第2話 ノートの話……ツバメノート【B5判大学ノート】

 その日、巌志の雰囲気がいつもと少しだけ違うことにふみ子は素早く気づいた。

「服……じゃないし」

 巌志は店に立つ時はオフホワイトのオックスフォードシャツにブルージーンズ、靴はニューバランスの紺のスニーカー、という服装のルールを自分に課している。

 ふみ子に対しては「仕事の時はばっくり胸の開いた服とか、目の痛くなるようなピンクとか金ピカの服はやめてね」という曖昧なルールだけ言い渡した。ふみ子はそれを受け、巌志の雰囲気と店の雰囲気を考慮し、紺色やえんじ色、生成りがベースとなったシンプルなカットソーやシャツを身に着けるようにしている。もとよりそういった落ち着いた色がふみ子の好みではあったので、その側面においては無理なくこの職場に馴染むことができた。

「髪型……でもないし」

 セットしているのかしていないのか、巌志の頭はいつも〈無造作ヘア〉である。

「……ああ、そうか。立って歩いてるからか。そうかそうか」

 何か用事を片付けるわけでもなく、在庫を調べるでも陳列を見るでもなく店内を右に左に歩き回っている。ふみ子の目にはその動きは無目的であるかに映る。用事がない時の巌志はレジカウンターの奥にある椅子に座っている。

「店長」

 ぴた、と足を止めたままの姿勢で巌志はふみ子の方を向いた。

「何」

「落ち着かないですね」

「そう?」

「はい。そりゃもう明らかに」

「そうかな」

「普段はそこに座ってるじゃないですか」

 ふみ子はレジカウンターを指さした。

「うん。そうやね」

「今日何かあるんですか」

「うん。実は、友達んとこに子どもができてね」

「へー。それはめでたいですね」

「そう。で、今日の夜に呼ばれてるんよ、家に。そろそろ赤ん坊の顔を見に来んと張り倒す、とか恫喝どうかつされて」

「……確認ですけど、友達ですよね?」

「うん、友達」

「なんかすごく乱暴な人のように聞こえますけど」

「昔は乱暴な奴やったよ。そりゃもう暴力が詰エリ着て闊歩してるような。でも、親父さんの店継ぐ前くらいからすごく丸くなったな。今は精肉店の店主やからね」

「ふーん。お店このへんなんですか?」

「ほら、地下鉄出たところの、大正通りの高架下の商店街の入り口にある店。ちっちゃい店」

「え」ふみ子が目を丸くした。「あのイケメンがいるお肉屋さん。名前が……」

「マルハ精肉店」

「そう! え、あのイケメンさんってオーナーなんですか? なんか素敵」

「……素敵? え、あいつイケメンで有名なの?」

「この界隈で知らないの、店長くらいじゃないですか」

「いや、知らないってだから僕の友達の店」

「あのイケメンが、あの若さでオーナー。なんか素敵」

「僕も同じ歳で、文具店のオーナーなんやけどな」

「それでなんで店長がお店をうろうろしてるんですか?」

「うん」巌志は鼻の下を人差し指でごしごしこすった。「なんかどうせ行くんやったら文房具屋の主人として、手土産でもと思って」

「え、お祝いに文具ですか」

「お祝いは産まれた時にしてるよ。今日は手土産。ツバメノートの五冊パックをどこに置いたかな、と思って」

「ええー。スイーツとかのが良くないですか?」ふみ子がつい、と手を伸ばし、表通りに面しているショーウインドーの下にある引き戸を指さした。

「ツバメなら確かそこに」

「あれ。ここやっけ?」

「自分で仕舞ってましたよ店長」

 引き戸の中には果たして、ツバメノートの五冊パックが三つ入っていた。巌志はその一つを手に取る。

「ずっとこれを使ってるんやって。親父さんの代から」

 ツバメノート。

 淡いグレーの毛入り表紙に〈NOTE BOOK〉とレトロなフォントで飾られたデザインといい、黒のクロス張りが施された背表紙にクリーム色の小さな背見出しが付いているところといい、いかにも大学ノート然としたスタイルが特徴だ。

「ノート部分にフールス紙っていう、極めて特殊な紙を使用してる。フールス紙ってのは一般的なノートに使われる上質紙とは違って、和紙作りと同じように水を何度も通す漉き作業によって作られてるんよ。漉いて作られた紙はコシがあって、インクの浸透力も高い。油性ボールペンみたいに粘りのあるインクよりも、水性ボールペンとか万年筆との相性がいい。しかも普通の上質紙の場合は万年筆みたいなさらさらのインクで筆記したら裏側に抜けてしまうけど、このフールス紙ではそういった裏ヌケもほとんど起こらへん。長時間、長文を万年筆で筆記する作業に向いてるノートやねん。ヤンの親父さんは万年筆をずっと使ってたんやって。で、このノートもずっと使ってたと。万年筆と一緒に。だからヤンも引き続きこれを使ってる」

「ヤン?」

「その友達の名前ね」

 マルハ精肉店では他の同業種店舗同様、揚げ物等のお惣菜も販売している。中でもコロッケは、この界隈でも「このへんに来たなら食べなきゃ損」と言われる地元名物的ポジションを確立していた。

