第3話 オルブライト侯爵の客人

 アンブローズはパトリスを連れて帰り、パトリスはその翌日からオルブライト侯爵家のメイドとして働くこととなった。

 帰宅したアンブローズはパトリスを客間に案内してお茶を出した後、執事長を部屋に呼んでパトリスを紹介した。

 執事長は仕事柄、パトリスがアンブローズの弟子であることは知っていた。しかし実際に会うのは初めてだった。

 

「この子をうちのメイドとして雇うことにした。物覚えがいい子だからすぐに仕事を覚えられる」

「しかし、今は人員が足りていますよ」

 

 そもそもオルブライト侯爵家はアンブローズしかいないため、さほど仕事がないのだ。

 

 独身主義のアンブローズには妻どころか恋人さえいない。両親は数年前に天寿を全うしており、姉は一人いるが嫁に出ている。

 以前は弟子のブラッドが居候となっていたが、騎士団に入団してからは王城の敷地内にある寮で生活している。


「それでは、全員が交代で休める日を設けよう。そうすれ人手が必要になるだろう?」

「……かしこまりました。それを聞けば皆喜ぶでしょう」 


 執事長はすぐに折れた。魔法使いとは総じて頑固な生き物で、アンブローズもまたその例に漏れない。彼は一度こうと決めると、なかなか折れないのだ。

 それに、人員が足りているとはいえ一人雇うくらいでオルブライト侯爵家の財政が傾くことはない。


 かくしてパトリスはハウスメイドとして職を与えられた。


 その後、アンブローズはパトリスを除く使用人全員を大広間に呼んだ。そうして、愛弟子のパトリスがどのような経緯でここに来たのかを全員に話した。


 魔法大家に生まれたパトリスが経験してきた苦労を知った使用人たちは、努めてパトリスに優しく接した。

 見かけたら必ず声をかけ、体調が悪そうにしている時はすぐに休ませる。

 

 パトリスはアンブローズの言う通り飲み込みが早く、努力家の一面もあったため、二週間もすれば掃除の仕事を完璧にこなせるようになった。

 ひたむきなパトリスを、アンブローズ侯爵家の使用人たちはすぐに好きになった。

 

 グランヴィル伯爵家の屋敷では経験できなかった安心感と達成感に満たされる、温かな日々。

 パトリスは、アンブローズ侯爵家の使用人たちの優しさや仕事をやり遂げる喜びのおかげで、少しずつ元気と自信を取り戻していった。


 働き始めた当初は俯きがちだったが次第にその回数が減り、一年後には溌剌とした笑顔を浮かべるようになった。性格もまた明るくなり、他の使用人たちを元気づけられるようにもなった。

 

 しかし、パトリスがハウスメイドとなった二年後、平穏な日常に影が差した。

 アンブローズがパトリスの姉であるレイチェルと結婚すると使用人たちに言ったのだ。


 これは魔法大家のグランヴィル伯爵家との結びつきを強くするための政略結婚だとも言った。事情があるらしく、ひと月後に式を挙げるそうだ。


 今まで独身主義を貫いてきたアンブローズが結婚をするなど、誰が想像できただろうか。しかし使用人たちはその背景を知る由がなかった。

 よもや主人に問い詰めるわけにはいかない。執事長は何やら理由を知っているようだが、アンブローズへの忠義の厚い彼が口を割るはずがない。


 使用人たちはすぐにパトリスを案じた。自分を捨てた家門の人間が主となるなんて、パトリスがあまりにも可哀想だと同情した。

 

 パトリスは初めこそ衝撃を受けていたが、すぐに平静を装った。

 彼女の胸の中では、白い布の上に黒いインクを垂らしたように、不安が広がっている。それでも、自分はもうグランヴィル伯爵家の落ちこぼれの次女ではないのだと言い聞かせ、気を取り直した。

 

 そうしてひと月後、オルブライト侯爵家の屋敷にレイチェルが嫁いできた。

 式を終えた後の花嫁衣裳で現れたレイチェルは相変わらず美しい。しかし以前より痩せており、やつれているように見えた。


 久しぶりに見る姉の姿に、パトリスは緊張して喉がカラカラになる。

 もしも目が合ったとしても、名前を呼ばれたとしても、オルブライト侯爵家のハウスメイドとして振舞うようにしよう。

 このひと月の間、そう自分に言い聞かせて覚悟を決めてきた。

 

