式神は主様のことが好きすぎる！

第五章 式神契約

　朱音は眩しさに目を細めた。

　すでに夜は明け、外に足を踏み出すと眩しいほどの木漏れ日が射してくる。

「でも良かったな。親父さんも雛乃も命に別状はなくてさ」

　昇威は首の後ろで指を組んで、笑顔を見せながら鍛冶屋を出る。

　朱音もその後に続いて外に出るが、その表情に笑顔はない。

「二人が無事なのは良かったが、完全に回復するのには時間が掛かりそうだな。しばらく夜宵と六合は残って治療を続けてくれるみたいだ。私たちにも何か手伝えることがあれば良いのだが……残っていても邪魔にしかならないからな」

　朱音は声音を落として俯いた。その言葉に紅冥と昇威も深く頷く。

「でも思ったより柳二さんも元気そうでしたね」

「そうだな。あの親父さんが、俺に謝ってきた時はびっくりしたぜ。でもこれからは借金を返しながら野鍛冶として、雛乃を育てながら暮らしていくって言ってたし、もう大丈夫だろ」

　昇威は相変わらずの笑顔だが、朱音と紅冥は悄然とした様子で商店街の通りを俯いて歩いている。

　夜が明けて地獄ノ門は閉じ、異貌鬼を殲滅させた朱音たちは、その後も鍛冶屋に残って柳二と雛乃の回復を待っていた。霽月と四葩と籠目は朱音から事の経緯を聞き、一足先に式勠巫覡本部へ報告をするために帰っていった。

　夜宵と六合の治療術により、気絶していた二人は目を覚まし、元気そうな笑顔を見せていた。柳二はすっかり毒気を抜かれ、表情も穏やかで昇威を見ても敵意を向けることなく、今までのことを素直に謝罪した。雛乃も、何事もなかったように柳二にぴったりとくっついていた。

　異貌鬼の姿は、稀に見える人間も存在しているが、通常の人間では見えないこともあってか、柳二は自分自身の心の弱さが原因で邪悪な声が聞こえ、雛乃に暴力を奮ってしまったのだと思っているようだ。気絶していたこともあって、二人には霞みがかった記憶しかない。

　朱音は、今まで柳二や雛乃の様子に気がついてあげられなかった事を、目を覚ました二人に深々と頭を下げて謝罪した。

「何故、朱音ちゃんが謝るんだ。朱音ちゃんには感謝している。あの時俺に言ってくれただろう？　伝統を守り抜くのもいい。しかし、子供を巻き込むのは間違っている。……その通りだと思ったよ。俺は気づかされたんだ。本当に大切なものを」

　柳二は代々受け継がれた刀鍛冶の仕事を辞め、これからは野鍛治として、包丁や農具などを中心に手掛け、身近な存在として市民に寄り添うことを決意した。

「野鍛冶の仕事をしつつ、借金を返しながら雛乃を育てていくよ」

　柳二の顔は、晴れ晴れとしていて、愛おしそうな眼差しで雛乃の頭を撫でていた。

＊

「これからは少しずつ柳二さんも西洋文化を受け入れてもらえると良いですね。悪いことばかりではないはずです。新たな道を開いていけることだってきっとありますよ。伝統を継承してきた先人たちも、きっと同じように新しい文化や風習を受け入れて今の時代に繋いできているんですから」

