明日の空に龍は泳ぐか
不確かで確実な時代の波を、どう最後まで泳ぎきるかが生涯の課題なのではないか。などとイキドは考える。
そんな柄にもない思考の原因は、祖父アガラがめっぽう泳ぎが下手だったからなのかもしれない。
「俺が死んだら、池の錦鯉ケルピー達は野に放ってくれ。どうせ今さら売っても、二束三文だ」
「そんな面倒事、生きてるうちに自分でやってくれ」
毎日飽きもせず、縁側から庭の池を眺めながら、アガラはそう笑う。
しかし、毎日付き合わされるイキドはたまったもんじゃない。
両手で抱えられる程度の大きさの錦鯉ケルピーだが、お世辞にも広いとは言えない池の中で、退屈そうに池の縁に顎を乗せ、午睡にふけっている。
寝ながら池の縁に生えた苔や草を食むのもいれば、寝息で唇がぶるぶると震えているのもいる。
売るわけでもなく肉になるわけでもない。観賞用の、ただ美しいだけのケルピー。
今さら売っても二束三文。イキドは並んだケルピーの顔を見ながら、ならば何故さっさと手放さなかったのかと苛立ちを覚える。
上半身が馬、下半身が魚の魔物であるケルピーが身近な存在になって、随分と経つ。
自宅や会社で錦鯉ケルピーを飼うのが一種のステータスだったのは何十年も昔。
交配を繰り返し、美しい色を出し、高値で売る。民家の庭先に大小様々な養鯉池があったのも、何十年も昔の話。
今はその養鯉池だったものの周りに木や石を置き、どうにか庭に馴染ませた池がちらほら残るのみ。
アガラの家の池も、そんな養鯉場の一つだったものだ。
「野に放てって、勝手に放流なんかしたら駄目だろう。最近はそういうの厳しいんだから」
イキドは縁側の脇の物置から餌の入った麻袋を引っ張り出しながら、アガラに背を向けたままぶつくさと文句を垂れる。
相変わらず麻袋は重く、もうそこまで若くもないイキドの腰は、錆び付いた蝶番のようにがくがくと今にも外れてしまいそうだ。
「シラタ山に放してくれば良い。あそこは毎日新しいケルピーが生まれて死ぬ場所だからな。今さらどんなケルピーが死のうが、生き延びようが関係のない、そういう山だ」
アガラの言葉が終わると同時に、玄関の呼び鈴が鳴った。
重い腰を上げ玄関に向かうアガラを横目で見送りながら、イキドは麻袋の口を開ける。
牧草に乾燥させたミミズや貝を混ぜこんだ餌は、なんとも独特の臭いがして埃っぽい。
それをバケツにスコップで二杯三杯と移していると、一匹また一匹とケルピー達が目を覚まし始める。
待てないと言わんばかりに目を輝かせ、小さな前足で池の縁を削り、美しい尾びれで水面を叩く。
水面を叩くリズミカルなその音を、アガラは昔、新しい音楽だと笑っていた。
池の縁にしゃがみこみ、小皿を並べて、餌を順番に入れていく。
意外にも行儀が良いのか、アガラがそうしつけたのか、ケルピー達は最後の皿に餌が盛られるまで、大人しく一列に並び待っている。
「よし」と声をかければ、鼻をぶつけるのもお構い無しに、ケルピー達は目の前の皿に顔を突っ込んでいく。
ニチリミチリと、餌が潰される音が一斉に鳴り響く。
顎を横にずらし、すり潰しながら喰う。ただひたすらにむさぼり喰う。
そんなただただ生きるケルピーの姿を見ていると、日常の全てがどうでも良くなってくる。
子を連れて出て行った妻。金の無心にマメな従兄弟。年々値上がりするケルピーの餌。夜中にケルピーが窓を割り、僕を喰いに来ると幻覚妄想に苦しむ隣家の子どもと、神経質なその母親。
その全てがどうでも良くなってくる。
だからアガラも、手放す時期を見誤ったのかもしれない。苦労は多い人生だったろう。
今もまた、玄関の方から隣家の母親の粘着質な声が響いてくる。
見上げれば、二頭の重量種ケルピーが客車をぶら下げ空を駆けていき、更にその上をトビウオケルピーが跳ね回り太陽の中へ消えていく。
