第8話 オルブライト侯爵の提案

 その翌日、パトリスとブラッドの様子が気になったアンブローズが屋敷を訪ね、二人の前に現れた。

 ブラッドの仕事が休みの日を見計らい、見舞いに来たのだ。


「ああ、昼間にこの屋敷に来るのは久しぶりだ。庭の花を見ると、師匠が楽しそうに世話をしていた姿を思い出すよ」


 アンブローズは感慨深げに屋敷を見上げる。彼にとってこの屋敷は、師匠のオーレリアと過ごした第二の実家でもある。

 庭先に咲く深紅の薔薇に目を留めると、その天鵞絨のような花弁を指先でそっと撫でた。


「師匠はね、私をローズという愛称で呼んでいたんだ。初めて会った時に私の髪の色が庭に咲く薔薇と同じだと言ってね。そう呼ぶことにしたらしい。当時の私は周囲から化け物扱いされていたから、師匠の言葉が嬉しかった。……昔も今も世界でたった一人、師匠だけが呼ぶ私の名前だ」


 花を通して偲ぶ姿からは、師匠への敬愛ではなく、心から想う相手への思慕が滲んでいる。


 その様子は見えないが、アンブローズの声からしんみりとした空気を感じ取ったブラッドが、おずおずと口を開いた。

 

「よろしければ、定期的にこの家の薔薇を送りましょうか?」

「ありがとう。気持ちだけ受け取るよ。この薔薇たちにはこれからも、師匠の住んでいたこの屋敷を美しく彩っていてほしいからね」

 

 アンブローズはゆっくりと、名残惜しそうに花弁から手を離した。

 

 それからブラッドとアンブローズは応接室へと向かった。

 ブラッドはシレンスからの補助があるものの、数日前に比べると数段上手く歩けるようになっている。


 パトリスは厨房へ行き、お茶の準備をした。

 ティーポットと二人分のティーカップとソーサーと茶葉の入った容器、そして皿とカトラリーをワゴンの上に乗せる。ミルクポットや角砂糖が入っている壺も載せる。

 最後に載せた白磁の美しい皿の上に、今日の早朝から作っておいたフィナンシェとクッキーを盛りつける。


 アンブローズは豪奢なケーキより、ぎっしりと中身が詰まっている菓子を好んだ。パトリスに魔法を教えにグランヴィル伯爵家を訪ねた時には、こっそりと持ってきたフィナンシェやクッキーをパトリスの非常食にと分けてくれたものだ。

 

 パトリスはワゴンを押して応接室へ行く。ブラッドとアンブローズは部屋の中央にある二つの皮張りのソファに向かい合って座っていた。


「屋敷中に花があっていいね。心が安らぐよ」 

「リズさんが生けてくれているんです。飾っている花の名前と教えてくれるので助かります。頭の中で思い浮かべていると、その間は暗闇ではなく綺麗な花を見られますから」


 パトリスはブラッドの言葉に頬が緩む。しかしアンブローズがニヤニヤと口元を歪めて自分を見ていることに気づき、慌てて表情を戻した。

 

 気を取り直して、二人の前にそれぞれティーカップとソーサーを置く。そこに淹れたお茶をゆっくりと注いだ。

 茶菓子を載せた白磁の皿をテーブルの上に置くと、アンブローズが嬉しそうに歓声を上げた。


「どれも美味しそうだね。おかわりはあるかい?」

「ええ、たくさんありますよ。旦那様が好きなものを用意しようと思って作りましたから」


 パトリスはブラッドの皿にいくつか見繕って置く。アンブローズにも同じようにした。

 まだ目の見えない生活に慣れていないブラッドが自分で食べたい物を皿からとるのは難しいため、あらかじめそれぞれ取り分けることにしたのだ。

 

「一時の方角にあるのはバタークッキーです。丸い形をしていますよ。その下にあるのはチョコレートクッキーで、四角く、チョコチップを練り込んでいるのでデコボコとした触り心地です。六時の方角にあるのがレモンクッキーで、レモンのアイシングをかけているので酸味があります。その左隣にあるのが――」