「あそこのコロッケね、めっちゃ評判なんですよ。お惣菜の中では最大のヒット作らしいです」

「なんかそれ、どっかで聞いたような気がする」

「でもね、そのイケメンオーナーさんはその味にはまだ納得してないんですって」

 昔、ヤンが口にしたコロッケ。つまり、マルハ精肉店がまだ父親のものだった時に食べた、父親手作りのコロッケとは似て非なるものなのだ。思い出として美化されているのでは決してない、とヤンは強く信じる。

 作り方に特別なものはない。

 油にただぽんぽん放り込むだけではなく、きれいに整えられた形を崩さないように、鍋肌から滑らせるように油に投入する。油の温度ももちろん決まっている。きっちり一八〇度。それ以上でもそれ以下でもいけない。

 油に沈んでいたコロッケがほどよくキツネ色になり、ぷかりと浮いてきたら頃あいだ。メッシュのお玉でどんどん油切りトレイに上げてゆく。コロッケの表面はちりちりと音を立てる。

 油切りのタイミングはばっちりであり、常に揚げたてである。ホクホクの男爵いもに自慢のミンチ。これで旨くないはずがない。それなのに、とヤンは思う。

 なんとかあの味に追い付きたい、あの味を再現したい。というヤンの願いは叶い難い。

 なぜならヤンの父親、りゅうはもうこの世にはいない。

 劉は精肉店を営む少し前、この界隈でも有名な暴力団の構成員だった。



 たった一度だけ、幼いヤンは劉に尋ねたことがある。お父ちゃんのコロッケはなんでそんなにおいしいん? と。

 すると劉は少しむっとしたような顔で「別に理由なんかない。一生懸命作ってるからや。湯がいたじゃがいもを潰して炒めたミンチと混ぜて、そんでパン粉付けて揚げる。普通に作っても、ちゃんと食べる人のことを考えて気持ち込めたらそれなりに旨いもんができるんや」と言い、そのあと必ず「お父ちゃんには料理の才能があるからな」と付け加えた。そうして素早い手つきで次々とネタを作り、旨いコロッケを揚げてゆくのだった。

 確かに劉は料理上手で、コロッケ以外にも和洋中、様々な料理をその台所から生み出し続け、家族はみんなその味に舌鼓を打った。

 その中でも特にコロッケが大好きだったヤンは、見よう見まねで作ったことはあったが、どうにも上手くいかない。ぼろぼろにネタが崩れたり、味が消えてしまったり、変にぐにゃぐにゃ軟らかかったり、ぱさぱさだったり。そんなヤンが作った不味いコロッケを、家族全員で渋い顔をして食べた。

「もうお前は今後一切台所に立つな!」

 ヤンは劉に叱られた。そして劉はもう一度台所に立つと、頬が落ちるような旨いコロッケを作った。



 ヤンが中国の吉林省に住んでいたのは六歳までだった。だから、とにかく途方もない田舎で何しろ寒かったということと、庭先でオケラをよく採っていたという思い出以外、当時の記憶はほとんどない。

 劉の両親、つまりヤンの祖父母も中国人だがずっと日本に籍を置いており、大阪市内のとある貿易会社で勤務していた。ヤンが産まれたので、家族全員で中国に一時帰国していた劉一家はもう一度日本で働くべく、一人っ子のヤンが小学校に通える六歳になるのを待って再来日した。そして祖父母の口利きで何とかマルハ精肉店を開業させた。

 幼年期の数年しかいなかったからか、ヤンができる中国語は挨拶くらいのものだ。劉や、ヤンの母も中国語の方を流暢に話す。彼女は中国で生まれ、何度か日本に来たが、誕生から三十年ほどのほとんどを中国で過ごしている。

 ヤンは国語の授業が特に嫌いだった。たった数年でも中国で育ったヤンにとって日本語の発音は難易度が高かった。教科書を音読すると、どうしても妙なイントネーションの癖が出た。当然のように、その癖をクラスメートはからかいの対象にした。その学校で中国人はヤン一人だけだったのだ。

 それがきっかけで、ヤンはクラスメートから壮絶ないじめに受けることになる。

 学校に行くと、鉄でできた教室のドアのそばに一人が立っている。そしてヤンが入ろうとした瞬間、勢いよくドアを閉める。鉄でできた重いドアである。ヤンの体から青アザが消えた日は一日となかった。

 給食を配膳する時に着る白いスモックなどはしょっちゅう所定の場所から消えていた。上履きもカッターナイフで刻まれた。何度買ってもなくなるので、ヤンは仕方なくいつも職員用のスリッパを履いていた。

 そんな辛い日々は、ヤンが小学校を卒業し、中学校に進学しても続いた。

 榊原という、隣の学区から来た優等生が、入学式からわずか一週間程度でクラスのリーダー格に納まった。その榊原が、それがリーダーとしてさも当然の務めであるかのように率先してヤンをいじめた。

 榊原はくっきりとした眉と大きな目を持つ二枚目で、中学一年生にしては体が大きかった。成績も良くスポーツも万能で、野球に関しては特待生のような扱いだった。当然のように教師陣にも贔屓され、学校の誰もが一目置く存在だった。