せめて錦鯉ケルピー達も空を駆ける種のケルピーであったなら、こんな狭い池に押し込められる事もなく、隣家から目の敵にされる事もなく、自由に生きられただろう。
泳ぎが下手だと、自身も周りも苦労が絶えないようだ。
「まぁったく、うちのは水棲だって何回説明したら理解してくれるんだろうな、隣の嫁さんはよ。……あぁ、違うか。子どもが嫌がるものは、何でもかんでも遠ざけたいものか。隣さんも苦労してるなぁ」
ようやく戻ってきたアガラは、珍しく心底参ったような様子で、ボサボサと頭をかきむしる。
「やっぱり、自分でケジメつけねぇとな」
最期のひと泳ぎを決めたアガラの顔は、どうにも曇ったままだった。
*
山に運び、川を探し放流する。
たったそれだけだが、ではどうやるのかと聞かれたら、さて、どうやれば良いのやら。
ちょっとした引っ越しや、品評会くらいならば、箱なり何なりに入れて運べば良いが、錦鯉ケルピーの力はバカには出来ない。
狭い箱に押し込めば、運搬中に喧嘩をするに決まっている。そうでなくとも、箱にぶつかり傷付いてしまう。
では、空気を詰めた袋に一匹ずつ入れるのはどうだ。近くのペットショップに頼めば出来なくもないだろう。
しかし、ケルピーは魚とは違う。水陸どちらでも呼吸が出来るケルピーを、そこまで厳重に包む必要はない。
複数匹を安全に山まで運んだその先、きっと手作業で川まで運ぶ事になる。
終活を始めた老体と、その孫の二人だけ。あまりにも重労働だ。
「飼う時はどうやってうちに連れてきたんだ」
「特急ケルピー便だ。一番早いカジキケルピーにな、でかい水槽ごと運ばせたんだ。それこそ、水族館にあるようなでかいやつだ。いやぁ、時代だなぁ」
五頭のカジキケルピーが飛んでくるのは圧巻だったぞと笑うアガラに、想像が追い付かないとイキドは空を見上げる。
特急のカジキケルピーなど、今まで数える程度しか見た事がない。
どれ程の大きさか、どれ程の速さか。天を仰ぎ、顎を擦りながら想像するが、思い浮かぶは錦鯉ケルピーの姿。
何を思ったか、アガラが真面目な顔で「養殖してた時の領収書、まだ全部あるけど見るか?」等と言うものだから、イキドも思わず頷きかけた。
イキドが近所の魚を取り扱っているペットショップを調べる隣で、アガラが縁側にシラタ山の地図を広げる。
「あったあった、ここだここだ。変わってなければこの辺にな、落ちた水が霧になっちまう位とんでもなく大きな滝があってな、その滝壺で捕まえてきたんだよ」
「へぇ、元々シラタ山のケルピーだったのか。あそこにそんな大きな滝があるなんて、知らなかった。もっと話題になりそうなものなのに」
「そりゃな、今じゃ立ち入り禁止だ」
なんて事もないように言うアガラは、端がくしゃくしゃに折れ曲がった地図を何度も何度も手で伸ばす。
そのまま手探りで転がっていった赤鉛筆を探すや、先をぺろりと舐め、滝の辺りに丸をつける。
今度は節くれだった武骨な指で川をなぞり、正式な登山口をなぞる。
そしてしばし唸ったと思えば急に立ち上がり、居間の戸棚の奥の奥から、古めかしい角がへこんだひと抱えほどの缶を取り出してきた。
アガラはわざわざイキドの前に缶を置き、にんまりと笑ってから缶の蓋を開ける。
そこには領収書など、錦鯉ケルピーの一切の資料が納められていた。
「見た事ない数字が見えた気がする」
「まだまだ。もっととんでもない数字がまだ下の方にあるぞ」
ちらりと覗いた領収書の数字から、イキドはそっと目を逸らす。
その隣で、アガラはぶつぶつと独り言をこぼしながら缶を物色し始めた。
「食用も運搬用もペット用も、ケルピーなら何でも流行った時な、みんな我先へとシラタ山に登ったもんだ。でもな、行儀良く道なりに登った所で、ケルピーどころか野生動物にも会えやしない。ケルピーはもっともっと深い所。水墨画の世界が、そのまま現れたような山奥に居るんだ」
領収書の束をどけると、写真が何枚か出てきた。