　そう言って静かに微笑んている紅冥の横顔を、朱音は驚いたように目を丸くして見つめていた。

「どうかしましたか？　朱音様？」

　朱音の視線に気づいた紅冥は首を傾げる。

「……ただの変態だと思っていたが、良いことを……いや……まともなことも言えるんだなと思ってな」

　朱音は面映ゆげに咳払いをして、視線を反らした。

「私も新たな道を歩むべきなのだろうか……」

　躊躇するように絞り出した朱音の小さな声は、少しだけ震えている。

　紅冥は朱音の言葉を聞き、意を決したように拳を握りしめ、その場に立ち止まった。

　それに続いて朱音と昇威も足を止める。

「朱音様」

　紅冥は朱音の顔を真っ直ぐに見据えた。

　その瞳は、迷いを振り払ったような真剣さが滲み出ている。

「僕を朱音様の式神にしてください」

　紅冥の言葉に、朱音は目を瞬く。

「お願いします」

　紅冥の表情は真剣そのものだ。いつもならば紅冥の瞳を見ると左目が激痛に襲われる朱音だったが、今はそれがない。

　何故か左目は、じんわりとした温かさを帯びている。

「すまないが……それはできない」

　しかし、朱音は紅冥の視線から逃れるように、俯いた。

「お前、やっぱりまだ騰蛇のとこを気にしてるのか？　だから紅冥とも組む気がねぇんだろ？」

　昇威の口から『騰蛇』と言う言葉が飛び出した瞬間、朱音は肩を跳ね上がらせた。

　紅冥と昇威は、朱音の反応を待つように黙っている。

「私は……、その男が気にくわないだけだ。事情は分かったが、まだ完全に信用したわけではない」

　朱音は大きく首を左右に振った。

「いいや、違うな。お前は騰蛇以外を式神にしたくねぇんだよ。だからずっと次の式神契約も頑なに拒否してるんだろ？」

「そんなことはない。私はただ……」

　朱音は言い淀む。その深刻な表情に昇威も押し黙ってしまう。

「確か、騰蛇は十二天将の火の神でしたよね？　突然消滅してしまった理由は分かっているんですか？」

　その言葉に反応した朱音は、視線を紅冥に戻し、躊躇いの表情を浮かべながら口を開いた。

「突然に消滅。それは違う……」

　朱音の声が震える。

「私が騰蛇を……殺したんだ」

　身体までもが震え出し、朱音は絞り出すように言葉を続ける。

「正確には私の命令に背き、暴走して、異貌鬼の攻撃を受けて、戦闘中に消滅した。……しかし、私が殺したも同然だ」

　震えを止めようと朱音はきつく拳を握りしめたが、震えは一向に止まらない。

「鈴鳴家に代々受け継がれてきた騰蛇という式神は、私にとっては、神社を守るための道具にすぎなかった。……私が浅はかだったんだ。式神の存在は永遠で、痛みもない。心もないと思い込んでいた。力で支配し縛り付けた結果、戦闘中に騰蛇は私の命令を無視し、暴走して……止められず、無理をさせて、傷つけ、そして――」

　朱音の呼吸が荒くなった。ずっと自分の心の中だけに留めていた感情を、今はじめて声に出して吐き出す。

「私は怖いんだ。きっとまた同じことを繰り返して、式神を殺してしまう。式神にとって主の命令は絶対だ。拒否することも、抗う術もない。死んでしまった騰蛇も、きっと私のことをを恨んでいるだろう。……私に式神を操る資格はない」

　天を仰いだ朱音の右目からは、透明な雫が頬を伝い流れていく。

「何弱気なこと言ってんだよ！　騰蛇は昔からお前を信頼してたし、お前だって騰蛇を道具だなんて思っていなかったはずだ。ずっと近くで見ていた俺だから言える。朱音と騰蛇は……俺にとって憧れの存在だった。そこには強い絆だって存在してただろう？」

　昇威は朱音を叱咤するように、その小さな肩を掴んで揺らした。

「だったら何故、騰蛇は死んだんだ！　何故命令に背いた？　……私が騰蛇を大切にしていて、無茶をさせなければ、きっと騰蛇は消滅せずに済んだはずだ」

　朱音は声を荒げて、昇威の手を振り払った。

「違いますよ、朱音様。昇威さんの言っていた通り、式神と式神使いは強い絆で結ばれている。中には力で縛り使役する式神使いもいますが……朱音様は違う。少なくとも一年前に僕が救われた時に見ていた、騰蛇さんと朱音様は信頼し合っているように見えました。朱音様は人々を守るために異貌鬼と戦っていた。騰蛇さんもそれを十分に理解していたはず。戦闘で命令に背いて消滅してしまった場面を僕は見ていたわけではありませんが、なにか事情があったのかもしれません。少なくとも騰蛇さんは、朱音様と一緒に最後まで懸命に戦っていた。……それに式神をただの道具だと思っていたのなら、こんなに朱音様が騰蛇さんの事を思って悔やんだり、苦しんだりはしなかったでしょう？」