 ヤンは今でこそ一八〇センチを超える長身だが、その当時は背の順に整列すれば必ず前から三人目か五人目程度だった。彼に成長期が訪れるのはもう少し先だ。ちなみに高校入学時、ヤンの身長は一七五センチまで伸びていた。

 授業が終わると、ヤンは居づらさを感じる教室を出て廊下に出て一人でしゃがみこみ、時間を潰していた。

 と、前方から榊原が歩いてくる。横を通り過ぎようとするかと思いきや、彼は突如ヤンの方を向き、「しゃがんだバツ」と言いながら膝蹴りをヤンの顔面に叩き込んでくる。中学生とはいえ、体重を乗せた運動部員の膝蹴りだ。頬骨が砕けたんじゃないか、と思いたくなるほどの痛みだった。

 ヤンが校内のどこの廊下にいても榊原は発見した。発見した時の第一声は判で押したように同じだった。「はい見ーっけたー」である。そして「バツ」と言いながら蹴られる。罪状と刑は日によって異なった。「隠れたバツ」もあれば「逃げたバツ」もあれば、「立っていたバツ」というのもあった。そして刑は膝蹴り、つま先での鳩尾蹴り、両耳を掴んでの引きずり倒し、頭突き、とバラエティに富んでいた。

 入学から数週間が過ぎると、榊原を中心にいじめグループが生まれつつあった。優等生でもある榊原の行動だけに教師陣は見て見ぬふりを決め込んでいた。

 このままじゃあかん。遅まきながらも、ヤンが思ったある日。

「はい見ーっけたー」と同時に最もオーソドックスといえる膝蹴りを腹に入れられた瞬間、ヤンの中で何かが音を立てて切れた。

 気づくと、榊原は鼻の辺りを両手で覆ってしゃがみこみ、泣いていた。

 指の隙間からは血が流れていた。取り巻きの二人は青い顔をしていた。戦意などヤンには微塵にも感ぜられなかった。

(なーんや。簡単なことやったわ)

 ヤンは半ば呆れた。

 こっちも手を出せばいいだけだった。畏縮せずに殴り返せばいいだけ、いや、やられる前にやればよかったのだ、とヤンは結論付けた。

 そこからスイッチは切り替わった。

 翌日にはヤンの髪は一本残らず金色になっていた。

 その時のヤンは友達を作るのも上手ではなく、先輩との付き合いも敬遠していた。つまり、当然のように総金髪のヤンは近隣の不良達に睨まれていた。加えてヤンが一年生だった頃、ヤン以外に目立った不良はいなかった。完全に不良化したヤンから見ると、入学当時こそガキ大将のように感ぜられた榊原などは小物でしかなく、そうなると余計にヤン一人が目をつけられた。

 近所の公園でいつも同級生上級生含めた数人に待ち伏せされ、襲撃を受けた。他校の生徒がいることもあった。

 ヤンは一旦喧嘩がはじまるとアドレナリンが早急に、しかも大量に出やすい性質らしく、恐怖心や痛みを感じて臆するということがなかった。だから相手が五人くらいまでなら上級生が混じっていようが自ら戦いを挑んだ。結果、勝つこともあれば負けることも当然あった。五十段もある階段から突き落とされて鼻骨を骨折し、頭を二十針縫ったこともあった。

 そんな日々を送っていたヤンはある日、なんと学校側から〈登校拒否〉をされる。

 学校へ行くと、ちょうど校門が斜め下に見える位置にある職員室から、教師が校門へ飛んでくる。そして「帰れ。ここはお前みたいな奴の来る場所とちゃう」と言う。

 やむなく一旦帰り、また時間をずらして学校へ行くと、また校門のところで教師が駆けつけてきた。

「帰れ。二度と来るな」

 先刻と同じ科白を教師は吐いた。

 次第にヤンも登校拒否を繰り返すようになった。



 いわし文具店からヤンの自宅兼店舗までは歩いて二十分程度だ。先刻の、店でのふみ子とのやりとりの二時間後には、最近ではめっきり利用することのなくなった懐かしい通りを歩き、ヤンの家にたどり着いていた。

「おおー。やっとツラ見せたか巌志」

 ヤンは店に立つ時のユニフォームであるコック服に、白い前掛けをしていた。高校の頃よりほんの少しふっくらしただけで、ヤンの容貌にはほとんど変化がない。巌志も学生と見紛われるほどの童顔だが、ヤンも三十歳には見えない。

