境怪異譚
きりしま
始まりの怪異
第一話 さかえ はじめ
素行は良くなく、父には見捨てられ、母からはいないものとして扱われるようになった。どこの家庭でも時にありがちな話で、初は特段気にしてはいなかった。
初には兄と妹がいて、兄と妹の仲は良いが、初と妹の仲は良くなかった。兄と初の仲は良く、ただただ初だけが家族の中で浮いているようなものだった。それがいつからだったのか、当の本人は覚えていない。ただ、気づいた頃には兄が仕方なさそうに笑って横に居て、兄が高校の頃は初を同じアパートに住まわせ、面倒を見てくれていた。
兄が大学に入るタイミングで地元を出て来たのでそれに便乗し、初は兄のマンションから近い高校を受験した。兄のためなら金を出す両親は、初がいることで兄の迷惑になることを恐れていたが、兄は大丈夫だよと笑って初をマンションに引き取ってくれた。実家は両親と妹の三人になり、その家族の輪の中に入れない初だけが、離れることができた。兄のおかげだ。
「初、高校にはちゃんと行っておくんだぞ」
「わかってる、ここにいるために、だろ」
「そう、それも大事だ。でもな、くだらない勉強でも、始めてみたら面白いものはきっとある」
「あるかな」
「あるさ、要は頭の体操なんだよ。今後一生使わないかもしれない数式、微分積分、どこで使えばいいんだか、わからないが、様々なことを考えられる思考を持つことができる。これが大事なのさ」
父親が父親としての機能を失っていたせいか、兄は時々、こうして親父くさい話をすることが増えた。余計なお世話だと思うことも多いが、現状寝食を甘えている状況なのでうるせぇ黙れとは言えない。
兄にマンションを借り、与え、仕送りができる家なのだから富裕層と言っていいだろう。直接の恩恵はないが、食うに困らないだけましだ。高校までは学費を出すと言うのでその後は就職し、家族から離れる予定でいるし、親もそのつもりで目を逸らしている。大学に行かないのかと兄は言うが、学費の捻出をどうするだとか、いろいろ理由はある。大学に行くなら出してくれると思うぞ、と苦笑されたが親は信用ならない。離れてしまった方がお互いのためだと初は考えていた。
そんな兄は今は大学で民俗学を専攻している。民俗学とは、兄が勝手に話したところによると、風習や生活、民話やその場所の人たちに伝わる伝説や、まぁそういった無形の何かを解き明かしていく学問なのだそうだ。
兄はその中でもいわく付きの何某が好きらしく、休日に民族学博物館や資料館などに足を運ぶこともあった。学生の身分ながらフィールドワークと言う名の田舎への旅行もその一端だ。その場所の伝承などを紐解けば、どんな生活をしていたのか、残っている伝説がどんな警告の意味合いを持っていたのか、面白くて仕方ない様子で酒を片手に語られた。未成年の弟に酒を進める悪いところもあったが、初は兄が嫌いではなかった。
そもそも、初とて最初から素行が悪かったわけではない。生まれてから初にはもう一つの世界が視えていて、それを他人が視えないのだとわかるまでに時間を要しただけだ。今となってしまえば視ないふりもできるようになり、そういうものなのだと思えばこそ、知らん顔もできる。
初がそうして自分で対処できるようになるまでの間に、親からは忌み子扱いされるに至った。視えているのだと信じたくない様子だったことはよく覚えている。振り返ってみれば、祖母の家に行った辺りから両親の態度は大きく変わったように思う。
親からの愛情に飢えて小学校高学年からは乱暴になり、触れるものを壊そうと何かの歌のように躍起になった。話していた相手が他人に視えないものだと判別がつくようになったのは中学に上がってからだ。五つ年の離れた兄が寮制の高校に上がっていたこともあり、家庭での状態に気づくのが遅かったのも良くなかった。兄はすぐさまアパートに移り、初の中学を転校させた。兄の声がどういう経緯で鶴の一声になったのかはわからないが、初はようやく息が吸えるようになった。
初の状態を詳しく掘り下げはしなかったが、兄から転校祝いにとiPodとヘッドフォンを贈られた。常に耳に入って来る声を防ぐには有効だった。初は常にそれを首にかけるようになり、こうして、兄の助力で人の生活に混ざれるようになった。
一度だけ、何故ここまでするのかと聞いたことがある。兄はいつもと同じ胡散臭い笑顔を浮かべて、だって弟だもんな、と眼鏡の奥の眼を細めた。
ある春の暑い日、リュックを背負って兄が言った。
「資料館に行ってくる」
いつもならば何も言わずに出ていって、帰ってきてからあれこれと語る兄が行き先を告げるのは珍しい。首に掛けたヘッドフォンから零れる音楽は四、五前のインディーズの楽曲だ。一応バイトはしているが家を出る時の為に貯金していて、最新のCDなどは買わないのでそうなっている。初からの返事がないことに焦れた兄はヘッドフォンを持ち上げて同じことを言った。
「聞こえてるよ」
「返事しろって、守谷資料館に行ってくる」
「勝手に行けよ」
「冷蔵庫にパスタあるからな、昼に食っとけよ」
「どうせレトルトじゃねぇか、しかも兄貴の残りだろ」
「だとしても美味しい、感謝しろよ」
ヘッドフォンを奪い返せば胡散臭い笑みで自身の胸を叩く兄が見えた。くだらね、と呟いてヘッドフォンを頭にかけて、耳を塞ぐ。膜を二重三重にした向こう側で微かな、いってくる、という声と、ガチャン、というオートロックの音が聞こえた。
守谷資料館はかつて某県境の山間にあった村長の家系の資料館だ。
県境と言うこともあり、土地の切り分けや水の采配を一手に引き受け、二、三の村を丸ごと支配下に置いていたような家だ。これは珍しい在り方でもある。資料館を建てたのは街に降りて来た子孫で、無人となった家の管理ついで、由緒ある品々を並べ入館料をせしめようという考えだ。文化財としての登録はないが、マニアには古いと言うだけで垂涎の品だ。収集家はどのジャンルにも存在する。
街から少し離れた林の中、雰囲気もなかなか良い。駐輪場にバイクを止めてヘルメットを外し周囲を見渡せば、杉の木の隙間から零れる陽光が少なく感じた。僅かな薄暗さ、大きめの木造建築、小さく頷く。
「雰囲気がある」
ちらほらと停められているバイクや車がスタッフのものなのか、それとも自分と同じひと癖ある者なのか、想像しながら入館手続きに向かった。受付は子孫か雇いなのだろう、眠そうな婦人だった。金を払えば再び新聞に視線が下りた。
展示品を傷めない為に光度を落としているとパンフレットには記載されているが、節電目的だろうなと感じた。窓は小さく薄暗い林の中では明かり取りとしての意味はない。早速展示エリアに足を踏み入れたところで、もやりとしたものを感じた。車やバイクもあったというのに自分以外に人の気配を感じない。直感的に不味いと思い、踵を返したが視界がぐるりと回る感覚を覚えた。再び展示エリアに向いた自分の体、もう一度踵をゆっくり返してみれば、壁が回るようにして展示エリアが眼前に広がる。やらかしたな、と胸中で呟き、リュックから箱を取り出して足を進めた。
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