もののけ(2)

 小野好古の屋敷は内裏から南西の方角に存在していた。

 地相によれば、南西は裏鬼門うらきもんとされており、わざわざ好んで屋敷を建てるような方角ではなかった。


 なぜわざわざ、裏鬼門の方角に屋敷を建てたのだろうか。晴明はそのことが気になり、文殿ふどのへ出向くと、小野家の屋敷がなぜあの場所に建てられたのかを調べてきた。どうやら、あの場所を小野家の屋敷の場所と定めたのは、先々代の篁公のようである。篁公は地相についても詳しかったようで、自らの屋敷で裏鬼門を守るという方法を取っていた。


 小野篁公の孫。その肩書きを聞いただけでも、晴明にとっては好古が厄介な相手であるということを示していた。物怪やあやかしといった話があると必ず登場する人物、それが小野篁であるからだ。なぜ面倒な話を引き受けてくるのだ。晴明は好古の頼みを聞いてきた保憲のことを多少なりとも恨んでいた。


 晴明に好古との面識はなかった。だが、その名と功績はよく知っている。無骨な人物だと聞いていたが、孫ほどの年齢の子がいたとは知らないことだった。実際の好古とはどんな人物なのだろうか。晴明はまだ見ぬ好古の想像をしながら、好古の屋敷へと向かっていた。


「陰陽寮の安倍晴明にございます」


 好古の屋敷で門前にいた家人に晴明は名乗ると頭を下げた。

 寝殿造りの大きな屋敷だった。好古は大宰大弐という役職から、あまり平安京みやこには戻らず、ほとんどを大宰府で過ごしていると聞いているが、現在は喪に服すために帰京しているという話を保憲から聞かされている。

 家人によって屋敷内へと通された晴明は、奇妙な感覚を味わっていた。屋敷内は不気味なほどに静まり返っているのである。これはどういうことなのだろうか。晴明は警戒心を抱きながら、家人の背中に着いていった。


「こちらでお待ち下さい」


 晴明が通されたのは、中庭にある梅の木がよく見える部屋だった。庭はよく手入れがされており、梅の花が咲く季節であれば素晴らしい光景が見れるのだろうということが、安易に想像できた。


 しばらく待たされた後、ひとりの男が入ってきた。烏帽子の隙間から見える髪と顎を覆うような髭は白髪で、よく日に焼けた浅黒い顔に刻まれた皺は好々爺を思わせた。背は高く、がっしりとした体格であるため、見た目だけでこの老人が公卿であると判断するのは難しかったが、この偉丈夫の老人が野大弐こと小野好古であることは間違いなかった。


「お待たせいたしました、晴明殿」


 はっきりとした口調と少し大きいくらいの声。それは好古が武官であるということを示しているかのようだった。間違いなく、この男が藤原純友を打ち破った野大弐なのだ。

 そのことを認識した晴明は、頭を低くして好古に挨拶をした。


「安倍晴明にございます」

「晴明殿、突然お呼び立てしてしまい悪かったな」

「いえ、とんでもございません。この陰陽師安倍晴明を頼られたこと、嬉しく思います」

「晴明殿は陰陽寮の中でも一番の陰陽師だと聞き及んでいるぞ。先日も紫宸殿ししんでんに出た物怪を退治したとか」


 何の話だ。晴明は顔をしかめた。なにやら、自分の知らないところで噂が独り歩きをはじめてしまっているようだ。晴明は物怪など退治したこともなければ、物怪を見たことすらなかった。


 それはなにかの間違いでは無いでしょうか。そう言おうとした時、どこからか風が入ってきて一枚の花びらを部屋の中へと運び込んできた。ただの風である。晴明はそう判断したが、好古はそう思わなかったらしく、その花びらをじっと見つめていた。


「この屋敷には物怪が住み着いておる。きっと、藤原純友の怨霊であろう」

「なぜ、物怪が住み着いていると思われるのでしょうか」


 そう晴明が好古に聞くと、好古はじっと晴明の顔を見つめてきた。その少し灰色に濁った目は鋭く、そして何でも見透かしてしまいそうな目であった。


「屋敷の者が見たのだ」

「何をでしょうか」

「物怪に決まっておろう」

「好古様は、その物怪とやらを見られたのでしょうか」

「いや、わしは見ておらん」

「なるほど。好古様は見ていないのですね」

「ああ。だが、屋敷の者たちが騒いでおる。息子が死んだのも、その物怪のせいだと」

「先にひとつ言っておきます。私は物怪の存在など信じてはおりませぬ」

「なんと……。しかし、晴明殿は陰陽師であろう」

「確かに私は陰陽師です。しかし、物怪の存在は信じておりませぬ」

「悪霊払いや呪術を使うのではないのか」

「それは私ども陰陽師の仕事ではありません。おそらく好古様が言われているのは、法師などと呼ばれる連中のことでしょう。よく我々朝廷所属の陰陽師と混同される方がいらっしゃるので」

「そうなのか……」

「ええ。法師たちは我々とは違い、朝廷に仕えているわけではありません。現在では朝廷から禁止されている呪術を使用したり、怪しげな民間信仰を広げたりしている連中です。あのような者たちの言っていることを真に受けてはなりませぬ」


 そこまで晴明が言うと、好古は大きな声を上げて笑い出した。

 あまりに急な出来事であったため、晴明は呆気にとられてしまった。


「さすがは朝廷一の陰陽師と呼ばれる男だ。恐れ入った。賀茂保憲が言っていた通りじゃ」

「どういうことでしょうか」

「保憲は、晴明に物怪の話をしても無駄であろうと言いおったが、まさにその通りだったな」


 そう言って好古はもう一度笑ってみせる。


「物怪の話は嘘であったということでしょうか」

「いや、嘘などではない。家人どもが騒いでおるのだ。中にはどこぞの、その法師とやらに話を聞いてきたらしく、屋敷が裏鬼門の方角に建っているから問題なのだという者まで出る始末であった」

「そうでしたか」

「だから、朝廷一の陰陽師である安倍晴明殿に、その物怪どもを祓ってもらおうと呼んだのじゃ」

「なるほど、そういうことでしたか」


 どうやら、好古も物怪に関しては信じていないようだった。ただ、家人たちを安心させたいがために晴明を呼んだのだ。それも朝廷で一番と噂の陰陽師である晴明を。


「いま屋敷の家人どもは怯えて仕事にならないため、暇を出しておる。わしも、もうしばらくしたら大宰府へ戻らなくてはならんのだ。それまでに何とか、この噂を断ってもらいたい」

「わかりました。そういう話であれば、この安倍晴明が引き受けましょう」


 晴明はそう言うと、先ほど部屋の中に迷い込んできた一枚の花びらを拾い上げた。

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