徳川家基、不本意!

克全

第1話:徳川家基

 大納言徳川家基十七歳、将軍徳川家治に残された只一人の子供。

 徳川家治には四人の子供がいたが、最初の子供、千代姫はわずか二歳で亡くなっている。


 次男の貞次郎も千代姫と同じく僅か二歳で亡くなっている。

 残った二人のうちの一人、次女の万寿姫は四年前に十二歳で亡くなっている。


 最後に残った家基は、次期将軍である事を除いても、家治将軍の掌中の珠であった。


 梅雨時期にしては珍しい晴天の朝、家基は馬術の練習をすると言って、西之丸を馬に乗って出て湯島亀有町代地にある馬場に向かった


 家基の前後左右を守るのは、お気に入りの小姓と西之丸の番士達。

 西之丸警備中の者を引き連れては行けないので、非番の者を選んでいた。


 ただ、それだけでは危険なので、外出警備当番に当たっていた小十人組が、家基を守る小姓や番士達の更に周囲を守っている。


 家基を殺す事ができれば、次期将軍の座は誰になるか分からない。

 最も危険な家基の左右は、長谷川平蔵宣以と柳生玄馬久通が盾となって守っている。


 三人は轡を並べながら、戦場でも届くように鍛えられた大声で話し合う。


「大納言様、今一度お考え直しいただけませんか?」


 家基の剣術指南役になったばかりの柳生玄馬が必死で止める。


「くどい!将軍になろうという者が、試し切り一つした事がなくてどうする。誰が何と言おうと試し切りをする」


「試し切りなど不浄でございます」


 生真面目で融通の利かない柳生玄馬が必死で止める。

 安永七年四月一五日に、剣術指南役のまま小十人組の頭になったばかりの柳生玄馬は、家基の無理難題と責任の重さと胃を痛めていた。


 柳生玄馬は柳生を名乗っているが、有名な柳生家とは血が繋がっていない。

 祖父である柳生播磨守久寿が、剣術の師匠である大和柳生藩五代藩主、柳生備前守俊方から、鬼神も斬り捨てるほどの腕を認められ、柳生を名乗る事を許されたのだ。


 それから柳生玄馬の祖父は、村田伊十郎の名を改め柳生久寿を名乗っているのだ。

 更に大和柳生藩主、柳生備前守俊方には跡を継ぐべき男子がいなかった。


 しかたなく養子を迎えたが、理想通りにはいかなかった。

 最初に養子に迎えた宗盈は、和泉岸和田藩三代藩主、岡部美濃守長泰の五男だったが、あまりにも出来が悪く廃嫡にするしかなかった。


 二番目に養子に迎えたのは因幡鹿奴藩初代藩主、池田壱岐守仲澄の五男矩美で、池田仲澄は徳川吉宗の従兄で、血筋的には申し分なかった。


 ところが、柳生俊方よりも先に十七歳で亡くなってしまった。

 三番目に、越後高田藩初代藩主、松平越中守定重の十一男俊平を養子に迎え、大和柳生藩六代藩主とした。


 大名家としては、跡継ぎは血筋を重んじるしかなかったのだ。

 だが、将軍家の指南役を血筋で選ぶわけにはいかなかった。


 柳生新陰流の名を穢すような者を、将軍家指南役にする訳にはいかなかった。

 だからこそ、柳生備前守俊方は、弟子の中で一番腕の立つ村田伊十郎に柳生を名乗らせた。


 柳生家は将軍家剣術指南役を失う事になったが、祖先の名を穢す事はなかった。

 可哀想なのは、将軍家指南役という重責を押し付けられた柳生久寿の子孫だ。


 柳生玄馬の長男久隆は、将軍家指南役になるための激しい稽古の影響か、三十四歳で亡くなっている。


 嫡孫の柳生玄馬は、物心つく前から祖父の柳生播磨守久寿から剣を叩き込まれた。

 その荒稽古は、柳生玄馬の腕をめきめきと伸ばしたが、同時に性格を四角四面で融通の利かないものにしてしまった。


 凡才が努力で天才に近づこうとしたのだからしかたがない。

 将軍家指南役として恥ずかしくない腕にはなったが、剣以外はろくに知らない人間になってしまった。


「武士など不浄であたりまえ、人殺しが上手い者が功を得るのだ。それに、余も何の罪もない生きた人間を斬ると言っているのではない。罪人の死体を切ると言っているだけだ」


「大納言様は将軍となられるのです。御自身の手で人を殺す必要はありません。そのような事は家臣がします。まして罪人の死体を斬るなど、高貴な身に相応しくありません」


 柳生玄馬はなおも必死で止めようとする。


「長谷川殿も大納言様を止めてくれ」


 柳生玄馬が、家基お気に入りの一人、長谷川平蔵宣以に協力を求めた。

 長谷川平蔵宣は、西之丸書院番で進物番を勤めている。


 背が高く男前でなければ、諸藩の進物を家基に差し出す儀式が貧層になる。

 だから進物番は、各番方で一番男振りが良い者が選ばれるのだ。


 長谷川平蔵の容姿は、それなりの人数がいる進物番の中でもずば抜けて良かった。

 ただ、長谷川平蔵が進物番に選ばれたのは容姿の良さからではないという。

 老中田沼意次に賄賂を届ける為だという、良くない噂があった。


 田沼意次の政策を批判している家基が、何故その走狗だと噂される長谷川平蔵を気に入り近くに置いているのか、柳生玄馬には分からなかった。


「柳生殿、そんな気にするような事ではない。大納言様も申されている通り、武士が試し切りの一つもできないでどうする。柳生殿も幼い頃から何度も試し切りをしているのではないのか?」


