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「不毛だろ?」


 心配と不安の表情は似ている。窓辺に立つ十年来の親友は眉をしかめ、呆れと哀れみを顔に浮かべて僕を見下ろしていた。


 彼が窓を開け、初夏の埃っぽい風が部屋に入り込んで、ぬるく澱んだ空気が押し出されるとそれが僕には心許ない。グラスに残っていた酒を一気に喉に流し込むと、それを見ていた彼は深いため息をついた。


「顔色が良くない。ちゃんと食ってるのか?」


 僕は笑ってみせたけれど、上手く誤魔化せた自信はない。彼女が死んでから、僕はSoLの世界に引きこもったままだった。


「悪いな、心配かけて」


「謝ってほしいわけじゃない。心配かけてると思うならゲームはやめろ」


「わかってる」


「わかってない。SoLにのめり込む気持ちはわかるし、四六時中徹夜してやってるやつだってザラにいる。だが、それが問題視されてるのは知ってるだろう?」


「……ああ」


「SoLに頼り過ぎるのは危険だ。現実逃避してゲームと酒で体調を崩せば余計に依存度が高まる。悪循環だ」


 言われるまでもなく、依存症に陥りかけている自覚はあった。フルダイブVRゲームは他にもあるが、圧倒的に没入度の高いSoLは依存症が社会問題となりつつある。専門家による治療プログラムや自助グループもでき、親友は何度かそういった場所を僕に勧めたが、僕は自分がまともな状態に戻ることのほうが恐ろしかった。日常を取り戻し、彼女のいない〈現実〉で笑う自分を想像すると、この体を跡形もなく消し去ってしまいたくなる。


 そして気づけばヘルメットを装着し、SoLの中をさまよっているのだ。酒の味を口に残したまま教室へ向かい、僕はあの世界で数学教師として教鞭をとる。そして〈彼女〉と〈モエ〉のことを考える。



 僕が彼女に初めて会ったのは夏のフリーマーケットだった。


 日差しの強い日で、涼しげな氷の音に誘われテントの前で足を止めると、看板に『フルーツソーダ・バー』とあった。籐籠に果実が盛られ、氷水の中にはソーダ水の瓶が浸かっている。店先には中年夫婦が立っていて、カウンターの奥に僕と同い年くらいの女性がいた。彼女の笑顔に目を奪われていたから、座っているのが車椅子だと気づくのに少し時間がかかった。


「いらっしゃい。この中から好きなフルーツを選んで。あたしがそれを搾って、ソーダ水を注ぐ。こんな天気の日にはピッタリでしょ」


「じゃあこれで。お気に入りなんだ。この新品種」


「ブラッドレモンね。あたし、この色すごく好き。夕焼け空みたい。ちょっとビターで、大人のレモンソーダって感じよね」


 彼女は僕が手渡したブラッドレモンを包丁で半分に切り、スクイーザーにセットした。レバーを下ろすと果汁がグラスの中に溜まって爽やかな柑橘の香りがする。


「腕の力は強そうだね」


「筋力が落ちないように鍛えてるから」


「レモンを搾るのもトレーニングになる?」


「そうかもね」


 彼女は笑い、タオルで手を拭いてソーダの瓶を開けた。僕の他にも客がいて、夫婦はその相手をしている。


「忙しそうだね。商売繁盛」


「今だけよ。気楽な商売なの。あたしの気晴らしに両親を付き合わせてるだけ」


 手渡されたブラッドレモンソーダは彼女の言ったとおり夕暮れ空の色をしていた。底に沈んだ果汁はグラスの上部に行くにしたがって透明なソーダ水と混じり合い、ストローでかき混ぜると炭酸の弾ける音がする。


 ブラッドレモンソーダを飲みながら、彼女としばらく話をした。そのうち僕以外の客はいなくなり、彼女の母親に促されて二人でフリーマーケットを見て回った。一目惚れではないけど、彼女に惹かれるのにそう時間はかからなかった。


 そのあと何度か彼女の病院を訪れ、僕たちが恋人になった頃に鳴り物入りで発売されたのがSoLだった。社会現象にまでなり、僕は世間の流行りにのってヘルメット型のゲーム端末を買ったけれど、彼女はあまり乗り気ではなかった。


「だって、すごく面白いんでしょ? ゲームにハマって手も指も動かさなくなっちゃったら、どんどん筋力がなくなっちゃう」


 一ヶ月ほど前から彼女の指は時々硬直するようになっていた。SoLの世界なら自由に動くことができる。僕がそう提案しても、彼女は首を縦に振らなかった。


「SoL、やってみようかな」


 彼女がそう言ったのは、右肘から先が完全に動かなくなった後だ。彼女は僕の前で笑顔を見せていたけれど、この頃を境に表情に諦めが滲むようになった。


 僕はゲーム端末を購入し、彼女の代わりにセッティングした。予想外だったのは彼女がタレントを職業に選んだことだ。僕はすでに高校の数学教師として登録を済ませていて、正直に言えば学校関係の仕事を選んでくれればと思っていた。高校教師とタレントでは活動範囲がまったく違うから、SoLの中で彼女と接触するのは難しい。