 パトリスがブラッドに説明すると、ブラッドは相槌を打って熱心に聞く。アンブローズは柔らかく目を細めてその様子を見守る。


「リズはもうここでの仕事に慣れたようだね。さすがだよ」

「ホリングワース男爵によくしてもらっていますので、おかげさまですぐに慣れました」

「それはよかった。ブラッドの方はどうだい? 新しい生活に慣れた?」

「リズさんやシレンスさんのおかげでなんとか生活できていますが、まだあまり慣れていません。早く慣れないといけませんね……」


 そう言い、ブラッドは眉尻を下げた。

 

 真面目なブラッドは、誰かの手助けを必要とする今の状況に負い目を感じている。アンブローズの弟子となりオルブライト侯爵家の客人として使用人たちに着替えや入浴の手伝いをしてもらっている時でさえ居心地が悪そうにしていたのだ。歩行や食事の手伝いが必要な今はなおさらだ。

 

「ブラッドのことだから、負い目を感じていると思ったよ。焦らなくていい。ブラッドは賢くて器用だから、そのうち今の生活に慣れるさ」

「師匠は俺を買い被りすぎです。本当に慣れるまでには時間がかかりそうですよ。今日の朝食ではリズさんに助けてもらわないと、ティーカップを転がして火傷するところでしたから」

「まだ目が見えなくなってひと月も経っていないのだから、そうなって然るべきだろう。これから男爵としての責務を担うのだから、人に頼ることを覚えなさい。全て一人で抱えると、急にガタがきて立ち上がれなくなるよ」


 ブラッドの真面目な性格は長所でも短所でもある。鍛錬や仕事を熱心に取り込むからこそブラッドは昇進したのだが、自分を追い込み過ぎて無理をするきらいがあるのだ。

 

「そうだ、気分転換に出掛けるといい。街を歩く練習も大切だろう? せっかくだから、リズと行っておいで」


 不意打ちで名前を出されたパトリスは、驚きに肩を揺らす。慌ててアンブローズに顔を向けると、彼は人差し指を自身の唇に押し当てた。

 静かに、と暗に示されてしまい、パトリスは口を噤んだ。

 

 ブラッドとの外出は嬉しい。しかし長らく街に出たことがない自分がブラッドを案内できるとは思えない。

 パトリスは誘拐されそうになって以来、街に出ていないのだ。

 

 戸惑うパトリスに、アンブローズはパチリと片目を瞑ってみせた。まるで、「心配しなくていいいよ。私に任せなさい」とでも言っているかのような合図だ。


「ひとまず、バークリー魔導書店に行くといい。馬車をこちらに寄越すから、店の近くで降ろしてもらいなさい。街歩きの最初の練習にちょうどいいだろう」

 

 バークリー魔導書店とは、王都の目抜き通りから一本奥に入った通りにある老舗の魔導書店だ。

 店主のバークリー夫妻はアンブローズと年が近く、アンブローズがオーレリアに引き取られたばかりに紹介されて知り合った幼馴染でもある。

 そのためブラッドもまた、アンブローズと一緒に度々訪れている店だった。

 

 パトリスは昔からバークリー魔導書店の話をブラッドから聞いてきたため、一度は行ってみたいと思っていた。

 今回の外出はその夢が叶う、またとないチャンスだ。おまけに馬車が近くまで運んでくれるのであれば、道を知らないパトリスでも看板を目印にブラッドを案内できる。


 算段を立てたパトリスは、チラッと視線をブラッドに向ける。

 ブラッドは何やら考え込んでいるようだ。もしかすると、外出に乗り気ではないのかもしれない。


 どうしてもバークリー魔導書店に行きたいパトリスは、水色の瞳をいつもよりぱっちりと大きく開き、ブラッドに熱い視線を向ける。

 ブラッドはパトリスのそのような姿は見えないだろうから、「で・か・け・ま・しょ・う・!」と心の中で呼びかけ続けた。


 パトリスの強い念がブラッドに届いたのか、ブラッドは顔をパトリスがいる方向に向ける。

 

