愁雨―しゅうう

popurinn

第1話

 午後になって、雨がやんだ。

 どんよりと重たげだった空は明るさを増し、地下鉄の駅を出たときには、やわらかな日差しが町を包んでいた。

 打ち合わせのために銀座へやってきた私は、濡れた傘を畳み、羽織っていたカーディガンを脱いで、細いストライプのシャツ姿になった。まだ春というには浅いが、確実に新しい季節が訪れていることを知らせる、そんな午後である。

 

 先方が指定したのは、前回のときと同じホテルのロビーだった。私は混んだ大通りを、目指す場所へ向かった。

 ホテルに着いてみると、待ち合わせた時間までまだ一〇分ほどの余裕があった。私は坐って待つことにした。喉の渇きも覚えたし、読みかけの本もハンドバッグの中にある。ロビーを見渡すと、奥の壁際に空席があった。

 私の坐った場所は、ロビーの中央に置かれた大きな植木鉢の横だった。椅子が緑を背にして置かれ、首を巡らせばロビー全体を見渡すことができた。私はボーイを呼んで紅茶を頼み、膝の上にペーパーバックをひろげた。このところ夢中になっているスコットランドに住む作家のミステリーで、まだ翻訳版は出ていないから、原書である。ところどころ、スコティシュ訛りにつまずかされたが、読み進むうちに、場面場面が鮮やかに目の前にひろがってきた。

 

 私が英語の原書の小説を辞書なしで楽しめるようになったのは、ここ四、五年のことだ。それまでもどうにか読み終えることはできたが、楽しむというところまではいかなかった。英語を使う仕事をささやかながらもするようになって、ようやくナイフとフォーク程度には、使いこなせるようになったのである。

 私は会計関係専門の翻訳家をしている。といってもこれは私の副業で、本職は予備校の事務だ。本当なら翻訳だけで食べていきたいのだが、英語の翻訳はライバルが多すぎて諦めざる得なかった。それでも、好きなことをして、ときどきお小遣いが稼げるのは、しあわせだと思っている。ベストセラーの本を訳するような華やぎはないが、確実に収入を得られるし、今のところ競争相手の少ない部門で気に入っている。

 

 第二章から第四章までを読み終えても、まだ相手はやって来なかった。今日は訳した原稿を、公認会計士協会が出している雑誌の編集者に渡す日である。

 日付を間違えたのでは。

 そう思ったとき、ロビーの端からこちらに向かってくる編集者の姿を見つけた。咎めるつもりがないことを、私は笑顔で示した。今日の日を指定したのは、私の方である。私の休みが取れる平日は曜日が水曜日と決まっていて、それに合わせてくれたことを感謝している。

 読みかけの本をハンドバッグにしまい、かわりに原稿を取り出したとき、後ろから男性の声が聞こえた。テーブルは離れているが、声ははっきりと聞こえる。

 思わず後ろを振り返ると、四十代とおぼしきスーツ姿の男性が、スマートフォンを耳に当ててしゃべっている。彼も私と同様、待ち合わせた相手を待っているようだ。

「わかりました。お気になさらず」

 仕事がらみか、ちょっと硬い声だ。


「はい、お名前は――佐伯蓮子さえきれんこさんですね」

 顔を前に戻そうとした私はそのまま動けなくなった。聞こえてきた名前が、私の中で反響する。


「伊藤さん、どうかしましたか」

 やって来た編集者が、私の視線を追った。スーツ姿の男性は、電話の会話を終えて、寛いだ様子でコーヒーに手を伸ばしている。

「なんでもありません、ごめんなさい」

 私は視線を手元の原稿に戻した。茶封筒から中身を出しながら、私は今聞いた名前を胸の中で繰り返した。

 佐伯漣子。たしかにそう聞いたが。

 編集者に相槌を打ちながら、私の心は波打ち続けた。



 打ち合わせを終え、ホテルを出た私は、懇意にしている書店へ向かった。楽しみにしていた数冊の新刊書を買うつもりだったが、気持ちは弾まなかった。


 日本全国で、同姓同名の割合はどれくらいなのだろう。


 ぼんやりと足を運びながら、私は思いをめぐらせた。佐伯という苗字は、鈴木や佐藤に比べて少ないかもしれないが、めずらしいものではないだろう。けれど漣子という名前は、あまりないはずだ。

 人違いに決まっている。そう思ってはもしやと疑い、気持ちは乱れた。そのうえ今日が漣子の誕生日であることも思い出されて、あの名前が漣子その人のものであったと思えてならない。

 漣子の誕生日を覚えているのは、今日が私の誕生日でもあるからだった。偶然にも私は漣子と同じ日に生まれた。今、漣子に会うことができるとすれば、彼女も私と同じ四十に手が届く、中年の女になっているに違いない。


 人のざわめきで満ちていたホテルのロビーを思い返し、私は唇を噛んだ。編集者の話を聞きながら、何度もロビーを見渡したのだ。漣子は来なかった。二十代最後の同窓会の夜以来十年が経つが、わからなかったはずはない。電話をしていたスーツ姿の男性がロビーを出て行ってからも、私は蓮子の姿を探し続けた。


 佐伯漣子と私は、同じ高校で友人として、憂鬱な三年間を送った。いや、憂鬱だったのは私の方だけで、漣子にとっては希望に満ちた日々だったことだろう。恵まれた容姿、才能。

 私といえば。私は漣子という絵を飾る額縁のように、いつも漣子の近くに、ひっそりとさりげなく存在していた。二人は対照的だった。だが、それがかえってお互いの居心地をよくしていたのかもしれない。漣子にとって私は安心できる陰であったろうし、 私は私で、華やかな漣子の隣にいられることが誇らしくもあった。

 人にはそれぞれ決まった場所がある。まだ十代だというのに、私はすでにそんなことを悟りはじめていた。女としての自分というものに気づきはじめたあの頃、漣子との出会いは、私にとってひとつの決定を意味したのだ。私は私の場所で生きていく。私が漣子に引けを取らない唯一の部分、それは学科の成績だった。特に英語では、誰にも負けなかった。今、ささやかながらも、私が英語を使う仕事ができるのは、あの頃の努力によるところが大きいと思う。


 漣子はどんな女になっているのだろうか。多くの女を悩ませる顔のたるみや皺もなく、生活の疲れや人生への諦めとも無縁な女になっているのだろうか。

 だが、それを知ることはできない。

 漣子はあの夜以来、行方不明のままだ。

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