 しかしレイチェルは使用人たちに一言だけの短い挨拶をした後、疲れたと言い、すぐに寝室へ向かってしまった。

 その時、一度だけレイチェルの水色の瞳がパトリスを捕らえたが、すぐに視線を逸らしてしまった。まるで、道端に咲いている花を無感情に眺めているような、そんな眼差しだった。

 

 再会と呼ぶにはあまりにもお粗末なものだった。パトリスは去り行くレイチェルの後姿を、ただ黙って見つめる。

 

 アンブローズがレイチェルに、パトリスがメイドとして働いていると伝えているのかはわからない。もしかすると、パトリスに似ている他人だと思ったのかもしれない。

 そう言い聞かせたが、姉のあまりにも淡白な反応に、パトリスの胸が痛んだ。ナイフを突き立てられたような、鋭い痛みを感じたのだ。 

 

 ハウスメイドのパトリスは、レイチェルと顔を合わせるのは稀だ。侯爵夫人の身の回りの世話をするのは侍女の仕事のため、パトリスがレイチェルと関わることは早々ない。

 屋敷内で顔を合わせることは数度ある程度。それも、日が経つにつれて減っていった。

 レイチェルは、病気を理由に部屋に引きこもるようになった。レイチェルに仕えている侍女の話によると、医者は病ではなく疲労だと言っていたそうだ。

 それからひと月経ってもレイチェルは部屋に籠り、食事はほとんど室内でとっている。アンブローズと食事をともにすることの方が稀だ。


 おまけに、アンブローズが仕事へ行くときも帰宅した時も部屋から出て来ない。

 一部の使用人たちは、レイチェルが仮病を使ってアンブローズを避けていると、非難する者もいた。

 

 レイチェルは使用人たちに対して不愛想で、叱責こそしないが常に睨んでいるため、一部の使用人が委縮してしまっている。

 愛想がなく、高圧的で、自分勝手。

 使用人の中でレイチェルの評判は落ちるばかり。そのような中、レイチェルが勘当された元妹のパトリスに嫌がらせをするのではないかと心配する同僚も現れ、パトリスを心配してくれるのだった。

 

「奥様になにかされたら、すぐに言うのよ? みんな、あなたの味方なんだからね?」

「うん……心配してくれてありがとう」

 

 気遣いの言葉は嬉しいが、素直には受け取れなかった。


 パトリスはと言うと、レイチェルの体を心配していた。初めこそ彼女の無関心さに傷ついたが、それでも嫌いにはなれなかった。

 幼い頃から恐ろしくも尊敬の対象だった姉なのだ。その積み重なった歴史は、そう簡単に崩れなかった。

 

(お姉様は、どうしてしまったのかしら?)


 実家にいた頃の姉は、誰かから非難されるようなことはなかった。だから、同僚たちから姉の話を聞く度に、胸がザワザワとして落ち着かないのだ。

 

 気になっても、聞くことはできない。今や自分は平民で使用人、姉は侯爵夫人なのだ。そう簡単に話しかけられる間柄ではない。

 

 そうして、いつの間にか再会した姉への気まずさは、薄れていった。

 

     *** 

 

「パトリス、急ぐわよ」

「うん!」


 帰宅したアンブローズとそのお客様を出迎えるため、掃除道具を片付けたパトリスとホリーは、庭園を駆け抜ける。

 

 オルブライト侯爵家のタウンハウスは、高位貴族の屋敷が建ち並ぶ、煌びやかな一角にある。

 上空から見るとコの字型に近い形状で、華やかさはないが堅牢で洗練された佇まいの白亜の屋敷だ。

 屋敷の東側には背の高いガラス張りの温室が隣接しており、屋敷とはガラス張りの通路で繋がっている。そこを掃除するのが、ハウスメイドであるパトリスの日課だ。

 

 建物の周囲は庭園で彩られており、春先の今は柔らかな萌黄色の緑と淡い色の花々で満ちている。


「それにしても、お客様は誰なのかしら? ホリーは知ってる?」 

「ホリングワース男爵よ」

「えっ……本当に?!」


 パトリスの声が上ずる。久しぶりに聞く兄弟子の名前に、どくんと心臓が大きく脈を打った。

 