「たしかに練習は大切ですね。リズさん、ご一緒いただけますか?」

「もちろんです!」


 間髪入れずに答えるパトリスに、アンブローズが小さく吹き出した。


「じゃ、決まりだね。明日の朝ここに来るよ。二人とも早起きして待っていてくれ」


 パトリスとブラッドは、口を揃えて「え?」と聞き返す。

 出かけるのはパトリスとブラッドの二人のはずだ。それなのになぜ、アンブローズがここに来ると言うのだ。

 

 ぽかんと口を開けて固まっている二人に、アンブローズはにっこりと微笑む。


「出かけるには、色々と準備が必要でしょう?」


     *** 


 アンブローズは宣言通り、翌日の朝やって来た。二台の馬車を引き連れて。

 一台目にはアンブローズが乗っており、二代目にはホリーと身支度用の道具たち乗っている。


「じゃあ、リズは部屋でホリーに身支度してもらってくれ。とびっきり美人にするように言っているから、全部ホリーに任せるんだよ。もちろん、リズは元から美人だけどね」

「ええっ……?!」


 戸惑うパトリスの肩を、ホリーががっしりと掴んだ。まるで、パトリスの逃亡を阻止しようとしているかの如く。

 

「私に身支度だなんて……そんなこと、してもらっていいのですか?」


 着飾らせるのであれば、寧ろブラッドの方だろう。なんせパトリスは一介のメイドに過ぎないのだ。

 すると、アンブローズはやや大げさに肩を竦めた。

 

「何を言っているの? おとぎ話には、ヒロインを助ける魔法使いが必要不可欠でしょ?」

「ヒロインだなんて……。私はただのメイドですのに」

「細かいところは気にしないの。この優秀な魔法使いに任せなさい。とはいえ、実際に変身させてくれるのはホリーだけどね」


 アンブローズはパトリス越しにホリーを見遣る。二人は共犯めいた笑みを浮かべると、無言で頷き合った。


「ホリー、存分にやってくれ」

「かしこまりました! エスメラルダ王国一の美女にします!」


 ホリーはシレンスに身支度用の道具を運ぶようお願いすると、パトリスの肩を掴んだまま我が物顔で屋敷の奥へと進む。

 こうして、パトリスは自室へと連行されるのだった。


「はい、使用人仲間みんなからの贈り物よ。開けてみて?」


 自室に着くと、ホリーが薄桃色のリボンのかかった若草色の箱をパトリスに手渡す。

 

「ど、どうして?」

「違う場所で働くパトリスを応援するためによ。それにあんた、よそ行き用の服を持っていないでしょう?」


 パトリスは実家を追い出された時に必要最低限の持ち物しか持ってきていなかった。ドレスは着ることがないだろうし、荷物になるから置いてきたのだ。

 

「ホリーから貰ったブラウスやスカートがあるよ?」

「お下がりを着て行かせるわけにはいかないわ。実は、旦那様が執事長に言いつけて服の用意をさせていたからね、私たちがパトリスに贈りたいと願い出たの」


 パトリスはホリーに目で促されると、そっとリボンに触れる。するりと解き、箱の蓋を開けると、中には水色の可愛らしいワンピースが入っていた。


 首元は詰まっているデザインだが、共生地でフリルがあしらわれているから堅苦しくない。

 パフスリーブで、袖口にもフリルがあしらわれている。胸元はチュールレースを用いた切り替えとなっており、腰の辺りから足元までふんわりとしたシルエットになっている。

 

「素敵……本当に、私がもらっていいの?」

「もちろん。返品不可だからね?」


 ホリーは片眉を上げて念を押す。パトリスがふふっと笑うと、一緒になって笑った。


 貰ったワンピースに着替えたパトリスは、ホリーに誘導されて椅子に座る。目の前にいるのは、メイク道具を持って今にも飛びかかってきそうな勢いのホリーだ。 

 

「さあ、パトリス。化粧するからじっとしてね?」

「は~い……」


 逃げようのないパトリスは、観念して目を閉じる。

 