「タレントになりたかったの?」僕は聞いた。


「どんな仕事がしたいかなんて、考えたことなかった。頭がいいわけじゃないし、体力もないし。でも歌うのは好きだから。それに、タレントならお金かけないでお洒落できるでしょ。お金稼いでないのに、ゲーム買ってもらって服まで課金するのはちょっとね」


 僕自身が過去に諦めた数学教師を選んだのだから、彼女の気持ちを尊重しようと決めた。転職して彼女のそばに行くこともできるけど、現実と同じようにSoLの中で転職活動しなければならないし、運良く採用されるとは限らない。しかも、システムに負荷がかかるという理由で、一度登録したあと別の人間として登録し直すことはできなくなっている。


 僕のアバターは〈高波透〉。黄色がかった肌を持つ日本人で、髪はダークブラウン。彼女はタレント〈モエ〉。本名は〈草凪萌〉で、肌は乳白色、選んだ髪色は深い緑。アバターのデザインを悩みながら決めていく彼女は、久しぶりに晴れやかな顔をしていた。


「モデル出身タレントのモエか。一介の高校教師じゃお近づきになれないね。残念」


「ゲームはゲーム。ゲームの中でも一緒にいたら、現実ではほったらかしにしちゃうでしょ? ゲームの中でキスするより、本当のキスがいい。それに、近くにいたら女子高生に嫉妬しちゃうかもしれない」


 僕は彼女を抱き締めてキスをしたが、完全に麻痺してしまった彼女の右手はいくら握りしめても何の反応も返ってこなかった。


 彼女の顔や首、僕の存在を感じられるすべての場所に手を這わせ、なでていった。その範囲は日を追うごとに狭まっていき、まるで彼女の中から僕の存在が締め出されていくようだった。


 彼女がSoLにのめり込むまではあっという間だった。僕は諦めきれず転職先を探してみたけれど捗々しい成果はなく、別の方法を思いついて彼女に話してみることにした。


「撮影場所が提案できるなら、僕の学校に来ない? 会えるかもしれない」


「会えるかな? 撮影で色んな場所に行くけど、行動エリアは現地の登録者と重ならないようになってるみたい」


「裏技があるんだ」


 その方法を知ったのは最近だった。モエと高波を接触させる方法を探していたとき、たまたま耳にしたのだった。裏技を使うのはSoLと〈現実〉をシームレスに満喫する人々。


「あっ! メイクさんから聞いた。行動エリアが広がるんだよね。なんか流行ってるって」


「メイクさんって、NPC?」


「NPCだったら裏技なんて知らないよ。えっと、行動エリアが少しでも重なるプレイヤーがいたらいいんだっけ」


「うん。僕たちそれぞれの端末を同じパソコンに接続して、その状態でログインするんだ。設定をちょっといじる必要があるけど、そう難しくない。モエが学校に撮影に来るだろ。そうしたら、僕の行動エリアと重なる。そのとき一緒にログインすれば高波はモエの行動エリアも好き勝手に動けるし、モエも学校の中はどこでも移動できる」


「学校かあ。高波先生の学校って、どんな感じ?」


「僕が通ってた高校と似てる」


「そっか」


 彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。「学校行けることになったよ」と報告してきたのは、ほんの数日後だ。


 僕にしてもそうだが、SoLがいくらリアルに作られていても所詮現実ではないと知っている。現実では躊躇ってしまうことも、ゲームだと割りきれば思いきった行動がとれる。モエは思った以上に貪欲だった。


 そして、学校での映画撮影の日。モエの本来の行動エリアは第一資料室の前までだったが、裏技を使うことで彼女は第一資料室に足を踏み入れた。この裏技を使ったプレイではコミュニケーションに一部障害が発生すると判明したのは後日のことだ。登録情報から対象と接触する可能性がゼロだと判定された場合は、視覚と聴覚のみの情報伝達となる。プレイヤー同士なら障害はないという噂も聞いたが、モエとユウタの間には障害が発生したはずだった。


 あの時、なぜ自分で行かずユウタに行かせたのか。僕の後悔はいつもそこに舞い戻る。


 ユウタを第一資料室に向かわせたのは、彼女へのちょっとしたサプライズプレゼントだった。彼女はずっと病室でマンツーマンの授業を受けていたから、学校の友だちがいない。学校に対する憧れは言葉の端々から感じていたし、だから擬似的にでも学校で同級生と触れ合う体験をさせてあげたかった。


