大魔法使いアンブローズ・オルブライトによる愛弟子たちへの優しい謀略

柳葉うら

第1話 オルブライト侯爵家の訳ありハウスメイド

 淡い色彩の花が咲き、麗らかな景色が広がる春の昼下がり。

 風が悪戯に雲を動かし、陽を隠した。


 エスメラルダ王国が誇る魔法使いで侯爵家の当主、アンブローズ・オルブライトの王都の屋敷タウン・ハウスにガラス張りの温室に、影が落ちた。


 アンブローズは壮年の見目麗しい男性だ。地位も美貌も魔法使いとしての実力もあり、エスメラルダ王国のみならず周辺国でも名を馳せている。

 今はエスメラルダ王国の王立魔法使い協会のトップ――大魔法使いの座についている。

 

 魔法の研究のために独身主義を貫いており、今まではいかなる縁談も蹴って愛弟子に当主の座を譲ろうとしていたのだが――その愛弟子から丁重にお断りされたため、今年になってようやく妻を迎えた。

 貴族家として、また魔法使いとしてのさまざまなしがらみがある政略結婚となったが、アンブローズは妻を大切にした。この温室は、その妻に贈ったものだ。

 

 温室の一角で拭き掃除をしているオルブライト侯爵家のハウスメイドのパトリスは、その手を止めて腕をさする。

 

「陽が翳ると、少し冷えるわね」

 

 独り言ちると、温室の外に広がる空を見つめた。

 

 パトリスが温室のガラスに近づくと、ガラスには澄んだ湖のように美しい水色の瞳と、珍しい銀色の髪を持っている美しい女性が映り込む。

 今年で十八歳になったパトリスは、メイドの制服を着ていなければ、誰もが貴族令嬢だと思うだろう。

 

 そこに、彼女と同年代くらいの、栗色の髪と緑色の瞳を持つスラリと背が高いメイドがやって来た。

 

「パトリス、旦那様がお戻りよ。お迎えに行きましょう」

「もう? 今日は早いね」


 パトリスは振り返ると、呼びに来てくれた同僚の言葉に、きょとんと首を傾げた。

 旦那様ことアンブローズは超がつくほど仕事人間で、大魔法使いとして王城に出仕した日はいつも、夜に帰ってくるのだ。


「さっき執事長から聞いたんだけど、急遽お客様をお招きすることになったんだって。さあ、片づけを手伝ってあげるから、急ぐわよ」

「ありがとう、ホリー。助かるわ」


 同僚のホリーは姉御肌で、なにかとパトリスを気にかけてくれる。おかげでパトリスは、三年前に急遽メイドとして働き始めたが、働き始めて二週間ほど元令嬢とは思えないほど仕事をこなせるようになった。


 足元に置いていた桶を持ち上げたパトリスは、不安げな表情で空を見上げる。雲はまだ、太陽を隠している。


(先ほどよりさらに冷えてきたわね。風が吹くから、なおさら寒く感じるのかもしれないわ……)

 

 ふうと小さく溜息をつくパトリスに、ホリーが気遣わしく声をかけた。


「パトリス、大丈夫? 元気がないわ。なにかあったの?」

「私は大丈夫よ。ただ、少し冷えてきたからお姉様が――いいえ、奥様が体調を崩さないか心配だわ。お体に障らないか心配で……ほら、この前も体調を崩されて、何日も眠り続けたことがあったでしょう?」


 パトリスが慌てて言い直すと、ホリーは苦虫を嚙み潰したような顔をする。

 それは、主人を姉と言い間違えたパトリスを諫めるというより、パトリスに同情するようなものだった。

 

 奥様――アンブローズの妻のレイチェル・オブライトは今年アンブローズと結婚したばかり。

 年齢は二十一歳。アンブローズとは二十歳ほども年が離れている。


 レイチェルは白金色の髪と水色の瞳を持つ、冷たい印象を与える美人だ。しかし少しも微笑まず、射抜くような眼差しで常に周囲にプレッシャーを与えている。

 エスメラルダ王国屈指の魔法大家、グレンヴィル伯爵家出身で若くして上級魔法使いとなった才女。そして生物学上は――パトリスの姉だ。


 パトリスは元グレンヴィル伯爵家の令嬢だ。両親と三つ年上のレイチェルの、四人家族だった。

 父親は白金色の髪に水色の瞳、母親は銀色の髪と金瞳の髪を持っている。パトリスは父親から瞳の色を、母親から髪の色を受け継いだ。顔立ちは母親に似ており、優美さがある。

 一方でレイチェルは髪の色も瞳の色も父親と同じで、整い過ぎて冷たい印象を与える顔立ちも似ている。

 

 魔法大家に生まれ、王立魔法使い協会に所属する上級魔法使いの両親の血をひいたのに、生まれてから一度も魔法を使えた試しがない落ちこぼれ。

 そんなパトリスは三年前に起きた事件に巻き込まれたことがきっかけで父親から勘当され、家名のない平民となった。失意のパトリスに手を差し伸べてくれたのは、今の雇用主で魔法の師でもあるアンブローズだった。


 アンブローズはパトリスの家族とは異なり、魔法が使えないパトリスを優しく支えてくれた。一度も彼女を落ちこぼれ扱いしたことはなかった。

 

 とはいえパトリスは家族と平穏に過ごしていた頃もあった。家族はパトリスがいつか魔法を使えるかもしれないと希望を持っており、毎日欠かさず魔法の練習をさせた。

 特に母親はパトリスを常に気にかけ、些細な変化も見逃さないよう、そばに置いていた。


 全てが変わってしまったのは、パトリスが五歳になる年――パトリスの母が病でこの世を去った日のこと。

 父親とレイチェルは大切な人を失った悲しみで変わってしまったのか、パトリスを疎むようになってしまった。


 エスメラルダ王国の魔法使いの世界は厳しく、常に強さや秀でた力が求められる。魔力量が多く魔法を操る才のあるものは一目置かれた。一方で、魔力が少なくすぐに魔力切れを起こす者や魔法を上手く操れない者は淘汰される。

