第18話 切支丹の山・大千軒岳
<2007年6月>
北海道の南部に大千軒岳(1071m)という山がある。松前半島のほぼ中央部にある山である。
6月半ば、この山に登ろうとして、道南の幹線道路から尻内川沿いの道路に折れた。最初、舗装されていた道路は砂利道になり、やがて割石を敷いたようなガタガタ道になる。鋭角的な割石が目につき、ヤバイ感じがしたが、引き返すのもシャクで、そのまま登山口まで突っ走った。
かつて江戸時代、松前藩は、この山で切支丹信徒を使役して金を採掘していたというが、禁教令により106名を斬首する。登山口から尻内川を遡行すること1時間半、金山番所跡に十字架が立っていた。ステンレス製の十字架が深山幽谷の中で光っている、というのも不思議な感じのする光景だった。
沢をつめていって、上り着いた千軒平にも、十字架が立っていた。ここから大千軒岳への道は、花畑の中の道である。フウロ、キンポウゲ、ミヤマアズマギク、エゾノハクサンイチゲ等々、薄紫、黄、白、濃紫の花々が咲き乱れている、気分のいい道だった。
大千軒岳は、周囲の山々を見下ろすようにして立っている、山奥の盟主といった感じの山だった。360度の眺望で、スッキリ晴れていれば青森の山々まで見えるというが、蒸気が立っていて、遠くは見えない。鳥の鳴き声も聞こえず、時々吹いてくる風が叢の頭を撫でていく、かすかな音が聞こえるだけだ。静寂さに、心がざわつき、悪い予感がした……。
その予感は、川原まで下りてきた時、的中した。
「オーイ、土浦ナンバーかあ?」
投げ釣りをしながら渓流を遡行してきた釣り人が、私を見て怒鳴った。そうだ、と応えると、
「パンクしてるぞォ……」、竿を降りつづけながらまた怒鳴った。
「ホントですかァ?」、一瞬にして血の気が引いていた。
「前の左側のタイヤだァ……」
釣り糸を手前に引きながら、釣り人はそう言うと、もう私の方を見ずに行ってしまった。
マイッタナア……、エンジン・ルームさえのぞいて見たことがないのだ。タイヤ交換なんてできるだろうか? 唾を飲みこもうとしたが、口の中が乾いていて、飲み込めない。頬の皮膚が引き攣っている。周りの風景は緑のはずなのに、真っ白になっていた……。
そう言えば、若い頃、こんな目にあったことがあるなあ……、道を急ぎながら、昔のことを思い出していた。中学を卒業して、町の商店の、住み込み店員として働いていた時のことだ。働きはじめて2年目の夏、店の旦那に、東京から荷物の運搬をしてくるように言われた。小型四輪免許証を取得したばかりで、東京へ車を運転していくのは初めてのことであり、しかも一人で行くのだったから不安だったが、とにかく出かけた。茨城から千葉を抜けて、日本橋の問屋へ行き、伝票をもらって、江東の南砂町の工場にまわった。1,5トンの小型四輪車に、製粉袋をうず高く積んで、当時はまだ砂利道だった6号国道をヨタヨタ帰ってきた。どの辺だったか、憶えていないのだが、後輪がパンクして、車は傾いて停まった。マイッタナア、なんて考えている余裕があったか、どうか、とにかく必死だった。車体の下にジャッキを入れて、車体を上げ、車輪を外した。予備のタイヤなんて持っていなかったから、外したタイヤを、パンク直しの店まで転がして行って、修理してもらい、また転がしてきて、取り付けた。
とにかく、一人で全部やった、あの時、まだ16歳、よくやったものだと思うが、それだけ生きることに必死だったのだろう。それが、今、60ウン歳、オタオタしている。年を経た方が、余程ダラシナイ。
沢沿いの道を小走りになって、息せききって、汗みずくになって、登山口に帰り着く。なるほど、見事に!左前輪のタイヤの空気が抜けて、ワンボックスカーが左に傾いている。
まあ、とにかく、水を飲んで、汗を拭って、登山靴をぬいで、スニーカーに履き替えて、ドアを開けて、ダッシュボードからマニュアル本を出した。老眼鏡をかけて、パンク修理のページを開き、作業の手順を声を出して読む。
まず「工具を出す」……、工具の保管されている場所なんか、知らなかった。だから、保管場所から工具を出すのに、時間がかかった。次に「スペアタイヤを外す」……、スペアタイヤが、自動車の車体の下に、取り付けられているなんてことも知らなかった。「パンクしたタイヤのボルトを緩めた後、車体の下にジャッキを入れ、車体を上げる」……、これは力のいる仕事だった。女の人には無理だろうなあ……、と思いながら、必死になってジャッキを回し、何度か、休みながらを繰り返し、休むたびに水を飲んだ。「パンクしたタイヤを外す」……、「スペアタイヤを付ける」……、汗もぬぐわず、作業をつづけた。「工具をしまう」……、最終的に約2時間かかっていたろう。この間、水を1リットルほど飲む。脚を踏ん張れないほど疲れていた……。
やる気になって頑張ればできるじゃないか、へたり込んで取り付けたタイヤを見ながらそう思ったが、あまり嬉しい気持ちにはなれない。ダイタイ何かを成し遂げたという達成感がない、発揚してくる感情がない、なにかガックリしていた。
へたりこんでいると、埃たつ砂利道をタイヤを転がしていく少年の姿が見えてきた。「店を辞めて……」とあの時、思ったのだった。「全日制に編入し、人生をやり直して見よう」
さてっ、と声を出さずに立ち上がった。過ぎ去った時間が肩に重い。運転席に座ると、エンジンをかけた。鈍い音が、みどりの木立の中に響いた。
(第19話は、2025年11月1日に掲載する予定です。)
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