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「佳樹」
呼ばれておそるおそる見あげると、驚愕のまなざしが待っていた。
「そんなことを考えていたのか、おまえ…」
力なく発された声は、いつにないほど擦れている。
頷いて布団に手をついた。ブレスレットが腕を滑り降りて、幸せな振動を手首と甲に伝える。それでいっそう胸が痛んだ。
「せっかくのプレゼントの日に、こんなことを言って、ごめん」
こんなの、なにもいま言わなくてもよかったのかもしれない。けれど、いまだからこそ、告げたかった。彼にお返しをしたいって、心から願ったから。
「そんなこと、俺は考えたこともないのに」
彼の腕に抱えられる。愛しい体温にくるまれて、乱れた気分が少しずつ凪ぐのを感じた。
彼の体はぼくにとって精神安定剤なのだ。
触れれば触れるだけ、心も体も、命さえもあるべき場所に戻っていく。
タカハシの声が静かに耳朶に響いた。
それはまるで、まったく違う世界から突然降ってきたみたいな響きだった。それほどに思いもよらない言葉だった。
「お母さんに会いに行かないか」
最初、なにを言われたのか理解できなかった。ぼくを連れてアメリカのご両親にでも会いにいきたいのかと思った。
でも、すぐに違うと気付いた。彼の声はそんな軽いノリじゃない。
そう気付いて体が冷たくなる。
同時に、こんなときになにを言い出すのかとふつふつと怒りがわいてくる。
彼は、ぼくのお母さんのことを指しているのだ。
(ひどい――――)
こんなときに、ひどい。
むしょうに裏切られた気分になった。
ぼくはぶるぶると首を振った。
「二人で面会に行こう。俺は中に入れないかもしれないけど、だったら入り口のところで待ってるから」
「なに、言いだすのさ」
怒りに顎まで震えた。
ずるいよ、こんなときにぼくが困るようなことを言い始めて。話をはぐらかそうとしてるんだろうか。だとしたら卑怯すぎる。
「関係ないじゃない、いまの話にさ。ぼくは、あの人のことなんて思い出したくもないよ。あんたとこうしていられれば、幸せなんだから」
「そうか?」
嫌味なほど静かに訊き返す。
そうか、じゃない。当たり前じゃないの。まったく馬鹿みたいなこと訊かないでよ。
「そうか。やっぱり自覚がないのか」
それでちょっとカチンときた。自覚がないって、どういうことだよ。なにを、偉そうに。
背後から体をさらに密着させて、ぼくの肩口にそっと口元をもってくる。キスをしてくれるのかと期待したら、違った。
「でも佳樹、夜中、泣いているんだよ。毎晩のように、お母さん…って呼びながら、涙を浮かべてる」
「うそ」
そんなこと、あるわけない。
「こんな嘘をついて、俺になんの得があるんだ?」
怒った口調で言い返された。
「本当は会いたいんだろ」
手加減なく追い討ちをかけてくる。
とんでもない。
あまりの誤解に激怒したいのを堪えた。
「そんなわけ、ない。あの人のせいでこんなになったんだよ、ぼくは」
お父さんが死んだのも。
悟さんがぼくを鞭打ち、強姦し続けたのも。全部あの女のせいだ。
「確かにそうなんだろう。でも、そのおかげで俺は佳樹に出会えた」
――ずるい。
こう言われてしまえば、ぼくは言い返せなくなる。
「佳樹がお母さんのためにどんなに酷い目に遭ったのか、俺は漠然と知るだけで詳しくは分かってやれない。けれど、彼女に会いたいと思っているなら会うべきだ。そうでないと、おまえの心はいつまでも癒されない」
いかにも分かったふうな口を利く。
癒されない、か。
笑いたくなる。
ここへ来て何度も彼の口から出た言葉だ。
「だから抱いてくれなかったの?」
頭の中の覚めた一点がそう理解したから、確かめた。
「そうだ」
怒りと悲しさでぼくは狂いそうになった。嘲笑のために顔がひどく歪んだのが自分でも分かった。
「でもあの人はぼくに会いに来るなって言ったんだ。そうまで言われて、なんでぼくから、のこのこと会いに行ってやらなきゃならないんだ」
悲しみのために吐き気すら覚える。
「あの人は、ぼくの目の前でぼくから父親を奪ったんだ。心臓を一突きにして。驚いた顔をして倒れたお父さんの胸から噴水みたいに噴き出していた血を、いまでもぼくは忘れられないよ。悟さんからあんな強姦を受けたのだって、全部あの人のせいだ。あの人を忘れることで、ぼくは精神を保っているんだ。それさえも許されなかったら、ぼくは、どう生きていったらいいんだ」
「けれど忘れきれていないんだろ。だから泣いて呼び求めているんじゃないのか。本心を直視するんだ。お母さんに会ってみて、たとえどんなことになろうと、俺はずっと佳樹のそばにいる。絶対に、おまえを独りにはしない」
また、とてつもなく困らせるようなことを。
ぼくは泣いていた。沸きおこる唾をごくりと飲むと、それに気付いたタカハシがぼくの顔を覗き込む。
「涙はいつでも、俺が拭き取るよ」
そう言って、本当に親指で涙を拭い始める。
キザ。
突拍子もなくキザったらしい。
なのに、ぼくの目からは涙が溢れて止まらない。
彼の大きく繊細な指先に何度も頬を撫でられて、自分の心が傷ついているのをやっとの思いで自覚する。自覚すればまた傷が深まる。
ぼくはまだまだ闇の中にいる。その闇は深く、たやすく抜け出せない。
上から彼が懸命に引き上げようとしてくれていることに、いまようやく気付いた。
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