第19話:諸藩連合軍

 江戸で一橋民部卿治済と島津薩摩守重豪が、将軍家簒奪のための噂をばらまき、名門譜代を味方に取り込んでいる頃、薩摩軍と幕府軍は熾烈な戦いを繰り返していた。


 長谷川平蔵達に率いられた幕府軍、薩摩征伐軍は大きく三軍に分かれており、三つの街道から薩摩領内に攻め込み、一二〇ある麓を攻略しようとしていた。


 島津軍は守りの堅い麓に農民と共に籠城していた。

 だが攻められずに無視されたら無力な存在となる。

 怒りに任せて麓を討って出れば、待ち伏せされ徹底的に叩かれる状態だった。


 幕府軍が初期の戦いを有利に運べたのは、島津軍が愚かな戦術を使ったからだ。

 熊本藩細川家を始めとした、薩摩藩島津家と領地を接している諸藩が、薩摩藩を恐れて十分な備えをしていたからだ。


 小倉藩小笠原家と中津藩奥平家といった、幕府の九州派遣大名が、薩摩藩島津家を始めとした九州諸藩に備えていたからでもある。


 だが、一〇の麓が無謀な突撃をして無力化されてからは、他の麓は籠城に徹した。

 一切攻撃を仕掛けず、戦力を残したまま麓に籠城した。


 これには幕府軍もなかなか攻める隙を見つけられなかった。

 だが、薩摩軍が圧倒的に不利で、徐々に領地を侵食されているのは間違いない。


「討って出て来ないのなら好都合、このまま坊津まで進軍だ」


 長谷川平蔵の決断は的確だった。

 この侵攻の目的は浅草仙右衛門を捕らえる事が最優先なのだ。


 とはいえ、浅草仙右衛門一味は、まず間違いなく船を使って逃げてしまっている。

 だが坊津に残された書類を確保すれば、薩摩藩が抜荷をしていた証拠にはなる。


 言い訳のしようのない証拠を手に入れないと、幕府将軍家が理不尽に薩摩藩を攻めた事になってしまうので、早急に動かぬ証拠を確保する必要があった。


 立身出世の為なら、悪名を一身に背負う事も厭わない長谷川平蔵だが、できる事なら、自分はもちろん大納言家基にも家治将軍にも悪名を背負わせたくなかった。


 一方領内を守る薩摩藩の家老達は、悲鳴のような手紙を毎日江戸に送っていたが、島津薩摩守は全く危機感のない生活を続けていた。


 それは、一橋民部卿が自信満々に『薩摩藩は大丈夫だ、私が取りなすから本領は安堵される』と言い続けたからだ。


 最初は不安から一橋民部卿を疑っていた島津薩摩守だが、その自信満々な態度と着実に味方を増やす手腕に安心するようになった。


 一橋民部卿が、幕府の番方は味方だから薩摩藩江戸藩邸を包囲しても攻撃しない。

 どうしても攻撃しなければいけなくなったとしても、手頃を加えると言ったのだ。


 むしろ合戦の混乱が起きた方が、家治将軍と大納言家基を殺せる。

 2人を殺したら自分の子供が次の将軍に成るから、何の心配もないと言ったのだ。


 何より島津薩摩守は藩士の武勇に自信があり、九州諸藩が連合して攻め込んできた程度では負けないと思い込んでいた。


 だがそれが薩摩藩島津本家を滅ぼす事になってしまった。

 関ケ原後の強気交渉の成功体験が、島津薩摩守の判断を誤らせた。

 薩摩藩士の強さを妄信してしまったいた


「幕府に刃を向けた島津藩は取り潰す。手柄を立てた者には薩摩大隅から領地を与える。我と思わん者は出陣せよ」


 家治将軍の決断で幕閣が動いた。

 全大名に、江戸詰め藩士を総動員して薩摩藩江戸屋敷を襲えと命じたのだ。

 彼らに薩摩藩江戸屋敷を囲ませ、その外側を幕府の番方に囲ませた。


 だが家治将軍が狙ったのは薩摩藩江戸屋敷だけではなかった。

 一番怒りを覚えている一橋民部卿治済も襲わせた。


 今ある番方ではなく、一橋民部卿治済の工作が及んでいない、名門とは程遠い、無役の小普請組に手柄をたてる機会を与えたのだ。


 手柄をたてたら役に就かせると言って、小普請組に一橋屋敷を囲ませた。

 柘植忍軍の報告で、一橋民部卿が名門旗本と接触しているのを知っていたからだ。


 今御役に就いている番方、特に名門の集まる両番を使ったら、一橋民部卿の味方をするかもしれないと疑っていたのだ。


 長男の豊千代が島津薩摩守の三女篤姫と婚約しているのを理由に、薩摩藩の謀叛が将軍の座を狙った一橋の陰謀だとした。


 家治将軍は、抵抗したら斬り殺せとまで厳命したうえで、小普請組で臨時に作った大番、新番、小十人組、徒士組、御先手組に一橋屋敷を襲撃させた。


 彼らも、役に立たなかったら直ぐに小普請組に戻されると分かっているので、忠実に命令に従って一橋屋敷を襲った。


「何をする無礼者!余は一橋民部卿であるぞ!」