「ほんま久しぶりやな、ヤン」

「お前がいっこもぇへんからやろ。お前は昔っからぐいぐい呼ばんと腰が重い男やからな」

 巌志は苦笑しながら階段を上がり、ヤンに続いてリビングに入った。

「ああ。お久しぶりです」

 沙織さおりはベビーベッドのそばに横座りし、赤ん坊をあやしているところだった。

「ほんまにお久しぶりです。結婚式以来ですかね」

「ほんまにお久しぶりです。結婚式以来ですね」

 ヤンが茶化した。

「しつっこいなあ、お前も大概」

「毎日あぶらっこいフライやら天ぷらやら揚げてたらしつこくもなるで」

「ほんまにこの人ね、多田野さんのこといっつも言うてるんですよ」

「え」巌志はほんの少し緊張した。「なんて言うてるんですか」

「親友で幼馴染みの俺んとこに全然顔みせへんーって、いっつも。寂しがりやから、この人」

「違う。俺は巌志の薄情さをなじってるだけや。子どもができたのをきっかけに、呼んでイビったろ思て。薄情さをな」

「ほんま悪いなあ、性格」

「顔は絶品やけどな」

「素直やないだけなんですよ。異常なほど照れ屋で、虚勢はるけど人見知り」

「ああ。言い得て妙ですね。そういうとこある」

「お前らもう黙れ。沙織、コーヒーくらい淹れたってくれ。薄情な奴やけど」

「ああ、ヤン。これ」巌志は鞄からツバメノートの束を出した。「裸で悪いけど」

「何?」

「手土産。うちの商品持ってきた」

「手土産? 普通チーズケーキとかシュークリームちゃうんか」

「文房具屋の主人らしいことがしたかったからな」

「おお、そうか。文具屋やもんな」ヤンはパッケージを手に取った。「開けてええか」

「もちろん」

 サンキュと小声で言い、ヤンは電話機の横にある筆立てからカッターナイフを取った。そしてセルパッケージの端に刃の先端を入れ、しゅっと縦に割いた。

「おー」

 ヤンにしては随分小声で感嘆すると、一冊だけノートを取り出し、その表紙をしげしげと眺めた。

「よう覚えてたな、これ。使ってるブランドとか」

「文具のことは忘れたくてもよう忘れへん。誰が何を好きやったかとか」

「そうか。そこはさすがにプロやねんな」

 ヤンは表紙を開いた。見返しには淡いグレーでツバメのイラストとブランドロゴが印刷されている。その下には、社の製品に対するこだわりが薬の効能書きのように、六項目に渡って記載されている。

「五冊もあったら当分はもちそうや」ヤンは表紙を閉じた。「ありがとう」

 巌志は頬を掻いた。「ちゃんとお礼とか言われるとこそばいな」

「なんで」

「ヤンのキャラに合うてない」

「ええ大人が貰いもんしてちゃんと礼も言わんて、俺は一体どんなキャラやねん」

「あの、」沙織が割って入った。「コーヒーできましたよ、お二人さん」

 ヤンがテーブルに着いた。沙織はヤンの隣に座り、ヤンの対面の席を巌志に勧めた。

「ありがとうございます」

 巌志は大ぶりのマグカップを手に取り、コーヒーをブラックで一口啜った。

「ヤン」

 ヤンはカップにミルクと砂糖をたっぷり入れた。

「ん?」

「前から聞きたかったんやけどさ、なんでそのノートずっと使ってんの」

「理由? 言うてなかったっけ。親父がずっと使っててん。肉屋の仕事には、使い勝手が良かったとかで」

「……そうか。使い勝手の部分は聞いてなかったかな」

 旨いなー沙織ちゃんの淹れたコーヒーはほんまに、とヤンはにやけながら言った。

「キッチンは油を使うやろ。油が付いても、なんかこのノートやったら万年筆で滲まずに書けるから、やって。まあ俺は普通のボールペン使つこてるからそういうのはあんま関係ないけどな」

「親父さんは万年筆を使ってたんやんな」

「うん。ずっと使てたな」

「なんでなんやろ。万年筆はじっくり腰をすえて長時間筆記するような仕事に向いてるペンやからな。もしくは、金持ちとか偉いさんとかがステイタスとして、スーツの胸ポケットにぴしっと差したりとか」

「ふーん」ヤンはずっと手に持ったままだったマグカップをテーブルに置いた。「確かに、肉屋の主人には似合わんな、万年筆は」

「ってゆうか、使いづらかったんやないかな。手入れも面倒くさいし」

「まあでも、おっさん世代やからなあ」ヤンは苦い笑顔を作った。「憧れとちゃうかな。組抜けて、まっとうな仕事がやっとスタートできて、その証しとして持っときたかったんとちゃうんかな、そういうの」



 中学三年生の時に、ヤンは少年院に入った。

 罪状は、これはヤン自身も後で聞いた話だが、傷害五件と、先輩の手伝いでやった運び屋のアルバイト、そして窃盗、横領、バイクでの暴走。保護観察期間中にも悪行を止めなかった報いを、ついに受けたのである。

 出所後、それでも高校だけは行きたい、とヤンは担任教師に頭を下げた。と、一冊のパンフレットをヤンに渡し、「それやったらここへ行け。ここやったら、お前が学校来てなかったことも『いじめられて不登校だった』ってことにしたる。万事うまくいくようにしたる」と言った。

 その日から猛勉強し、詰め込むだけ頭に詰め込んだヤンはその勢いのまま入学試験に挑み、見事これをパスした。

 そして二人が出会ったのはその数ヶ月後、高校の入学式の日だ。

 式が終わり、巌志は校内をぶらりと歩いていた。一人で弁当を食べたりするなら屋上へ出るべきなのだろうなと思い、校舎の屋上へ足を向けた。

 屋上へ出るドアを開けると、そこにヤンがいた。フェンスにもたれ、煙草を吸っていたのだ。

 巌志をじろりと一瞥したあと、ヤンは小さく「ども」と言って、ほんの少しだけ頭を下げた。

「一年?」

 巌志が尋ねた。

「おう。そっちは?」

「僕も一年」

「僕、て。……そうか。何組?」

「四組」

「なんや、クラスメートかいな」

 そのまま一時間ほど二人は話し込み、唐突にヤンは「家近いんやから、今日うち来いよ」と言った。巌志は何となく流されるようにヤンの家に行き、マルハ精肉店の存在とヤンのこと、そしてヤンを取り巻く様々なことを知る。そしてその日から巌志とヤンの友情はスタートした。