 ホリングワース男爵ことブラッド・ホリングワースは、今年で二十五歳になる。

 魔法騎士として功績を上げた彼は、二年前に国王から男爵位を授かった。

  

「旦那様から執事長宛てに、ホリングワース男爵をもてなす準備をするよう言伝の魔法が届いたのですって。執事長本人からそう聞いたのだから、間違いないわ」

「そう……なんだ」


 パトリスはそっと、自分の胸元に手を当てる。自分の心臓が駆け足で脈を打つのを感じた。

 ブラッドとは、三年前に助けてもらって以来、会っていない。この三年間、一度も屋敷を訪ねてきていないのだ。

 

 片想いの相手に会えるのは嬉しい。しかし、今の何もかも失った自分を彼に知られたくない。

 パトリスはハウスメイドとして雇ってもらうこととなったその日、アンブローズにとある約束をしている。それは、パトリスがメイドとして働いていることをブラッドには知らせないでほしいということ。

 だからブラッドが屋敷を訪ねる時は、顔を合わさないよう取り計らってもらうことになっていた。それなのに今、ブラッドを出迎えようとしている。

 

 アンブローズがうっかり自分との約束を忘れてしまったのではないかと、パトリスは不安になった。

 

(遠くからだと見えないから、気づかれないよね。それに、ブラッドは私がメイドをしていることは知らないから、もし目が合っても他人の空似と思うのかも……)


 屋敷の正面玄関の前には先に到着した使用人たちが並んでいる。今回もレイチェルの姿はなかった。先頭に立つのは執事長と侍女長だ。

 パトリスは後方にひっそりと隠れるように並び、庭園の前にある漆黒の門が開かれる様子を固唾を飲んで見守る。


 開かれた門から、漆黒の艶やかな馬車が入り込んだ。オルブライト侯爵家の馬車だ。

 馬車は専用の石畳の道をぐるりと回り、使用人たちの前で停まった。

 

 執事長が馬車の扉を開ける。初めに馬車から降りてきたのはアンブローズだ。

 今日のアンブローズは、チャコールグレーのジャケットとスラックスと白のシャツの上から、漆黒のローブを着ている。

 彼が顔を使用人たちに向けると、左耳につけている青色の魔法石のピアスがキラリと輝いた。


「旦那様、おかえりなさいませ」


 使用人たちが一斉に身を屈め、礼をとる。アンブローズはすぐに頭をあげさせた。


「出迎えありがとう。客人を温室に案内するから、手伝ってくれ。――シレンス、ブラッドを頼む」


 シレンスと呼ばれた男は、猛禽類を彷彿とさせる鋭い金色の瞳を持つ、鳶色の髪を頭の後ろで束ねている五十代の執事だ。屈強な体躯で、おまけに強面。口数が少なく表情の変化も乏しいため、初対面の相手は必ずと言っていいほど委縮してしまう。

 しかしシレンスは心優しく、いつも率先して力仕事をしてくれるため、使用人仲間たちからの信頼が厚い。 

 

「どうしてシレンスさんを呼ぶのかしら?」

「さあ? もしかして、怪我をしていらっしゃるのかもしれないわね」


 使用人たちが見守るなか、シレンスは馬車のステップに片足をかけると、中にいる人物に手を差し出す。ブラッドの騎士らしい大きな手が、その手を取った。シレンスはゆっくりと、ブラッドの体を引く。馬車から出て来た屈強な美丈夫は、シレンスに助けられながら庭園に降り立った。


(ブラッド――!)


 パトリスは久しぶりに見る片思いの相手の姿に、嬉しさのあまり泣きそうになった。

 三年前と変わらない精悍な顔つきで、漆黒の髪はきちんと整えている。今日は白いシャツに茶色のベストと黒色のスラックスといったラフな装いだが、背が高くしなやかで引き締まった体躯のブラッドは、何を着ていてもカッコよく見えた。


「シレンスさん、ありがとう」


 ブラッドはシレンスに感謝を伝える。しかしブラッドの橄欖石のような瞳は視線が定まっておらず、シレンスを見ていない。

 どことなく様子のおかしいブラッドに、使用人たちは青ざめる。彼らにとってブラッドはアンブローズの弟子であり、大切な客人だ。幼少期より弟子としてこの屋敷に過ごしてきた彼とは積み重ねてきた思い出がある。そんな彼によからぬことが起こったのではないかと、心から案じているのだ。

 

 パトリスもまた、ブラッドの視線に胸がざわついた。彼に気づかれたくないという思いは霧散し、真っ直ぐ彼を見つめる。


「実は、目が見えなくなってしまったんです。申し訳ないけれど、このまま歩行を手伝っていただけますか?」

 

 ブラッドの衝撃的な告白に、使用人たちは息を呑んだ。


(目が――見えていない……?)