「そうだぜ。朱音は気づいてないかも知れないけど、騰蛇と朱音の口調ってそっくりなんだ。物心ついた頃から、お前は騰蛇とずっと一緒だったろ？　最後まで戦い抜いた自分の式神に誇りを持て！」

　紅冥と昇威の言葉を聞き、朱音の瞳から再び涙が溢れる。

「きっと朱音様は大事に想っていた式神が消えてしまって、つらかったんだと思います。それを、自分のせいにしてしまうほどに……」

　紅冥の言葉に、朱音はきつく拳を握りしめた。

「そうだとしても、私は私が許せない……」

「きっと騰蛇さんも、朱音様のことを主として誇りに思っているはずです。だからそんなに自分を責めないでください。それに、僕は朱音様がこうやって、打ち明けてくれて、言葉にしてくれたことが嬉しいです。もう、一人で抱えないでください。自分自身が許せないのなら、僕が朱音様を許します」

　紅冥は朱音を慰めるように、優しい笑顔を見せた。

「俺も、朱音を許すぜ」

　昇威は真っ直ぐに朱音を見据えている。

「……何を言っている。お前たちに許されても……どうにもならないことだ……だが」

　朱音は躊躇いがちに口を開く。

「……ありがとう。決して許されることではないが、少しだけ……気持ちが楽になった」

　朱音はぎこちなく笑う。

「今日はとりあえず、本部に戻りましょうか。朱音様もこんな状態ですし。……式神契約のことは、また後でゆっくり考えてください」

　そう言って紅冥はゆっくりと歩き出す。しかし、朱音が紅冥を引き留めるようにその腕を掴んだ。

「朱音様？」

「……今回の戦いで分かったことがある。やはり、私一人の力では限界があると。……お前の力を……借りたい」

　決意を固めたのか、朱音の手には力が入っている。

　朱音の言葉を聞いた紅冥は、驚いたように目を見開く。しかし、その表情にすぐに穏やかな笑みが宿った。

「私も朱音様の力になりたいです。あなたの式神となって、あなたのために戦いたい。あなたになら力で縛られたって構わないし、僕を道具のように扱っても僕は朱音様を責めません。どんなに傷つけられたって、僕は平気です」

