1-15a 屋台での買い物

 霧たち一行は、昼食を調達するために競技場の外に繰り出した。

 競技場の周辺は相変わらずお祭りのような賑わいで、飲食店や出店があちこちに立ち並び、多くの人が行き交っている。

 霧は目移りしながら「あ、あれも食べたい。それからあれも、これも、それも、あっ、これは何?!」とはしゃいでいた。

 ありがたいことに、入学旅行中のすべての費用は学園負担となるため、霧たちに費用の面での心配は要らない。もちろん、常識的な範囲内での消費に限られるが。


(タダ食い、ヒャッホー!! 夢でも大歓迎!! 夢の中でお腹いっぱいにしちゃお! 現実じゃ、割引シールの貼った菓子パンですらあたしには贅沢品ぜいたくひんだもん)


 霧はそんな風に心の中で叫びながら、ウキウキしながら屋台を物色していた。

 驚くことに、この物語の世界には通貨が存在しない。遥か昔、「かね」という悪魔の交換媒体ばいたいは完全に撤廃てっぱいされた。それ以降、『クク・アキ』にはファンタジックで特殊な設定のシステムが導入されている。

 それがまた、この物語『クク・アキ』の世界観の面白いところだ。


 この『ククリコ・アーキペラゴ』と呼ばれる世界では、誰もが生まれた時に一冊の特殊な『辞典』と、一人の特別な存在『辞典妖精』を授かる。『辞典』と『辞典妖精』は二つで一つ、常にセットだ。

 そして『クク・アキ』には、上記セットを媒介ばいかいして繋がる特殊なネットワークが構築されており、独特の売買システムが確立されている。

 その洗練された仕組みは、人々に等しく豊かな暮らしをもたらした。


 しかし1540年より以前は、この『クク・アキ』の世界もまた、格差社会だった。

 専制君主とそれに付随ふずいする貴族階級で構成されていたその昔、当時の辞典魔法士は君主や貴族に使い捨てにされる奴隷のような存在で、民もまた、圧政に苦しんでいた――と、物語の中の歴史で語られている。

 そんな世界が根底から変わったのは、1540年前のこと。伝説の辞典魔法士たちが団結し、人々を権力者の圧政から解き放ったことがきっかけだ。未曽有みぞうの革命によって世界中に大掛かりなパラダイムシフトが起こり、世の中の仕組みがガラリと変わった。その変革の一つとして、辞典魔法士だけの魔法アイテムだった『辞典』がすべての人に配られ、その結果、一部の特権階級だけが享受きょうじゅしていた豊かさを、すべての人が受け取るに至ったのだ。

 万人にもたらされた辞典魔法の便利さは、人々の生活にあっという間に根付き――今に至る。


 そういうわけで現在、この世界の経済はかねというものを介しない。金という概念がいねんは、もはや過去の遺物。

 この独自設定が物語の中で紹介されているのをはじめて読んだ時、霧はものすごく感動してうらやましくなった。霧の生まれた日本をはじめ、地球上はどこもかしこも、かねと言う名のかせで縛られていたから。


 そして霧は今、お好み焼き屋と思われる屋台の前で、少し戸惑っていた。

 旅行中の費用は学園持ちなので霧たちに負担はないが、辞典妖精のネットワークに売買を登録する必要があるため、みんなおのおの、自分の『辞典』をお店の台座に置いて、食べ物を受け取っている。みんなの『辞典』からは一瞬、小さな妖精が飛び出し、台座に吸い込まれ、また『辞典』に戻ってくるのが見えた。

 それを見て、霧は自分の辞典の中には妖精はいないんじゃ……と不安を募らせる。


(だってこれ……日本で買った字引だもんな……。どうしよ。いや……でもこれ、夢だし……何とかなるよね? そうそう、これは夢。うんうん、夢。やけに長くてリアルだけど……。……夢……だよね?)


 何だか動悸どうきがしてきた霧は、お店の台座の前で固まっていた。霧のその様子を覗き込み、リューエストが声をかけてくる。


「どうしたの、キリ。大丈夫、簡単だよ。ホラ、こうするんだ。何も心配いらないからやってごらん」


 リューエストが目の前で実演してくれた。霧はゴクンと唾を呑み込むと、辞典を取り出す。


(ええい、ままよ!)

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