 誰かに手入れをしてもらうのは三年ぶりで、化粧をしてもらうのは初めてだ。グランヴィル伯爵家にいる時は、化粧は縁遠かった。部屋に閉じ込められているパトリスには不要だとされていたのだ。

 そんなパトリスに化粧を教えてくれたのは、ホリーを始めとしたオルブライト侯爵家のメイド仲間たちだ。

 

 彼女たちが教えてくれたのは化粧だけではない。

 仕事はもちろんだが、皆でふざけ合う楽しさや、真夜中に食べるお菓子の美味しさなど、毎日を楽しく過ごす方法を教えてくれた。

 どれもグランヴィル伯爵家にいた頃のパトリスは経験できなかったことばかりだ。

 

 パトリスはそれまで、閉じ込められる日々も理不尽な状況も受け入れて息を潜めることしかできなかった。オルブライト侯爵家に来て間もない頃も仕事以外の時間は誰にも迷惑をかけないよう部屋に閉じこもって本を読んでいた。しかしホリーたちがパトリスの知らない事を経験させてくれたおかげで、パトリスは自ら毎日を彩る術を覚えたのだ。

 

「パトリスは栗色の髪もよく似合うわね」 


 ホリーは鼻歌を歌い出しそうなほど上機嫌だ。

 おしゃれ好きのホリーは以前から、いつかレディースメイドとしてオルブライト侯爵家に来る女性の主人の身支度を整えたいと言っていた。しかしレイチェルが来てからはそう言わなくなってしまった。

 ホリーはパトリスの身の上を知っているため、どうもレイチェルを目の敵にしてしまうのだ。

 

「急に髪の色が変わったから、驚いたでしょ?」

「まあね。だって、パトリスは急に屋敷を出ることになったし、見送りに行ったらパトリスの髪の色が栗色になっているんだもの。みんなとっても驚いたわよ」

「なのに、誰も理由を聞かなかったね」

「……みんな、あんたが訳ありなのを知っているからね。髪の色を変えておいた方がいいって旦那様が判断して変えたんだって、みんなわかっているわ。むしろパトリスが安全に過ごすためにそうした方がいいって」

「うん……そうなの。銀色の髪は珍しいから……」


 それ以上は言葉が続かなかった。ホリーやオルブライト侯爵家の使用人仲間たちの想いを知って、胸がいっぱいになったのだ。


 オルブライト侯爵家の使用人仲間たちはみんな優しい。パトリスに何があっても受け入れて、見守ってくれている。

 

(勘当されたときはとても辛かったけど……勘当されたからこそ、こうして優しい人たちに出会えたのね)


 辛いことがあっても、その後にはいいことも起きてくれる。

 そう思えば、この先なにがあっても乗り越えられる気がした。

 

「――できたわよ。我ながらいい出来だわ。まあ、素材がいいものね!」


 パトリスは机の上に置いてある鏡を覗き込むと、わっと小さく声を上げた。

  

「お、お姫様みたい!」

「ええ、もう妖精の姫って感じね。このまま外に出してしまって大丈夫なのかしら~? 男どもに言い寄られないか心配だわ。まあ、いざとなったらホリングワース男爵が守ってくださるわよね」


 ホリーは上機嫌でパトリスの手を引くと、アンブローズたちが待つ応接室に連れて行った。

 

 アンブローズはパトリスを見るや否や、目尻を下げて微笑む。

 

「リズ! 本当に綺麗だよ。水色がよく似合うね」

「ええ、リズの瞳の色に合わせて選びましたから!」


 ホリーが得意気に胸を張る。

  

「……そうか、リズさんの瞳の色は水色なんですね?」


 ブラッドがぽつりと呟いた。どこか確信めいた響きに、パトリスはヒヤリとする。

 正体がバレてしまったのではないかと、恐れるあまり両手をぎゅっと握りしめた。

 

「髪の色は?」


 そう聞かれ、パトリスはおずおずと「何の変哲もない栗色です」と答えた。

 

「そんなことはないですよ。優しい色です」

 