 その頃のヤンからすれば、劉の存在は疎ましいものでしかなかった。

 毎日毎日、ぺこぺこ客に頭を下げてる奴。客に最近油の質落ちたんちゃうかとかクレームをつけられようが、無茶苦茶強引な値引きを迫られようが、とにかく曖昧な愛想笑いを浮かべて何度も頭を下げる奴。自分が、どんな問題を学校で起こそうが何も言わない。何も聞かない。ちょっと悲しそうな顔をするだけで、厳しい言葉一つもかけない。手も上げない。

 実際に怒鳴ったり泣いたり、手を上げたりするのは母だった。学校へ迎えに来るのも母だ。劉は来たことがない。ヤンが自宅謹慎を喰らって、居たくもない家にずっといる時も、劉はずっと店で出す肉を切ったり、惣菜の仕込みをしたりしていた。ヤンに背中を向けながら。

 父親らしいことをされた記憶は少ない。風呂さえ、幼いヤンはずっと一人で入っていた。

(もう俺みたいな問題児には一切興味ないんやろ。どうせビビッてんねやろ、俺に)

 喧嘩をすればもう絶対に自分が勝つ。ヤンはそう思った。

 そして、こうも思った。

(俺が、こうなったきっかけはなんや? 俺が中国人やからちゃうんか? 親父、あんたが悪いんちゃうんか)

 ヤンは劉のことを恨みこそしなかったが、興味や関心はどんどん失っていった。



 巌志が三杯目のビールを飲み干した時、ヤンの呂律と目つきと顔色はすでに怪しくなっていた。しかし巌志に続き、ヤンも一気に三杯目をあおるように飲み干した。

「おおー。飲んだ飲んだ。飲み干せたか」

「当たり前じゃあほんだらぼけかす。これくらいのビールで酔うかいな。あほんだらぼけかす」

「昔から弱いんですよね、こいつ」

「そうみたいですね」沙織はすでに四杯目を飲み干していた。「バーテンやってた時も、お酒は全然やったみたいですよ。なんで夜の世界に入ったんでしょうね」

「弱ないっちゅうねん。あほんだらぼけかす」

 ヤンは一点を見据えたまま、コップを握りしめてぴくりとも動かない。

 巌志は、沙織の作った豚の角煮を自分の皿に取って小さく割き、口に放り込んだ。

「僕、沙織さんのことはほとんど聞いてないんですよ、ヤンから」

「ああ、そうなんですか。あんまり言いたがらないかもしれないですね」

 沙織は手酌で五杯目のビールを自分のコップに注いだ。

「ヤンが高校中退して、バーで働いてた時に出会ったんですか?」

「ううん」

 沙織は長い髪をゴムで後ろに束ね直し、ベビーベッドで寝息を立てる赤ん坊をちら、と見た。ヤンはコップを握りしめたまま、はや半眼で舟を漕いでいる。

「バーで働いてた時のことは後で聞いたんです。この人がミナミでホストやってる時に。わたし、ヤンのお客さんやったんですよ」

「その、ホストクラブの?」

 こくり、と沙織は頷いた。

「わたしもキャバで働いてたんです。当時は、ヤンよりも全然稼いでましたけどね。この人、売れるまでちょっとかかったから……で、その頃はわたしのマンションに転がり込んで来たヤンを、ほとんどわたしが食べさせてるって感じでした」

「ああ……なんか、それはヤンから聞いた気がする」

「たぶんこの人、巌志さんくらいにしか言ってないんちゃうかな。友達も少ない人やから。なあ、喋ってええかな? もう時効よね」

 沙織は、すでにテーブルに突っ伏しているヤンの頬を人差し指で突っついたが反応はなかった。

「こいつ、飲んだらすぐ寝るんですよね」

「それも昔っからなんですよね?」

「うん。昔っから」

「基本的に少年っぽいんですよね」

「完全に少年ですよ、こいつは。発言から、何から」

「巌志さんもですよ」

「僕が?」

「もちろん良い意味で、ですよ。言われませんか、周りの人に」

 真っ先に巌志の脳裏にふみ子の呆れたような顔が浮かんだ。

「言われません」

「嘘ばっかり。何、今の間は」沙織は笑った。「ヤンが巌志さんのこと好きなん、めっちゃわかります」

「そうなんですか」

「似てますもん、二人」

「僕は真面目な学生でしたよ」

「そういうことやなくて」

 それが癖なのか、沙織は一瞬だけ右に首を少しだけ傾げ、同時に目線も右に走らせた。

「ホストの頃にね、」沙織はビールを一口だけ含み、口を湿らせた。「ヤンに真剣に口説かれたんですよ。それも、お店の中でですよ? それまでは冗談みたいに過去にヤンチャしてた頃の馬鹿話とかしてただけやったんですけどね。二人とも、まだ二十歳過ぎやったんちゃうかな……ヤンね、右肩に刺青入ってるの、知ってます?」

