短編集
森之熊惨
凍った20歳
0. 朝日がまぶしくて
ベッドから立ち上がる。洗面所に行き顔を洗う。服を着替える。冷凍庫からラップに包んだご飯を取り出して冷蔵庫に入れる。夜ご飯までに解凍しておくためだ。石のような腹にシリアルを詰め込む。教科書をバッグに入れて今日の一日が始まる。大学へ向かう道の途中、また警官が交差点に立っているのが見えた。春の朝の交差点に立つ警官は異質だ。この前職質されたときは信号無視だったっけ。スイッチを切ったのを覚えているが、あまり心地の良いものではないな。
1. 去年の夏だっけ、
君は僕を振ったよね。僕は覚えてるよ、今は他のことで忙しい、って。それまで恋愛とは無縁で過ごしてきた僕だったけど、その時は“失恋”って言葉の意味が少しわかったような気がしたんだ。心に隙間ができるって言葉の意味も。
高校生の頃の僕は恋愛をしたことなんてなかった。それは20になった今も同じだけれど。でもあのときの僕には恋愛が楽しそうにみえたんだ。大学に入るとあちこちに楽しそうなカップルがいて。恋愛をしたことのない僕は“恋愛する”ということがどんなものなのかのぞいてみようと思ったわけ。振られたと悟ったときは不思議な感覚だった。心の中の何かが傷ついた音がしたけど僕の頭はそれを感じ取ることを拒否した。そして僕は何も感じなかった、ことにした。
これまでもずっとそうだった。小学生だった頃、友達の輪に入れず教室の片隅で独り本を読んでいたときも、中学2年の頃夏休みがあけてすぐのテストが返されて、担任が僕の英語の点数を見て「おーい、みんなぁ、友多朗45点だぞぉ!」って叫んだときも。それを聞いたクラスの笑い声を聞きながら。全てを素直に敏感に、受けとめて感じて、悲しみ傷つくのに疲れていた。だから僕は心のスイッチをオフにすることを覚えた。僕の心はかたくなっていく一方だった。
君は最後に「友達として、これからもよろしくね」って、どんなつもりだったんだろう。
2. そして君は
「ごめん、バイト入れちゃった」って。
僕は友達である君を美術館に誘ったけど、君には予定があったみたいだね。でもそれだけじゃなかったんだ。「私、彼氏できちゃったから2人で出かけるのは無理、ごめんね」と君は言った。ラインを見返したよ。10回くらいスクロールすると、君が僕に送った「友達として、これからもよろしくね」ってメッセージが見えたよ。その後僕が君のレポートを手伝ったことも、君のテスト勉強に付き合ったことも、履歴には全部残ってた。そのトークルームで僕は君に、彼氏ができちゃった、って言われたんだ。君にとって僕はとても都合がよすぎたんだね。
またひとつ、心の照明が落ちたのが分かった。
3. 夜を歩きながら
春を感じていた。春の夜にだけは心を許すことができる。そんな時間はいつも平和だった。暖かくもなく涼しくもなく、でも花の香りは重くて息苦しいような濃密さで、夜を歩く人々の間にわだかまっていた。そんな夜道を歩きながらアパートへと帰る途中、君のことを考える。僕の心も重くて濃密だった。
アパートに着く。部屋のドアを開ける。締め切った真っ暗な部屋は生暖かかった。この部屋に置きっぱなしにしておけば僕のかたい心もとけだすかもしれない。
朝冷蔵庫に冷凍ご飯を入れておいたのを思い出した。冷蔵庫の扉を開けて触ってみると冷たくてほとんどとけていなかった。これはいったい誰の心だろう。
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