 嘘をついて騙したのに、ブラッドから優しい言葉を受け取っている。そのことに罪悪感を覚えた。

 それでも、彼に本当のことを言えない。まだ今の自分を知られたくないのだ。


「君たち、そろそろ出かけたらどうかい? そうしていると、外に出る前に日が暮れてしまいそうだ」


 アンブローズに急かされ、パトリスとブラッドはアンブローズが手配した馬車に乗り込む。アンブローズは二人が乗り込むのを見届けると、ホリーと一緒に来た馬車に乗り込んだ。


「いってらっしゃい、二人とも楽しい外出を」

「ありがとうございます。いってきます」

 

 パトリスは手を振って見送るアンブローズとホリーに手を振り返した。


 二人を乗せた馬車は商業区画へと移動する。三年ぶりに見た街は、以前と変わらず栄えてる。


「リズさんはよく街に出かけるんですか?」

「い……いえ、私は出不精なので、オルブライト侯爵家にある自分の部屋で本を読んで過ごしていました」

「……なるほど」


 ブラッドは相槌というより、納得するような気配で呟いた。

 

「それでは、バークリー魔導書店を見た後は一緒に他の店も見て見ませんか? 実は、立ち寄ってみたい雑貨店があるんです」 

「でも……私が街に不慣れなので、ホリングワース男爵を案内できないかもしれません」

「俺が道を覚えているので案内します。リズさんは俺が人や物にぶつからないように手伝ってください」


 そこまで言われると断れなかった。それに、ブラッドと一緒に出かける時間が増えるのは、素直に嬉しい。


「かしこまりました。ホリングワース男爵が快適に移動できるよう努めますので、お任せください!」


 張り切るパトリスに、ブラッドはふっと口元を緩める。かつてパトリスの前で見せていた、柔らかな表情になった。


「ええ、よろしくお願いします」

 

 やがて目的地に辿り着き、馬車が停まった。

 目抜き通りから奥の通りに入る手前に停まっているため、あとはパトリスとブラッドが奥に入って看板を頼りに店に行けばいい。

 

 パトリスは御者が馬車の扉を開けてくれると先に外に出て、ブラッドの手を取る。手に触れるのは、まだ緊張する。それでも平静を装ってブラッドを手伝った。

 

 ブラッドは時間がかかったものの、転ぶことなく馬車から降りた。五日前まではシレンスに抱えられながら降りていたのだから、手を握ってもらうだけで自分の足で降りれるようになったのは大きな進歩だ。


 パトリスはブラッドの手を取り、ゆっくりと一歩ずつ前に出るように歩く。水色の目はキョロキョロと周囲を見回し、ブラッドの障害になりそうな物はないか確認した。

 幸にも障害物はないが、周囲の男性からチラチラと視線を向けられる。しかしブラッドがコホンと咳をすると、その視線はサッとパトリスから離れるのだった。


「あっ、バークリー魔導書店の看板を見つけました! 二時の方角にあります!」

 