大きな養鯉場の前で肩を組んで笑う男達。特大の錦鯉ケルピーを抱えて笑う男と、その後ろで背中から池に落ちる誰かの足。
アガラは一枚一枚懐かしそうに写真の裏までしっかり確認しながら、更に中身を出していく。
「突然シラタ山にケルピーが溢れ出した時は、この世の終わりだと騒がれたが、まぁ、地元の俺達は稼ぎ時だと喜んだもんだよ。ツキが回って来たってな。裏山に登るだけで、船もないのに当時高級だった食用ケルピーがとれるぞってな。みんな仕事も何も捨てて山登りさ。実際は、そんな甘いもんじゃなかったけどな」
写真を全て出し終えると、細々としたゴミのような紙屑たちの下から、手帳が出てきた。
何度も水に濡れたのか、表紙はボコボコと歪み、おねしょのような歪な丸い染みがいくつも広がっている。
アガラは手帳をバラバラとめくり、しばし読み込み、まためくり始める。
「釣竿持ってたり銛を持ってたり、山に登るにはヘンテコな荷物ばっかりだ。そんなの担いであのシラタ山に登れるはずがない。そもそも、熊や猪でさえ銃や罠が必要なのに、ケルピーが銛でとれるかってんだ。だから俺は、錦鯉ケルピーにしたんだ。あとはまぁ、知っての通りだ。……なぁイキド、じいちゃんの最期のワガママに付き合ってくれるか?」
すでに十分付き合っているのに、これ以上何をどうしろと。
イキドは喉元まで出かかったその言葉を飲み込むと、どうにか一つ頷いた。
*
驚くほどの快晴。絶好の登山日和。
ハイキングがてらちょっとだけ山に登り、ほどほどの所でお茶にする。
それならばどれ程幸せだっただろうか。
アガラとイキドは、少しばかりの水と錦鯉ケルピーを一匹ずつ入れたリュックサックを背負い、手帳に残された滝までの道なき道を歩き続けていた。
「昔のやり方で返したい」と言うアガラのワガママで、一人一匹ずつ担いで滝壺に向かう事になった。
「やっぱり値が張っても、ケルピー便を使うのが正解だったって。じいさん、家の階段ですら膝が痛いって寝込むじゃないか」
「俺が途中で死んだら、そのままケルピーと一緒に滝壺に捨ててくれ。……あ、いや、やっぱり担いで帰ってくれ」
「じゃあせめて、滝壺まで気張れよ!」
リュックサックから顔を出した錦鯉ケルピーが、ふんふんと鼻を鳴らしながらイキドの髪を食む。
上手い具合に前足をイキドの両肩に引っ掻け、頭に顎を乗せ、何を考えているのか大人しいものだ。
突如少し開けた場所に出たと思えば、毒々しいほど目立つ色で立ち入り禁止と書かれた看板が乱立し、虎ロープが張り巡らされている。
その看板の前で、アガラはぴたりと足を止めた。
「入る前に言っておく。たぶん、これからお前は何度も『じじい、ボケたのか?』と言いたくなる。変に思うし、気持ち悪いと思う。でも、山を降りるまで絶対に言う事を聞いてくれ。絶対にだ」
急に真面目な顔でアガラが振り向いたかと思えば、そんな曖昧で薄気味悪い事を言うものだから、イキドは何も言えなかった。
どう、何から聞けば良いのか。そんな事を考えているうちに、アガラはロープを潜り歩き出してしまった。
手入れもされていない山の中は、昼間だと言うのに薄暗くじめじめとし、どこか霧がかっているように見える。
異様にふかふかとした苔を踏むと、じわりと染み出した生ぬるい水が靴を濡らし靴下を濡らす。
どこもかしこも歩きにくく、スポンジの上を歩いているかと思えば、今度は硬く氷のようなもので滑り、更に一歩踏み出せば足元で何かが折れる。
鳥か獣か何か分からぬ声がどこかから聞こえ、見えぬ何かがすぐそばの草木を揺らす。
そんな異質な場所で、アガラは先ほどの宣言通り、時おり不思議な事を口走る。
『この大岩を曲がってすぐの右側に大穴があるんだが、横目にでも下を見るんじゃないぞ。引き摺り込まれておしまいだ。ここで二人死んだ』
『あそこに三本、松の木が並んでるのが見えるか? あそこを通る時、何か声が聞こえても絶対に答えるなよ。それが俺の声だったとしても、絶対に答えるな』