　つらつらと並べた重すぎる紅冥の言葉を聞いて、朱音は苦笑いを浮かべる。

「だから、私はそれが嫌だと言っているんだ」

「いててっ」

　朱音は紅冥の頬を思いっきり引っ張った。

「紅冥。私の式神になるのなら、一つだけ条件がある」

「なんでしょうか？」

　引っ張られた頬を擦りながら紅冥は尋ねる。

「絶対に死ぬな」

　朱音の真剣な眼差しに、紅冥は目を見開いて力強く頷いた。

「はい。朱音様」

　紅冥は満面の笑みで、少しだけ震えている朱音の手をそっと取った。

　朱音は驚いて紅冥の顔を見る。

「大丈夫です。僕はそんな簡単には死んだりしません。それに――」

　生暖かい風に乗せて、桜の花びらが二人の視界に舞い込んだ。紅冥の髪をさらうその風は、朱音の方へと吹き抜けていく。

　漆黒の髪の隙間から見えた紅冥の真紅色の瞳は、優しい光を灯していた。

「朱音様を残して、絶対に死んだりはしません」

　手の震えがぴたりと止る。再び朱音の左目に、じんわりとした温かさが宿った。

　朱音は不思議な感覚に包まれた。左目に痛みがあるときは、紅冥を避けたいという感情があったのに、今はこの温かさにずっと包まれていたいと思う。

「信じていいのか……お前を」

　それはまるで共鳴し、惹かれ合っていく感覚だ。

「もちろんです。心に誓って、約束します」

　紅冥はその場に片膝をついて、朱音を見上げる。すると朱音は紅冥の目を見つめ、大きく頷いた。

　不安がないと言ったら嘘になる。けれど今は目の前にいる紅冥を信じてみたくなった。

《我が問いに答えよ。汝は我を主として認め、如何なる時も我に力を与え、我に仕えることを誓うか？》

　突然に強い風が巻き起こった。それは朱音と紅冥を包むように渦巻いている。

《御意》

　紅冥は朱音の手の甲に優しく口づけをした。すると紅冥の額に契約の術式が浮かび上がる。術式は紅冥の額の中に吸い込まれるように消えていった。

《今、新たな契約を持って、我は汝を式とする》

　朱音の言葉に周りを取り囲んでいた風が一瞬のうちに散っていく。

　朱音と紅冥は互いに見つめ合って大きく頷いた。

「これで、朱音も解雇されずにすむな」

　昇威は朱音と紅冥が契約を終えた様子を見て、ほっとしたように胸を撫で下ろしている。

「ふと疑問に思ったが、お前は浄化の能力は持っているのか？　十二天将は強い浄化の能力をもっている。他の神も十二天将ほど強くはないが浄化の能力がある。しかしお前は妖怪と人間の血が混ざっている式神だ」

　朱音の問いに、紅冥は張り付いた笑顔を見せる。

「もちろん、僕は半妖なので浄化の能力なんて持っていませんよ。僕も浄化されちゃいますからね。でも僕にはこの拳銃と、人より高い身体能力があるので心配しないでください」

　紅冥は拳銃を構えて勝ち誇ったような表情で答えるが、朱音はがっくりと肩を落とした。

「それもそうか。しかし、本当にお前は……頼りになるんだろうか」

　苦笑いを浮かべた朱音は、紅冥と式神契約したことをすぐに後悔した。

「そういえば、どうして昇威はここにいるんだ？」

　今更ながらの朱音の問いに、昇威はぽかんと口を開けた。

「それ、今聞くのか！？」

「そういえば、そうですね。昇威さん柳二さんに追い払われて帰ったはずじゃないんですか？」

「追い払われたって言い方なんだよ。俺が協力してやったの忘れたのかよ。着物だって俺が金払ってやったのに！」

　紅冥の心ない言葉に、昇威は憤慨して言葉を荒げた。そんな昇威の様子に紅冥は「冗談ですよ」と、からかうように笑う。

「お前らと別れたあと、異貌鬼に出くわして戦ってたんだよ。退治したあと、別の強い朽喰の気配がして、天后と引き返したんだ。気配を辿ってみたら鍛冶屋でさ、中から怒鳴り声は聴こえるし、驚いて駆けつけたら状況が状況で混乱したぜ」

　昇威はこれまでの経緯を、身振り手振りで大袈裟に声を上げながら説明している。

「じゃあ、私の父には何も説明していないと言うことだな？」

　朱音の言葉に昇威の動きが止まった。柳二の家に泊まることを朱音の父親に伝える約束をしていた昇威だったが、その約束をすっかり忘れてしまっていた。

「すまん、朱音。今回は状況が状況だけに許してくれ」

　昇威は手を合わせて、懸命に謝っている。

「……今回はお前がいてくれて本当に助かった。礼を言う」

　朱音は昇威の肩に優しく触れ、笑みを湛えた。その笑みに昇威の心臓が早鐘を打つ。こんなふうに突然素直になる朱音の笑みにとことん弱い。

「……あっ、あとこれ返しとくな。これのおかげでいろいろと助かったぜ」

　昇威は大事に持っていた水琴鈴を朱音に手渡した。

「そうか。役に立てたのならよかった」

　水琴鈴を受け取った朱音は、ほっとしたように胸を撫で下ろして顔を綻ばせている。

　その朱音の表情を見て照れくさそうに頬を掻く昇威だったが、隣で鋭い眼差しを飛ばしてくる紅冥の視線に気がつく。

　紅冥は昇威のことをじっと睨んでいる。

「朱音様は僕の主です。要らぬ感情を起こさないでいただけますか？」

「は!?　お前、朱音と契約したからって調子乗ってないか？」

　昇威は紅冥の言葉に頬を引きつらせている。

「当然です。これからは僕が式神として朱音さんを監視……じゃなくて、お守りするんですから！」

　紅冥は自身の胸をどんと叩いた。その光景を見ていた朱音は、少し引いたような冷たい視線を紅冥に送っている。

「式神なら式神らしく、使命を果たしたならとっとと消えやがれ！」

「うーん、残念ながら僕には人間の血も流れているので、普通の式神と違ってこのまま姿を維持できますし、ずっっっと朱音様のお側にいられるんですよ～」

　紅冥は自慢げに鼻を鳴らす。

　事実、天界から呼び出される十二天将、妖怪は異界から召喚されるとされており、紅冥の場合は人間と妖怪の血が混ざっていることから、どっちも属することが出来ず、人間界に留まっている状況のようだ。

