりと言う目雲に宮前も理解を示しながらも、だからこそ心の枷になっているんだと思っていた。


「許せないとしても、子供の頃みたいに気にしないで暮らせばいいだろ」

「気にしなかった結果が悪いものだったんだ」

「ちょっと溺愛気味だなとは思ってたけど」


 呟くように告白した宮前を目雲が渋い顔で見る。


「もっと早く言ってくれ」

「それがなくたってあの子とは上手くいってなかったよ」

「それも分かっている」


 素直に目雲は頷いた。相性が悪かったと言えばそれまでだが、両親の、特に母親の言動が事態を拗らせたのは間違いないと目雲は考えていた。


「ビビりすぎてまたゆきちゃん傷つけるようなことするなよ」

「分かってる」


 歩くことを再開させた二人のゆきを思いやることは続く。


「ゆきちゃんさ、思ってるより凄い経験してるのかもな。他にもどんなことがあったのか、俺たちは知らないわけで、今日みたいに何か切っ掛けがなければゆきちゃんから話し出すこともないかも知れないし」

「全部知ろうとは思っていない」

「周弥の性格的に知りたいだろう」

「そんなことはない」

「いや、あるな。またあの二人誘って話聞こうな。ゆきちゃんも楽しそうだったし」

「お前も大概過保護だ」

「まあな。俺もあっきーのこと言えないな。ちなみに今は周弥に対してだけじゃなくて、ゆきちゃんにもって意味だから」


 何も心配なように見えるゆきの方が実は気に掛けておくべきなのかもしれないと宮前でさえ思い始めていたのだから、目雲に至ってはよりゆきに心を砕かなければ目雲の方が心配で眠れなくなってしまいそうだった。


 ただそれを宮前までもがというのは気にくわないが、他者の視点はゆきの変化を感じ取るのに悪いことだとも思えず、目雲が否定しない。


「お節介だな」


 そんな風にいう目雲に笑う宮前だ。


「いい傾向だろ」


 小学校から続く関係にもう目雲は呆れもしなかった。


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