 大切な人が、自分がこの世で一番愛している人が、視力を失ってしまった。

 パトリスは頭が真っ白になり、その場に立ち尽くす。そうして、シレンスに支えながら歩くブラッドの背を見送った。

 

(いったい、ブラッドになにがあったの?)


 早く仕事に戻らなければならないのに、ブラッドのことが気になってならない。そんなパトリスのもとに、執事長がやって来た。 

 

「パトリス、温室にお茶を運びなさい」

「わ、私が……ですか?」

 

 パトリスは水色の瞳を大きく見開いた。

 まさか自分がそのような命令を言い渡されるとは思ってもみなかった。なんせハウスメイドの仕事内容は屋敷の家事全般であって、客人をもてなすメイドは他にいる。

  

「旦那様からそのように申しつかっているのだよ」

「だ、旦那様が……?」


 ブラッドが来た時は、会わないようにしてくれると約束したではないか。その約束を破られたようで、パトリスは傷ついた。


「きっとパトリスのためだろう。それに、ホリングワース男爵のことが気になるのだろう? 私も一緒に行くし、君が話さないようにすればホリングワース男爵に気づかれないから大丈夫だ」

「……かしこまりました」

 

 パトリスは不安で押しつぶされそうな胸を奮い立たせると、執事長とともにその場を後にした。

 紅茶の入ったティーポットやティーセットと茶菓子を乗せたワゴンを受け取ると、アンブローズたちがいる温室へと向かう。


 温室の扉の前で、深く深呼吸して心を落ち着かせる。そうして、執事長が開いてくれた温室の扉をくぐる。

 

「失礼します。お茶をお持ちしました」


 執事長は一礼すると、パトリスに視線で合図を送る。パトリスは黙って頷くと、二人分のティーカップにお茶を注ぐ。芳しい柑橘系の花の香りの湯気がパトリスの鼻腔をくすぐる。

 

「執事長さん、お久しぶりです」

「お久しぶりです、ホリングワース男爵。さきほどあなたが視力を失ったと聞き、とても心が痛みました」

「ご心配いただきありがとうございます。数日前の黒竜討伐で、黒竜を倒した際に竜の魔法にかかって目が見えなくなってしまったんです。それ以外は無事なので、ご安心ください」 

「目のことは大変残念ですが、あなたが生きて戻ってくださって本当に良かったです。何か不自由がありましたら、何なりとお申し付けください」

 

 エスメラルダ王国のために竜と戦い、目を失った。 それは魔法騎士としては誇り高い喪失だが、魔法騎士になるために努力を重ねたブラッドを想うと、パトリスは胸が痛んだ。

 ツンと目の奥が熱くなる。涙を流してしまわないよう、慌ててティーカップをアンブローズとブラッドの前に置いた。


「じつはね、ブラッドは今回の功績で国王陛下から領地と屋敷を賜ったんだよ。だけど、目が見えないと色々と不便だろう? だから、うちから使用人を紹介したいと思ってね。それに、ブラッドは今後、前線から外れて教官になる事になったんだ。愛弟子の新しい門出を支えたいんだよ。ということで、誰がブラッドの使用人にいいと思うかい?」

「ふむ……それでは、執事はシレンスがいいでしょう。ブラッド様のような筋肉がしっかりとついている方を支えるのは、シレンスほど逞しい者の方がいいですからね」

「そうだね。メイドはどうしよう? ブラッドは、自分が使用人をたくさん雇うのはまだ慣れないそうなんだ。オールワークスメイドを頼める者はいるだろうか?」


 目が見えないのであれば、教官の仕事はおろか、日々の生活もままならないだろう。愛する人の緊急事態を知った今、パトリスは自分が彼の力になりたいと思った。


「あの……!」


 パトリスは決心して声を上げる。


「そのお役目、私が引き受けてよろしいでしょうか?」

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