p.07 髪の毛は甘くありません

 祝祭に向けて華やかな飾り付けがなされたこの時期のファッセロッタにも、穏やかさを残した区画はある。

 それは決して、悪の蔓延る裏社会や排他的な者たちの住まう隠れ家という意味では(そのような区画もあるにはあるが)なく、たとえば静寂の中で真摯に物語と向き合いたい読書家の集う古本屋や、熟練の料理人がこだわり抜いた食材や手法で提供する一日限定五食のレストランといった、人混みを好まない性質の店がひっそりと佇んでいるような場所だ。

 魔術師は、そんなやわらかな陽光が似合う小さな通りの、近所の誰かが手入れしているのか、可憐な冬花の植えられた花壇の隣にあるベンチに腰掛けていた。

 かっちりした墨色のコートからは上品な光沢を持つシャツの襟が覗き、長い脚を組んで革張りの手帳に視線を落としているのは上流の仕事人といった様相だ。しかし彼の纏う空気は誠実さからほど遠く、気配に敏感な者であればこの夜の魔術師がよからぬことを企んでいると気づくだろう。


「……お待たせしてしまいましたか?」

 ふと、ためらいがちに発せられた言葉に、魔術師はあえてゆっくりと視線を上げた。

(東からの道か)

 待ち合わせの相手を視界に入れる前にその人物がやってきた方向を確認し、それからこちらを窺い見る魔女と視線を合わせると、魔術師は先の質問には答えずに隣を指し示した。

 魔女はわずかに目を瞠ってから素直にベンチに座ったが、いささか落ち着かない雰囲気でそわそわと辺りを見回している。

「あら、可愛らしいお花です。厳しい寒さにも負けずに頑張っているのは、どなたかがたっぷりと愛情を注いでいるからでしょうか。この区画は豊かで優しい空気に満ちていますし……」

「さあな」

「魔術師さんにとってはあまり興味のあるお話ではありませんでしたね。……さっそくですが、では、こちらをお渡ししてしまいますね」

 特に催促したつもりもなかったが、魔術師の素っ気ない反応になにを思ったか、魔女は肩掛けの鞄から小瓶を取り出した。

「ああ」

 受け取ると、瓶の中で初雪の結晶がふくりとした光を放っているのが見える。形の崩れたものはなく、透かし細工のような重なりが美しい。丁寧な採集をしたらしい魔女の器用さに、魔術師は密かに感心した。

「甘いもの、お好きなのですか? なんだか意外です」

「別に普通だろ。夜会へ行けばうんざりするほどあるしな」

 当然のように対価を要求されると思っていたが、魔女は純粋な好意で貴重な甘味を譲ってくれるらしく、なんてことのない会話が続く。

(文字でふたつ、仕草でひとつ……いや、こいつが催促ととったなら仕草もふたつになるのか? 罠とは気づいてなさそうだな)

 魔術を乗せた言葉や仕草に相手を従わせることで、微弱だが契約に似た繋ぎを得ることができる。魔女が従うかどうかは半々といったところであったが、このままいけば成功するだろう。人目につきにくく、路地の形が魔術を織りやすい区画を待ち合わせ場所に選んだかいはあったようだ。

「やはり、そういう場所にも行かれるのですね。確かに、有名な職人さんの作る繊細なお菓子などはお似合いな感じがします……!」

「興味あるのか?」

「いえ、わたくしは……あのような場は緊張してしまいますし」

 戯れに問いかけてみれば、魔女は困ったように視線をさまよわせる。長命で力のある魔女ならば誘いも多いだろうに、そういった会への参加は一切聞かなかったのはなんとも情けない理由だ。

 魔術師は小瓶をコートのポケットにしまいこんでから、おもむろに魔女の髪へ手を伸ばして一房、掬い上げた。

「え……?」

 親指でさらりと撫で付けると、こっくりとした葡萄酒色の髪の中で星を粉にしたような銀色の光が煌めく。

「かっ、髪の毛は甘くありませんっ!」

 しかし魔女は慌てて立ち上がり、もと来た道へぱたぱたと駆けていく。

 残された魔術師はいきなりのことに呆然とし、同時に霧散した魔術の罠にため息をついた。

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