 そして僕が選んだ同級生役がユウタだった。ユウタならタレント〈モエ〉と出くわしてもおそらく騒がない。そう判断して彼を第一資料室に向かわせた。ユウタが家の事情で悩んでいたこともあり、彼の気持ちも多少紛れるのではないかとも考えた。ユウタはただのNPCだとわかっていても、何かしなければと思ったのだ。


 そして僕の目論見は成功し、彼女はユウタと出会い、ログアウトした直後の彼女は高揚していた。一方、僕はと言えば、第一資料室に行くタイミングがモエと合わなかったことに内心落胆していた。


「また学校に行きたいな」


「ユウタに会いに?」


 僕の問いかけに彼女は声を出して笑った。


「ゲームの中の男の子に嫉妬? それよりもっとあの学校を探検したい。いつも仕事で行く場所と違って、緑がいっぱいで気持ちいい」


「でも、学校での撮影はあの日だけなんだよね」


「うん。他校を訪れたっていうシーンだったから、仕事で行くのはもう無理かな」


 じっと見つめてくる彼女に、「なんとかしてみるよ」と僕は苦笑まじりに答えた。彼女の願いを叶えてあげたかったし、それ以上に僕が彼女に――モエに触れたかった。


 SoLの中の〈モエ〉。それはアバターであって彼女ではない。けれど、そこにあるのは彼女の意識だ。彼女の意思で動く手が僕の体に触れるところを想像すると居てもたってもいられなくなり、僕は必死でその方法を探った。 


 結局、SoLに不正ログインするしかなかった。けれど、裏技と同様にコミュニケーションに障害が発生することが予想された。つまり、モエが学校でプレイヤー以外と接触すれば人間ではないとバレる。だから、授業中を選んで一人で行動するように彼女に念を押した。僕とはいつもすれ違いだった。


 僕は焦り始めていた。彼女の両手は完全に動かなくなり、彼女の両親から残された時間が少ないと聞かされたからだ。


 そして、僕は一方向にしか進まないSoLの時間を巻き戻すための試行錯誤に本腰を入れた。モエが学校に来た時の高波の行動を変えて、なんとか接触できないかと考えたのだ。さらに言うと、リプレイは彼女がこの世からいなくなった時の保険でもあった。撮影の日に戻れば、いつかきっと彼女に会える。


 もしかしたら、そんな細工をせず素直にモエと待ち合わせれば良かったのかもしれない。でも、僕は彼女に対して「ゲームの中で会いたい」と口にすることができなかった。


『ゲームの中でも一緒にいたら、現実ではほったらかしにしちゃうでしょ?』


 あの言葉が僕を縛っていた。それに、この頃の僕はモエに会うのが少し怖くなってもいたのだ。僕がSoLの中でモエに触れて、その感触に心奪われてしまったら――その想像は、彼女だけでなく僕の心も傷つけてしまいそうだった。


 モエに触れたいと思いながら触れることを恐れ、そのくせ触れるための手段を探している。そんな矛盾だらけの日々が続いたある日、僕は蓄積してあったモエのデータを盗み見た。リプレイ方法を探るために必要だと理由をつけ、映像データじゃなくてコードの羅列だからと嘘をついて許可を得たのだ。そしてユウタとモエの会話を聞き、そのとき初めてモエが高波から隠れたことを知った。あの、第一資料室でのことだ。


 彼女が「ユウタに触れてみたい」とこぼしたのは、ちょうどその頃のこと。つい言葉に出たというような小さな独り言だったが、僕が嫉妬に駆られないわけがなかった。


 ユウタはただのNPC。なのに彼女はユウタに触れたいと言う。タレントとして活動する中で多くの人間に触れてきたはずなのに、なぜ彼女が求めたのは触れることのできないユウタなのか。


 きっと、触れられないからだ。


「不毛だよ」


 念押しするような強い言葉は親友の口から出たものだった。顔を上げると親友はまだ窓辺にいる。


 彼はいつからここにいたのか。彼女が死んでどれくらい経ったのか。葬式は昨日のことのようで、彼女と一緒にSoLにログインしたのは数分前のような気がする。


「ちゃんと現実を生きろ。彼女はもういない。いや、お前の中にはいるんだろうけど、現実の時間を前に進めろ」


「ああ」


 惰性でうなずくと、彼はまたため息をついた。逆光でも呆れ顔なのがわかる。親友は僕の手からグラスを奪って水を持ってくると、「また来るよ」と帰っていった。


 僕は立ち上がり、冷蔵庫からレモンソーダを取り出す。色のない、ただのレモンソーダを酒と半々でグラスに注ぎ、ソファに身を沈めてヘルメットをかぶった。


「さあ、今日も仕事だ」

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