 本をかたどった看板が建物から突き出ており、そこにバークリー魔導書店と書かれていた。

 パトリスはやんわりとブラッドの腕を引き、店へと誘導する。


 バークリー魔導書店は青い屋根と、蔦が這う白い石壁が美しい三階建ての店だ。

 屋根には尖塔のようなものが付いており、窓辺には美しい花が咲いている。


 入口には小さなステップがあったため、パトリスはブラッドに気を付けるよう声をかけた。


 扉に手をかけると、店の奥からリンとベルが鳴る音が聞こえる。人が扉に触れると音が鳴るよう、扉に感知魔法を施しているらしい。

 ゆっくりと扉を開けると、パトリスの視界いっぱいに本棚が映った。


 入ってすぐに迎えてくれるのが吹き抜け部分。見上げると、二階も本棚で埋め尽くされている。入口のすぐ近くにある階段を使うと二階に行けるようだ。

 階段のすぐ隣には長椅子とテーブルが置かれており、居心地が良さそうだ。


 パトリスは初めて見る書店に感激し、夢中で眺めた。そこに、バークリー夫妻がやって来る。二人はブラッドを見ると表情を綻ばせた。


「ブラッド、話しはアンブローズから聞いているよ。今回の討伐は大変だったな。……よく帰ってきてくれた」

「あなたの目が治る方法がないか探しているの。私たちは王国各地の図書館や魔導書蒐集家と繋がりがあるから、手掛かりを見つけられるかもしれないわ」


 バークリー夫妻は揃ってブラッドを抱きしめた。

 二人とも目にはうっすらと涙を浮かべている。幼い頃から見てきたブラッドの目が見えなくなったと聞きいて、よほど心配したのだろう。


「そこの綺麗なお嬢さんは恋人かい?」

「いえっ! 私はただのメイドです!」


 パトリスが慌てて否定すると、バークリー夫妻は揃って肩を落とした。

 

「魔法騎士として前線に出られなくなりましたが、教官として引き続き騎士団で働けるようになりました」

「そうかい、ブラッドは賢くて優しいから、いい教官になるよ」

 

 パトリスがブラッドから一歩下がって三人のやり取りを見守っていると、不意にブラッドが顔を動かした。


「リズさん、良かったら店内を見ますか?」

「いえ、私はホリングワース男爵の付き添いですので……」 

「俺はバークリー夫妻と話しているので、気にしないでください」

「……それでは、お言葉に甘えて少し店内を見てきます」


 ブラッドがそこまで言ってくれるのなら、少しの間なら彼から離れてもいいだろう。

 そう判断したパトリスはブラッドに礼をとると、足取り軽やかにその場を後にする。店内の端から歩き、並ぶ魔導書の背に視線を走らせてタイトルを読んでいく。

 

 水属性魔法の応用、使い魔の基礎召喚、宙に浮かす魔法全集――。

 ありとあらゆる魔導書が、隙間なく本棚に並んでいる。どの魔導書も魅力的で、全て手に取って読んでみたいと思うのだった。

 

 一階部分を探索し終えたパトリスは、二階に移動した。掃除に応用できる魔法について書かれている魔導書を見つけると、本棚から取り出して手に取る。すると、背後でバサリと本が落ちる音が聞こえた。

 

 振り返ると、深い緑色の魔導書が落ちている。反対側にある棚の一カ所に、本一冊が入る隙間ができているから、恐らくそこから落ちたのだろう。


「何の魔導書なのかしら?」

 

 パトリスは背を屈めて表紙を覗き込む。

 表紙には金色の文字で、『魔法の無効化』と書かれていた。その下に書かれているのは著者の名前。


 

 

 ――アンブローズ・オルブライト。


 

 

 パトリスの視線は、その金色で刻印された師匠の名前に注がれる。まるで魔導書に誘われるかのように、手が動いて魔導書に触れる。

 

 彼がいつ書いたものなのだろうか。

 気になって裏表紙を捲ると、そこに書かれていたのはパトリスが生まれる五年ほど前の年だった。


 最初に書かれているのは、四大元素属性魔法から成る攻撃魔法を無効化する魔法の仕組みや、道具に付与する際の術式。

 その次には付与魔法の無効化と、召喚魔法を阻害する無効化の応用が続く。

 状態異常の魔法を無効化する方法も書かれているが、目や耳などの各部位ごとに魔術式が異なるようで、相手がどのような魔法をしかけてくるのかわからないと対処しようがないらしい。

 

(防ぎようがないのなら、せめて後から治癒できたらいいのだけれど……竜の魔法は、この国の神官たちが束になっても解けなかったものね) 


 パトリスは目の状態異常を引き起こす魔法を無効化する術式を指先でなぞる。

 

「もしも私が、銀色の髪を持つ者が使えるという高度な癒しの魔法を使えたらいいのに……」


 アンブローズから教わった話によると、その力は神官たちをはるかに凌ぐ威力を持っているらしい。

 今はその力を持つ者はいないが、かつていた頃は神殿に保護され、力を必要とする人々のために使っていたそうだ。

 

「……普通の魔法も使えない私には、無理な話よね」

 

 パトリスは自嘲気味に笑うと、次のページを開く。そこには魔法の無効化と書かれている。

 