「え」ヤンのことだから刺青くらい入れているだろう、と思っていたものの、それでも巌志は驚いた。「知りませんでした」

「入ってるんですよ。……しかもね」沙織は可笑しくてたまらない、というようにくっくっと肩を震わせて笑った。「マリア様みたいな絵を入れてるんですけどね。その顔が、わたしの顔なんですよ」

「えー」

「彫師さんのとこにわたしのキャバのパネル写真持ってって、それで彫ってもらったって言ってました」

 巌志は黙った。

「何ですか?」

「……何ていうか……」

「あほでしょ?」

「うん。いや。あほじゃなくて。……愛ですね」

「ううん。ほんま、あほなんですよ」

 早々にいびきをかきはじめたヤンの頬を、沙織は人差し指でもう一度突いた。

「ヤンは好きや好きや言って、付き合ってくれ付き合ってくれ、ってゴリ押ししてくるんですけど、わたしからはそれがすごく子どもっぽく見えて。まあ、わたしもすごく子どもやったんですけどね。でもホストの言うことですからね、信用できへんかったんですよ。好き好き言うてても、あんたホストやし子どもやし、どうせ気持なんかころころ変わるよ、っていうのがその頃の口癖でした」

「それでヤンは、」巌志もビールを一口飲んだ。「カチンときたわけですね」

「そうやと思います」

 うう、とベビーベッドから赤ん坊の声が聞こえたので、沙織は上半身をひねってベビーベッドを見た。そして数秒ののち、また赤ん坊が寝息を立てはじめたのを確認すると、くるりと巌志の方へ向き直った。

「それからすぐにスミ入れて、見せましたからね。で、まあ……ほんまにあほやとは思ったけど、こんな不器用な形でしか誠意を見せられへんこの人のことがすごく可愛くなったんでしょうね、わたし。結局付き合うことになったんです。それから、ヤンもホストとしてだんだん売れはじめて」

「沙織さんの方が売れてたから、ノウハウを教えたからとちゃいますか」

「うーん、そうなんかな。というよりは、リアルにお客さん目線でのダメ出しをばんばんしたからやと思います。給料も上がっていきましたからね……」

 沙織はそこで、また一瞬だけ右に首を少しだけ傾げた。

「付き合ってすぐに今度は、結婚しよう結婚しようって言ってきてね。そのたんびにわたしは、あんたお金ないやんか。結婚て、ちゃんとやろうと思ったらなんぼかかるか知ってる? 結婚した後、ホスト続けられる? それとも夜の業界から足洗える? 好きなんは大事やけど、好きだけじゃあかんねんで、って。その時はまだヤンの方は、月給も二十万なかったんですよ。こんなこと言いながらヤンと付き合ってるってのもめっちゃおかしな話やけど、でも好きだけじゃあかんねんで、って……。なんか、いっつも同じこと言ってた気がする」



 昇り調子だったホストをすっぱりと辞め、長かった髪も短く切って、ヤンは実家に赴いて劉に頭を下げた。マルハ精肉店を継がせてくれ、と。真面目に勤め上げるのは当然で、必ず今以上に店を繁盛させてみせる、と。

 ヤンが一方的に喋ったあと、劉はしばらく何も言わず、お辞儀の姿勢をし続けるヤンをじっと見ていた。

 そして小さく「勝手にせえ」とだけ言い、「すぐには任されへん。しばらくはよそで基本的なことを勉強して来い」と付け加えた。

 ヤンはその日のうちに大手スーパーにパート募集の面接に行き、数日後には精肉売り場の店員として店に立った。

 そこからヤンの猛勉強の日々が始まった。

 ひと度これと決めたことには猪突猛進する性格が功を奏し、ヤンは技術と知識を面白いように吸収していった。仕事を終え、沙織のマンションに帰った後も、空いた時間を最大限利用して精肉や畜産に関する本を何十冊も読んだ。

 ヤンの知識欲は現場のことだけでは収まらなかった。店舗運営や事業マネジメントの本も片端からむさぼり読み、迷惑がられながらも本社の販売促進担当者に何度も電話してノウハウの伝授を求めた。

 それまでの怠惰で破滅的な日々を清算するかのように奔走し、精肉売り場の一職人としては十分すぎるほどの能力を身に着けた頃、ヤンは本社勤務を命じられ、正社員としてエリアマネージャーの職に就くことになった。

 しかし、あくまでヤンの目的はマルハ精肉店を継ぐことだった。エリアマネージャーとしての実務は経営観点からことを進めるという分においては大変勉強になったが、現場に出ることも決して忘れなかった。担当エリアのスーパーに赴いた際には必ずコック服に着替え、厨房でコロッケを揚げた。店の誰もがヤンのコロッケを食べ、旨いと言った。

 でも違う、とヤンは思った。

 小学生のヤンは、給食をきれいに平らげたにも関わらず、学校から帰るともう耐えがたい空腹に襲われていた。早々にランドセルを居間に放り投げると厨房をこっそり覗き、劉の目を盗んで商品のコロッケを掠め取った。そしてコッペパンに包丁を縦に入れ、同じく包丁を入れて二つに切った揚げたてのコロッケをパンに挟み、ソースとマヨネーズをたっぷりかけたそれにかぶりつきながら外に駈け出して行った。