「ずっと傍にいられるのは、さすがにごめんだな」

　朱音は紅冥に向かって小さく吐き捨てると、足早に先を歩いて行ってしまう。

「待ってください、朱音様！」

　紅冥は慌てて朱音の後を追いかけた。

「あと『朱音様』はやめてくれないか。朱音でいい」

　その言葉に紅冥の瞳が一瞬輝いたが、すぐに自分の立場を思い出し頭を振った。

「いえ、流石に主様を呼び捨てにはできません」

「そうか。……騰蛇は私のことを朱音と呼んでいたんだが――」

　朱音は脳裏に騰蛇の姿が浮かび、自分でも気づかないうちに小さく声に出していた。それを聞いていた紅冥は、その表情に少しの寂しさを滲ませたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「……まさか、私は今、声に出して言っていたか？」

　朱音は唇に手の甲を押し当てて、顔を真っ赤にしている。

「朱音様……。いつか、朱音様が僕のことを心の底から信頼できる存在だと認めてくださった時に『朱音』と……呼ぶことを許してください」

　紅冥は真剣な眼差しだが、急に恥ずかしくなったのか、その顔を突然両手で覆った。

「うぅ……。今、一度だけ呼び捨てにしただけでも心臓が爆発しそうです」

　紅冥は朱音に聞こえないほどの小さな声で呟く。

「でもっ！……今は、朱音様の式神になれたことが何よりも嬉しいです！　これから朱音様のために、この烏丸紅冥！　命懸けで頑張ります！」

　紅冥は朱音に向かって勢いよく敬礼をした。

　そんな紅冥の姿がなんだか可笑しくて、朱音は思わず吹き出してしまう。

「え、朱音様？　なにか可笑しかったですか？」

「いや、なんでもない」

　紅冥と式神契約をしたことを消えてしまった騰蛇はどう思うだろうか……。祝福してくれるだろうか、それとも――。

　朱音はそんなことを思いながらも、嬉しそうな表情で隣に並んで歩く紅冥の顔を見つめていた。

「なんだあいつら。契約したら途端に仲良さそうにしやがって……やれやれ、今日は疲れたし、本部に報告入れたら、すぐ家に帰って休むとするか」

　先を歩く朱音と紅冥の背中を眺めながら、昇威は立ち止まって大きく欠伸をしている。

「あ、そういえば俺が異貌鬼に襲われた時の話、あいつらに詳しく話せてなかったな。なんか変だったんだよな、あの地獄ノ門。その事も本部に報告入れとくか」

　地獄ノ門はその名の通り、地面から出現して開かれる門から異貌鬼が放たれるのが通常とされているが、昇威があの時に見た地獄ノ門は天から開かれ、牢獄に異貌鬼が閉じ込められていた。今まで経験したことがない恐怖に虚を衝かれてしまい、闇に呑まれてしまった昇威はあの異貌鬼に底知れない脅威を感じていた。

　再びあのような地獄ノ門が開かれるようになれば、今度こそ昇威一人では太刀打ち出来ない。

　昇威は地獄ノ門の中にいた異貌鬼の表情が鮮明に脳裏に張り付いて離れないでいた。

『朱音……』

　昇威が身震いをした瞬間だった。

　囁くような声が聞こえ、昇威は慎重に辺りを見渡す。

　しかし、声の主は見当たらない。

『その男を信じてはいけない』

　その声は昇威の頭の中に直接響いてくるようだった。

『その男はお前の――』

　そこで声は途切れてしまう。昇威は訝しげに思って眉根に皺を寄せた。

　前にもこの声を聞いたことがある。再びあの牢獄の異貌鬼の顔を思い出す。

　昇威は突然吐き気に襲われ、その場に両膝をついた。

　手で口を塞ぎ、嘔吐を防ごうとするが、咳と共に微量な嘔吐物が吐き出されて手に付着する。

　手には粘着質な赤黒い液体が付いていた。

『愛しい朱音……』

　再び声がした。

　だが、その声はもう昇威には届いていない。