「魔法の無効化――魔法使いに魔法を使えないようにするため方法……?」

 

 気になって読み進めようとしたその時、ブラッドがパトリスを呼ぶ声が聞こえた。


「今行きます!」


 パトリスは本を棚に戻すと、早足で一階に戻った。

 

 一階の長椅子に座っていたブラッドは、パトリスの足音を聞きつけて顔を上げる。

 

「なにか気になる魔導書はありましたか? 良かったら、俺の分と一緒に購入するので持ってきてください」

「そんな! 買っていただくなんて畏れ多いです!」


 気になる魔導書はたくさんあった。中でも、アンブローズが書いたものは特に気になる。読みかけていたページの続きを読みたいと思うくらいに。

 

「礼だと思って受け取ってください。オールワークスメイドの仕事で忙しいのに、俺が生活しやすいように気を遣ってくれるリズさんに何度も助けられていますから」


 そう言われても、パトリスは頑なに断った。ブラッドのもとで働いてるのは、彼のそばにいたいからだ。自身の望みを叶えるためにいるのに礼を貰うなんて申し訳ない。

 気になる魔導書は、いつか自分で買いに来よう。


 ブラッドは「遠慮しなくていいのに」と言うものの、渋々と自分の本の会計を済ませた。

 彼は教本をいくつか購入していた。これから新米魔法騎士たちの教官として働くため、全て目を通したいらしい。


 購入した本を後日ブラッドの屋敷に運んでもらうことにして、二人は店を出た。

 

「それでは、雑貨店に行きましょう。ここから大通りを挟んで反対側に人気の店があるんです。まずは通りまでお願いします」


 パトリスはブラッドの手を取り、ゆっくりと彼を誘導する。大通りに出てから反対側の道筋へと渡り、ブラッドの案内を頼りに歩いた。


 そうして辿り着いたのは、深い緑色の外壁が上品な一軒の店。

 店内は外から見てもわかるほど賑わっており、パトリスは慎重にブラッドを案内した。


「ここは貴族にも平民にも人気の店らしいです」

「たしかに、置いている品はどれも洗練されていて素敵ですね」


 アクセサリーやハンカチはもちろん、香水や化粧品まで置いてある。

 可愛過ぎず、豪奢過ぎず、しかしどこか上品な印象を与えるデザインをパトリスも好きになった。

 

 女性ものを置いている店のため、恋人や婚約者への贈り物を買いに来た男性の姿もある。

 

「良かったら、贈り物を選ぶのを手伝っていただけますか?」

「贈り物……ですか」

「はい、大切な人に贈りたいんです。アクセサリーを贈りたいのですが、俺はあまりよくわかっていないので、リズさんの意見を聞かせてくれると嬉しいです」


 パトリスはひゅっと息をのんだ。悪い予感がして、インクを垂らしたように不安が胸の中に広がっていく。


 この店で贈り物を選ぶとするのなら、贈る相手は女性だろう。それも家族ではなく、恋人か想い人に違いない。

 パトリスはブラッドが幼い頃に家族と死別したことを知っている。依頼彼を育ててくれた祖父母も、今は他界している。

 

 じわじわと広がる不安が、パトリスの胸を締め付ける。涙が出そうになるのを、必死でこらえた。

 

「相手の方は……普段はどのようなものを身につけていますか?」

「それが、わからないんです。装飾品は全く身につけていなかったですし……彼女とはいつも、本の話をしていますから」

 

 相手を思い出しているのか、ブラッドの表情が柔らかくなる。かつて一緒にアンブローズの授業を受けていた頃に、パトリスに向けてくれていた笑み。パトリスが大好きな笑顔だ。


 それが自分ではない誰かのために浮かべられていると思うと、鼻の奥がツンと痛くなった。


「もしかすると、あまり豪奢なものを好まないかもしれませんね。髪飾りはいかがでしょう? 本を読む方なら、髪が本に落ちてこないようまとめられるものを好まれるかもしれません」