『ここから俺が良いと言うまで川には入るな。川に居るのはケルピーだけじゃないからな』
『念の為石を三つポケットに入れておけ。もし、その時が来たら合図する。大丈夫、念の為だ。散々ここに登った俺も、一回しか使った事がないからな』
見てはいないが、実際に大岩の右側には大穴があった気配がしたし、松は三本あった。
入るなと言われた場所の水は、同じ川だと言うのに何故かそこだけとろりとしていたし、ポケットに入れるにちょうど良い大きさの小石が、一ヶ所にこんもりと準備されていた。
常にそんな調子なせいで、疑問に思う暇もない。ただただ震え、ただただ言われた事を守るのに必死だった。
結局イキドは、滝壺に着くまで一言も喋らなかった。
「着いた。あぁ着いた。生きてまたここに来たぞ」
息も絶え絶えにかすれたアガラの声は、達成感に満ちているようだった。
久し振りにアガラの顔を見たイキドは息を飲んだ。
確かにアガラは終活を考える程に弱り始めていたが、それでもまだ早いと笑い飛ばせていた。
しかし、今のアガラはシラタ山を登る前とは全くの別人のように、頬は痩け手足は震えている。
だが、そんな今にも事切れてしまいそうな姿だと言うのに、目の前の滝に心を奪われたかのように、その目はギラギラと怖いほどに輝きを放っている。
「イキド。見てるか、イキド」
アガラは今にも崩れて砂となってしまいそうな細く枯れた指で、滝を指差す。
示された方に視線を向けたイキドは、そのまま視線を上へ上へと滑らせていく。
目的の滝は確かにそこにあったが、それはイキドの知っている滝ではなかった。
半分霧になった水が、轟々と空から落ちてくる。
そう、雨のように、何もない空から水が流れ落ちてくるのだ。
立ち入り禁止のロープを潜ってから滝に着くまで、それどころか、山の麓や自宅からも、こんな変な滝の姿は一切見えなかった。
突如なんらかの力で目の前に現れた。
そう説明された方が納得できてしまうし、むしろそうであってくれと願いたい位に、目の前の存在を理解できない。
バカみたいに口をポカンと開け立ち尽くすイキドの横で、アガラは慎重にリュックサックを下ろす。
大事そうに錦鯉ケルピーを取り出すと、その頭を何度か愛しそうに撫でた。
錦鯉ケルピーは相変わらず何を考えているのか分からない。
キョロキョロと見渡したかと思えば、リュックサックに残った水を尾びれで跳ね上げ、そうかと思えばアガラの手に頭をすり付ける。
「何度も何度もここに来て、一匹一匹背負って山を降りた。麓にでかい水槽を置いて、誰にも見付からないように気を揉みながら、毎日毎日滝壺から水槽に移した」
重さに耐えられないのか、アガラは錦鯉ケルピーを抱えたまま前に倒れ込んだ。
しかし、肘を石に打ち付けても錦鯉ケルピーは離さなかった。
「勝手だよなぁ。捕まえたり放したり。悪かったなぁ悪かったなぁ……今までうちに居てくれて、ありがとうよ」
そっと川辺に下ろせば、錦鯉ケルピーは不思議そうに何度もアガラの顔を覗き込む。
濡れた石の上で不安そうに何度も前足を掻き、体をくねらせた錦鯉ケルピーは、大きくひと鳴きすると、くるりと身を翻し川に飛び込んだ。
それを合図に、イキドのリュックサックからもう一匹の錦鯉ケルピーも飛び出し、川へと潜っていった。
「呆気ないな」
久し振りに声を出したイキドは、自分も声がかれている事に気づいた。
澄んだ水の中で錦鯉ケルピーの鮮やかな色は、どこに居てもはっきりと分かる。
霧がかった滝を、二つの色が絡み合いながら色の尾を引き登っていく。
「綺麗だ」と、イキドは息を吐いた。
「錦鯉ケルピーも、滝を登りきったら竜になるのかな」
イキドの言葉に、アガラは何も答えなかった。
手から滑り落ちた手帳に、水が染みた。
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