 一橋民部卿は身分を振りかざして抵抗したが、無駄な事だった。

 今回は更に上位の、家治将軍が直々に命じた討伐なのだ。


 一橋民部卿によって広められた、謂れなき悪評で嫌われている、田沼意次の命令ではなく、家治将軍直々の命令なのだ。


 しかも捕らえる理由が、次期将軍である大納言家基に対する暗殺未遂だ。

 幕藩体制でもっとも忌み嫌われる、主殺しをしようとした大罪人なのだ。


 更にその方法が、幕府成立からずっと警戒している薩摩藩島津家と手を結ぶと言う、徳川家の一員とは思えない悪手なのだ。


 一橋民部卿に籠絡された不忠者でなければ、絶対に許せない悪逆非道な方法だ。

 そんな手段を許せるのは。将軍家や幕府よりも自分達の名門意識の方が大切な、性根の腐った連中だけだ。


 自尊心で醜く肥大した名門譜代でなければ、絶対に許せない暴挙だ。

 そんな連中の裏切りが怖かったから、家治将軍と田沼意次は両番を使わなかった。

 柘植忍軍の報告がなかったとしても、二人は両番を使わなかっただろう。


 家治将軍も田沼意次も、一橋民部卿なら名門意識が強い譜代旗本を取り込んでいると見抜いていた。


 これほど明々白々の悪事を働いた一橋民部卿なのに、一橋家の家臣は幕府から出向しているだけなのに、忠誠を尽くして戦う者がいた。


 一橋民部卿を逃がそうとして、捕らえに向かった小普請組と斬り結んで死ぬ者が、想像していた以上に多かった。


 だが、家臣達の忠誠心に反して、一橋民部卿の振る舞いは卑怯下劣の極みだった。

 人の上に立つ者として絶対に許されない、卑怯極まりない言動だった。


「余は何も知らなかった。全ては幕府が付けた家臣達が立身出世に目が眩んでやった事だ。だからこそ連中は死ぬまで捕り方に抵抗したのだ。全て連中が悪いのだ。余は何も悪くない!」


 一橋民部卿は、忠義の家臣に全ての罪を擦り付けて助かろうとした。

 だがそれは一橋民部卿に限らず、島津薩摩守も同じだった。


 日ノ本中の大名家から攻め込まれた薩摩藩江戸屋敷は、藩士達の必死の抵抗も虚しく早々に陥落した。


 戦力差が大き過ぎたし、諸藩の藩士が必死で戦ったのも大きかった。

 これが軍役だけで褒美のない戦いなら、藩士達も死傷しない事を最優先にした。


 諸藩の藩士達が必死になったのは、西之丸大奥に籠っていた家基が表にでて、莫大な手許金から褒美を出すと言ったのだ。


 札差事件で手に入れた四二二万両、その全てを手許金として自由に使える家基が褒美を出すと言ったのだから、借金で苦しむ藩も藩士も必死になって当然だった。


 家基は、一橋民部卿と島津薩摩守が深雪の子供を殺そうとしていると聞き、感情が爆発して、どのような手段を使ってでも二人を殺すと決意していた。

 そんな家基に、老獪な柳生播磨守が知恵をつけたのだ。


「勝手向きに苦しむ藩と藩士を利用されよ」


 家基は、信用できると判断した小姓組番士と書院番士に検分役を命じた。

 西之丸付きの両番は、試し切り事件で半数以上が処分されている。


 残っている者も新たに番入りした者も、長谷川平蔵達が信用できると推薦した者達なので、安心して使う事ができた。


 そんな番士に、報奨に使う大判と丁銀を渡して検分役に行かせた。

 これ見よがしに金銀を見せびらせながら検分せよと命じた。


 検分役が持つ大判と丁銀をみた諸藩の兵士は、必死になって戦った。

 薩摩藩士の首を争って同士討ちが始まる事まであった。


 首を求めて群がる諸藩の兵士を見た島津薩摩守は恐怖した。

 自分が多くの兵士に襲われ膾切りにされ、息のあるうちに首を刎ねられる想像をしてしまい、その場で失禁してしまった。


 恐怖に囚われて武士としての誇りを保てなくなった。

 薩摩藩主の矜持を無くして、みじめに命乞いをする始末だった。


「助けてくれ、助けてくれたら家老に取立てる!一万石、いや、二万石の家老に取立てる!だから命だけは助けてくれ!」


 褒美に飢え血に酔った諸藩の兵士も、流石に薩摩藩主をその場では殺せなかった。


「余は知らぬ、全て家老達が勝手にやった事だ!」


 最後まで主君を守ろうとして死んでいった藩士の死骸を指さして言う、性根の腐った島津薩摩守を見て、諸藩の兵士は蔑みに視線を向けた。


 だが、身勝手な島津薩摩守には痛くも痒くもなかった。

 自分の命さえ助かれば他の事などどうでもよかった。

 結局、一橋民部卿と島津薩摩守は生きたまま捕らえられた。

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