 パトリスは髪飾りが置いている場所にブラッドを連れて行き、一つ一つ手に取って説明をした。

 色と形と使い方を説明すると、ブラッドは真剣に相槌を打つ。


 よほど大切な人なのだろう。

 ブラッドの相手を想う姿を見ていると、パトリスの心はしぼんでいくばかりだ。

 

「こちらの小さな花があしらわれているものなら、派手過ぎず地味過ぎないので贈り物にいいのかもしれません」

「なるほど……ちなみに、リズさんはどのようなものが好きですか?」

「私……ですか?」


 パトリスはきょとんと首を傾げる。


「ええ、リズさんの人柄を知りたいので聞かせてください」

「私も派手なものは苦手なので、この小花の意匠や――あそこにあるリボンが好きです」 

 

 グランヴィル伯爵家では、貴族令嬢としての品位を維持するためにいくつかアクセサリーを与えられていた。

 魔法大家の令嬢に相応しい豪奢なデザインを見る度に、パトリスはどことなく気後れしていた。


 魔法が使えない、できそこないの自分がつけたところでアクセサリーに負けてしまう。そんな気がして、苦手意識を持った。


「そのリボンは、どんなものですか?」

「サテンの艶々とした、少し太めのリボンです。淡くて優しい雰囲気の水色が素敵なんです」

「それが、リズさんの好きなものなんですね」

 

 ブラッドは口の両端を持ち上げると店員を呼んだ。 

 彼は銀細工で小花をあしらったのバレッタに決めた。その花には水色の小さな宝石が嵌めこまれており、控えめにきらりと光って美しい。

 そしてもう一つ、彼は店員に言ってサテンのリボンも購入した。


 まさかと、とパトリスが戸惑っていると、ブラッドは唇の両端を持ち上げる。初めて見るような、どこか悪戯めいた笑みだった。

 

「リボンは今日の礼に受け取ってください。リズさんのおかげで、素敵な贈り物を選べましたから」

「……っ」


 ブラッドは店員から手渡された包みのうち、リボンをパトリスに渡す。もう一つは、上着のポケットの中に大切そうにしまい込んだ。

 

「実際に彼女に贈るのは、もう少し先になるので気が気でないです。なんせ貴族令嬢の彼女に贈るには粗末なものですから……だけど俺はとりあえず高価なものを選ぶより、彼女が気に入ってくれそうなものを探し出して贈りたいんです」


 ブラッドの想う相手は貴族令嬢だとわかり、パトリスは胸から喉までを締め付けられているような苦しみを覚えた。


 爵位を得たブラッドには、その立場をより強固なものにする為にも貴族令嬢との婚姻が必要だ。そうとわかっていても、いざブラッドの想い人が貴族令嬢だと聞くと、雪崩れ込んでくる悲しみに押しつぶされそうになる。

 

「……その方は、幸せ者ですね。ホリングワース男爵から心のこもった贈り物をいただけるのですから、きっと喜ばれるかと思います」

 

 やっとの思い出言葉を紡ぐと、目元にさっと指を走らせて雫を拭った。


「さあ、屋敷に帰りましょう」

「……はい」


 ブラッドは薄紅色の包みを片手で大事そうに抱える。あんなにも彼に愛されているその令嬢のことが、妬ましくなった。

 

 店を出て帰りの馬車に乗ったパトリスたちは、ブラッドの屋敷を目指す。

 パトリスはしゅんと項垂れて外を眺めていると、屋敷の門の前に見慣れぬ馬車が一台停まっているを見つけた。その車体には、オルブライト侯爵家の家紋があしらわれている。


「ホリングワース男爵、屋敷の前にオルブライト侯爵家の馬車が停まっています」

「あれ? 師匠は俺たちが出た時に帰ったはずですが……もしかして、戻ってきたのでしょうか?」

 

 パトリスとブラッドは首を傾げた。そうして屋敷に辿り着いた二人を待っていたのはアンブローズではなく――アンブローズの妻、パトリスの実の姉であるレイチェルだった。

 

「ごきげんよう、ホリングワース男爵。突然訪問した無礼をお許しください。少し、お時間をいただけて?」


 そう言い、レイチェルは氷のような瞳をパトリスに向けた。

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