 魔法を使えないパトリスは、魔法使いの世界では最弱者だ。

 

 父親はパトリスをタウンハウスに閉じ込めた。もとよりあまり他家との交流がなかったパトリスは、すぐに他家の人々から忘れ去られてしまった。

 

 閉じ込められた当時のパトリスは、たった五歳の子どもだった。本来なら家の外に出たがる年齢だが、魔法が使えないことに負い目を感じていたため、自室に閉じこもって大人しくしていた。

 

 そうしてパトリスが閉じこめられてから一年後、アンブローズと彼の弟子であるブラッドがグレンヴィル伯爵家のタウンハウスを訪れた。ちなみにこのブラッドこそが、数年後に師の跡継ぎとなることを丁重にお断りした例の愛弟子だ。

 二人は執事長の案内で、パトリスの自室に来たのだった。当時のパトリスは、突然の来客に心底驚いた。

 

「こんにちは、パトリス嬢。久しぶりに会えて嬉しいよ。私はアンブローズ・オルブライト。君のお父さんの同僚で、君の名付け親だよ。前に会ったのは、君が生まれて間もない頃だったんだ。大きくなったねぇ」


 アンブローズはパトリスの目の前まで歩み寄ると、床に膝をついてパトリスに目線を合わせてくれた。


 初めてアンブローズを見たパトリスは、まるで絵本に描かれている王子様のような人だと思った。

 華やかさと甘さのある顔立ちで、微笑みを湛えており、優しい印象の男性。肩のあたりまである少し長めの深紅の髪は手入れが行き届いて艶やかで、パトリスを見つめる紫水晶のような瞳は見惚れるほど美しい。

 

 仕立ての良い白のシャツに銀糸の刺繍がほどこされた黒のベストと、黒のスラックスとジャケットを着こなしており、その上から魔法使いらしい黒色のローブを羽織っている。

 

 アンブローズはパトリスの頭を撫でつつ、背後にいるブラッドに声をかけた。

 

「ブラッド、君も挨拶しなさい」

「はい」


 ブラッドもまた端正な顔立ちをしていたが、こちらは騎士のような精悍さがあった。漆黒でさらさらの髪は師匠とは異なり短く、瞳の色は橄欖石のような柔らかな緑色。

 アンブローズのように目線をパトリスに合わせはしなかったが、優しい眼差しを向けてくれている。

 

 ブラッドは簡素な白シャツと装飾のない黒いベストを着ており、ローブは羽織っていない。

 魔法使いのローブとは、一人前になったと師に認められるまでは羽織れないのだ。

 

「お初目にかかります、お嬢様。アンブローズ様の弟子のブラッドと申します」


 ブラッドは子どもにしては落ち着いた声音と話し方で、大人っぽい少年だ。

 パトリスは今まで、姉のレイチェル以外の子どもに会ったことがなかった。ほとんどの時間を大人に囲まれて過ごしてきたため、ブラッドのことがとても気になった。


 アンブローズは、パトリスがチラチラとブラッドを窺う様子を見ると、ゆるりと唇に弧を描く。

 

「ブラッドはパトリス嬢より八歳年上だから、お兄さんにはちょうどいいよね?」

「お兄さん?」

「うん、お兄さん。いや、兄弟子と言った方が正しいのかな。兄弟子はね、同じ師につく年上の弟子のことを言うんだよ。パトリス、今日は君を勧誘しに来たんだ。私の弟子にならないかい?」

 

 パトリスは幼いながらも、弟子になるとはどのようなことかわかっていた。魔法使いはいつか、師のもとで魔法を学ぶものだと、母親から教えてもらったことがあるのだ。

 

 以前のパトリスなら近い将来、自分も誰かの弟子になるのだと思っていた。しかし周囲の人間から落ちこぼれのレッテルを貼られてしまった今では、それさえも叶わない夢となってしまった。

 

 パトリスはしゅんとして、肩を落とした。

 

「弟子には、なれません。私は、魔法が使えないのです。きっと、ご迷惑をおかけします」

「迷惑だなんて……」


 アンブローズは言いよどむ。形の整った眉を下げ、目の前にいる少女に同情した。

 魔法が使えないから、迷惑をかける。すぐにそのような言葉が出てくるほど、少女は追い詰められているのだ。


「パトリス嬢が私に迷惑をかけることはない。私はね、暇つぶしで師匠をしてるんだ。だから、私の暇つぶしに付き合うと思ってくれるといい」

「師匠、暇つぶしとは、何なのです……?」

「あはは、ブラッドったら、怖い顔をしているよ? パトリスが泣いてしまうから笑ってよ」

「もうっ、話しを逸らさないでください!」

 

 ブラッドが半眼で、もの言いたげに師を睨む。しかしアンブローズは、「あはは」と声を上げて笑うだけ。

 二人の関係性とブラッドの気苦労が、透けて見えた瞬間だった。

 

「私は名付け親として、パトリス嬢には幸せでいてほしい。だから、君に会う理由がほしいんだ。これは完全に私の我儘だよ。どうか、その我儘に付き合ってくれるかい?」

 

 アンブローズがかけてくれた言葉のひとつひとつが、ボロボロだったパトリスの心に優しく沁み込む。

 愛情に飢えていたパトリスは、アンブローズの手を取った。

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