 あの味を再現できる料理人が、親父以外にほんまに日本に何人おるんやろ? とも思った。

 飽くなき挑戦を続け、ほんの少しだけ父の味に近づけたかな、と思えるようなコロッケを揚げはじめた頃のことだった。

 電話の向こうで声を押し殺していたのは、ヤンの母親だった。

 最初、あまりにも声が震えすぎていて、訛りのある関西弁を聞き慣れているはずのヤンにも理解できなかった。何度か同じことを繰り返し言わせ、四度目にやっと理解できた。

 それは、劉の訃報を告げる電話だった。



 一日の業務を終えた後、劉は行きつけの居酒屋で一人飲んでいた。

 と、泥酔したチンピラ二人が劉に絡みだした。

「おっさん。元ヤクザってほんまか」

 チンピラはなぜか、隠していた劉の過去を知っていた。

 劉が苦笑しながらかわしていると、ついに二人はそばにあった空の一升瓶を割り、暴れはじめた。

 劉は体を張ってチンピラを止めた。

 手は出さなかった。必死の思いで作り上げた堅気の暮らしは絶対に捨てられない。しかし、振り上げた一升瓶を避けようとした時、劉の振った手がチンピラの目に当たった。

 チンピラは逆上し、ナイフを出した。

 気の小さい男だった。酔っ払った勢いで出したナイフを引っ込められるほど、チンピラは極道ではなかった。そしてまた劉は、がむしゃらに突き出されたチンピラのナイフを避けられないほど歳をとっていた。

 店主の通報は速かった。

 それでも警官が到着したのは、チンピラのナイフの刃が劉の胸に深く吸い込まれた後だった。



「……ヤンは」

 自然とゴムがほどけ、はらりと顔の前に流れてきた髪を、沙織はもう一度後ろでまとめ直した。涙に潤んだ目を巌志に向け、沙織は話し続けた。

「ヤンは、わかってたって。そう言ってました。なんか、いつかこんな日が来るような気がしてたわ、って。でもショックやった、って言ってました」

「……刺されたことがですか」

「ううん」沙織は首を左右に振った。「お義父さんが昔ヤクザやったってこと。死んだことは、その時は残念やって言ったけど、ヤクザやったってことが……亡くなってから知ったみたいやったから。……そういえばね、死んでからやっとわかった、って言ってました」

「何をですか」

「お義父さんが、ヤンと一緒にお風呂に入ってくれたことがなかった理由です。お風呂にね……」沙織の頬を伝った涙は顎先からぽたり、とテーブルに落ちた。「ヤンはお義父さんと一緒にお風呂に入ったこと、一度もなかったんですよ。……だって、見せるわけにいかへんかったから」

 巌志のグラスのビールは、とっくに炭酸が抜けていた。その覇気のないビールを、便宜上巌志は一口だけ飲んだ。

「刺青ですね」

「背中一面にびっしり入ってたそうです。子どもの頃のヤンは、何で一緒に入ってくれへんのー? ってむくれてたらしいけど」

 ヤンが言いそうなことだ。

 口を尖らせている少年時代のヤンは、見たことはないが巌志には容易に想像できた。勝手に頭に表情を描き、巌志は微笑んだ。

「巌志さん」

 急に名前を呼ばれ、巌志は我に返った。

「見てもらえますか、お義父さんの遺品。巌志さんにやったら見てもらいたいんです」

「……後でヤンが怒りませんかね」

 沙織はまた大きく首を左右に振った。

「絶対にヤンは怒らへん。あれを巌志さんに見せてヤンがもし怒ったら、わたし離婚しますもん」

 沙織はにっこりと笑った。そしてゆっくり立ち上がると隣の部屋へ行き、蛍光灯をつけた。

 ヤンはぽっかりと口を開けて眠っている。



 会社に五日間の休暇をもらい、ヤンは久しぶりに実家に帰った。

 しばらく見ないうちに驚くほど歳をとった母親が取り仕切って、しめやかに葬式は執り行われた。

 棺に入れられた劉は、すっかり老人になっていた。

(最後に会話を交わしたんは、一体いつやったんやろ?)

 淡々と進められる式の中、ヤンはぼんやりとそんなことを考えていた。

 遺品の整理は、母親と一緒に三日使って大体終えた。

 あっけないもんやなあ、とヤンは思った。五十年以上生きて劉が培ったものは、年老いた母とヤンの二人がかりでたったの三日で片づいたのだ。

 劉の使っていた本棚は料理の本でいっぱいだった。

(ほんまに料理好きやったんやなあ、極道親父)

 胸の内で呟いたあと、ヤンは何気なく本棚の一番端に目をやった。

 ノートがあった。ぼろぼろになった同型のノートが、何冊も並んでいた。

 ヤンは導かれるようにノートを取り、中を見た。見返しには、ツバメのイラストが印刷されていた。

 言葉を失った。

 中には、料理のレシピが万年筆でびっしりと書かれていた。

 凄まじい量だった。ハンバーグ。野菜のかきあげ。筑前煮。ふろふき大根。グラタン。ビーフシチュー。肉じゃが。きんぴらゴボウ。ブリの照焼き。手打ちうどん。ギョウザ。ミートソース。そして、コロッケ。

 ヤンの手は自然に、コロッケのページで止まった。

 日付が記入されてある。

 それはヤンが七歳の頃に書かれたレシピだった。



 ………………

「用意するもの」

 ・ボウル(材料を混ぜるので大きいものが良い)

 ・鍋(じゃがいもをゆでるので大きく深いものが良い)

 ・フライパン(ミンチや玉葱を炒める)

 ・ポテトマッシャー

 ・揚げ物用の鍋、もしくはフライパン(揚げ焼きならフライパンで充分)


「材料」

 ・じゃがいも(鍋やボウルに入る量。多すぎると潰すのが大変。男爵がみんなの好み)

 ・ミンチ(やや大きめのトレーに入っているのを1パック。合挽でOK!)