「私は大納言様に剣術をお教えする役目だから、人を斬っておく必要があると祖父に言われたから、しかたなくやっただけだ。だが大納言様にはそのような不浄な真似は不要だろう?」


「いや、いや、そうとばかりは言っていられないぞ。表ならそれがしや柳生殿が胡乱な者は斬って捨てるし、最悪盾になってお守りもする。だが、大奥では話が違ってくる。大納言様の御命を狙う者が、寝所で匕首や簪を振るったらどうする?」


「馬鹿な事を申すな。大納言様の寝所に侍る女が、身に寸鉄も帯びるものか!」


「分からんぞ、女には武器を隠すところが幾つもあるからな」


「平蔵、それは自身の体験から言っているのか?」


 話が下品な方向に行ったので、家基には話題を逸らしたい気持ちもあった。

 だがそれ以上に、殺されかけた平蔵がどうやって切り抜けたかが気になった。


 家基の父親、現将軍の徳川家治は、田沼意次に跡継ぎを作れと強く諫言されるまでは、正室である倫子女王一筋の堅物だった。


 その子供である家基も、色ごとに対しては堅物だった。

 だから女性に対する興味よりも、生死を分ける事件の方に興味があった。


「はい、お恥ずかしい事ながら、若気の至りで女に刺されそうになりました。大納言様は上様只一人の後継者でございます。何処の誰が将軍の座を欲して御命を狙うか分かりません。試し切りをなされるのは良い経験ではございますが、努々油断されませんように」


 長谷川平蔵が家基の試し切りを止めないのは、刺客に命を狙われた時に、一瞬でも返り討ちにするのを躊躇わないようにするためだった。


 長谷川平蔵から見て、家基はとても危険な状態だった。

 純真な家基は、将軍の座を狙う身内に殺される可能性を全く考えていない。


 だが、長谷川平蔵から見れば、田安も一橋も清水も家基を狙っているとしか思えなかった。


 僅か四〇〇石の旗本家を自分の子供に継がそうとした義母に、苛め抜かれた経験がある長谷川平蔵から見れば、危険極まりない状況だった。


 長谷川平蔵自身も、放蕩を止め幕臣としての出世を目指すようになり、家治将軍から絶対的な信任を得ている田沼意次に近づいた。


 平蔵にその気はないが、同じ様に出世を目指して田沼意次に近づいている者の中には、出世を餌に命じられたら、家基を殺しかねない連中がいた。


 そんな連中を抱えている田沼意次の政策を批判するなんて、危険極まりない事だった。


 家基の純粋さを気に入っている長谷川平蔵は、できる事なら家基にもっと慎重な言動をして欲しかったが、血気盛んな若者に何を言っても無理なのも知っていた。


 自分の若い頃の事を思いだせば、純粋なだけに、危険な言動をしてしまうと分かっていた。


 話している間に、家基一行は、半蔵門を出て甲州街道に向かう麹町通りを進んでいた。


 これは湯島亀有町代地にある馬場に向かうには少々可笑しい道の選び方だった。

 表向きは乗馬の鍛錬と届けている家基一行なら、違う道を選ぶべきだ。


 いくら大通りとはいえ、数多くの町民が行き交う麹町通りよりも、武士以外はほとんど使わない、定火消し屋敷と松平兵部太夫屋敷の間を通った方が安全なのだ。


 少なくとも、先ほどから諫言を繰り返す柳生玄馬なら、少しでも安全な道を選ぶ。

 先頭を小走りに進む小十人組の番士が、麹町三丁目の手前を左に曲がる。


 確かに、ここを曲がるのが湯島亀有町代地にある馬場への道だ。

 ところが、先頭の小十人組番士は、真直ぐ行けば良いのに山元町と平川町の道を右に曲がってしまった。


「大納言様、あのような不浄な屋敷に行かれるのは止めてください!」


 柳生玄馬がもう目の前に迫った屋敷に目を向けながら家基を止める。

 小十人組番士が先に進んで人通りを止めていた。


 先を進んでいた家基お気に入りの小姓と番士が、とある屋敷の前で待っている。

 長谷川平蔵がどのようにして、寝所で襲ってきた女から身を守ったのか聞きたかった家基だが、重ねて問う前に目的の屋敷に着いてしまった。

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徳川家基、不本意! 克全 @dokatu

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