 ・玉葱(中くらいのを2~3個)

 ・醤油、塩、胡椒(味付け用)

 ・小麦粉、卵、粗めのパン粉(コロモ用)

 ・バター(炒める時に使う)

 ・揚げ油(植物系が体に優しくて良い。が、ヤンにはちょっとパンチが弱いかも……)


「作り方」

 1.じゃがいもを丸ごとゆでてマッシュする。(ヤンは粗めが好き、お母ちゃんは細かめが好き)

 2.玉葱をみじん切り。玉葱の味と感触が残る方がいいので、ちょっと大きめに。

 3.玉葱をバターで炒める。色がつきすぎない程度に、でも透明感があってしんなりする程度に。ちゃんと炒めたら、甘味が出る。火力とフライパンによっては時間がかかる。

 4.ミンチを炒める。ちゃんと火が通った程度に。炒め過ぎないように注意(料理は愛情!)

 5.………………



 それ以上は読み進めることができなかった。

 万年筆の水性インクが滲んでいたわけではなかった。ツバメノートのフールス紙に書かれた文字は、経年による変化を許してはいない。

 問題はヤンの目にあった。

 ヤンの目は次から次へと溢れ出る涙でかすんで、文字が判読できなくなっていた。

「極道親父め。何が、適当に作っても旨い、や」

 ヤンは尋ねたことがある。

 お父ちゃんのコロッケはなんでそんなにおいしいん? と。

「別に理由なんかない。一生懸命作ってるからや」

 劉はそう答えた。

 その言葉には偽りはなかった。

 そしてヤンは、自分のコロッケに足りていないものの存在を知った。

 ヤンの涙はコロッケのページに落ち、フールス紙に吸い込まれた。



 劉の遺品であるツバメノートの表紙に書かれた〈その一〉という文字を、沙織は親指でなぞった。

「食べる人のことを考えて気持ち込めたら美味しいもんができる、っていうのも、お義父さんからすれば本心やったんやと思います。でも」

「でも、料理の才能があるっていうのは、親父さんの見栄やったんかもしれませんね」

 沙織はくすり、と笑った。

「沙織さん。ヤンはね」

 巌志は沙織の目を正面から見据えた。

「ヤンは、親父さんの背中をずっと見てましたよ。……ヤンは見たことないって言うかもしれんけど」

 沙織もまた、巌志の目を正面から見て微笑んだ。

「知ってます。そういうところが好きなんです。そこ以外は、めっちゃあほな男なんですけど」



「あーそういえばお前っ。こら巌志」

 翌朝、トーストにかぶりつきながらヤンは素っ頓狂な声を出した。

 巌志は一口目を含んだばかりのコーヒーにむせ、危うくヤンの借り物パジャマを汚してしまいそうになった。

「何。なんや急に」

「お前。結局思い出話ばっかりしてもうたやんけ。今回お前を呼んだ本来の目的を思い出したわ。たった今」

「あ、そうか」

「そうや。チビのことや。すっかり忘れてなごんどったわ」

「ほんま、何しにわざわざ来てもうたんよ」

 朝の身支度をすっかり終え、ジーンズとカットソーに着替えた沙織が、焼きたてのベーコンエッグを巌志の皿に乗せた。

「何言うてんねん。沙織ちゃんも忘れてたやんけ」

「そういえば、名前もまだ聞いてへんかった」

「でも最早、開店の時間や」

 ヤンはばたばたと着替えはじめた。

 巌志は手早くトーストとベーコンエッグを平らげ、ごちそうさまと言いながら皿に両手を合わせると椅子から離れ、ベビーベッドで眠る赤ん坊を覗き込んだ。

「巌志さん。目。目ぇ見てください。お義父さんに似てるでしょ」

 沙織の言葉にそうですね、と巌志は答えた。

 生まれたばかりなので正直、巌志には似ているがどうかよくわからなかったが、その目には劉とヤンの意志がひそやかに息づいているように思えた。少なくとも巌志はそう信じることにした。

 リビングの柱に、額装された劉の遺影が飾られていた。

 その横に、大判の命名紙も並べて飾られている。

「ええ名前やな。ほんまに」

 巌志は命名紙から目を逸らさずに言った。

 コック服に着替え終えたヤンは照れ臭そうに笑いながら、白い前掛けを身に着けた。

「喧嘩なんか強くなくてええねん、優しかったら。人の気持ちの真ん中のとこがわかるやつになってくれたら、って思ってな」

命名紙には〈優真ゆうま〉と書かれていた。



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