第42話 瞑想する男

 疲れた目を指先でほぐしながら海を見ると、西の空が変わり始めている。

 疲れた脳を休めるように、孝志と交わした会話を振り返った。


「結婚して2年くらいかな、俺……元カノとばったりあって不倫しちゃったんですよ。理由は今考えても分かりません。なぜそんなことをしちゃったのか、もう何度も何度も考えましたが、本当にわからないんです。でもきっと天狗になってたんでしょうね。人に言えば褒めてもらえるような会社に入って、人が羨むような美人を嫁さんに貰って。同期の中では出世の話も早い方だったし。それで気付いたことがあります」


「それは何?」


「俺って『人からの目線基準』で生きてたんだなぁって。人の評価が自分の価値観になっていたのだと思います。そこに俺自身が子供の頃に描いていた夢なんて欠片もない。人に褒められたら『偉い』んだ。人が羨んだら『勝ち』なんだってね」


「でもそれって一般的な価値観っていうか、そういう人って多いんじゃない?」


「そうかもしれませんね。まあ、ガキの頃から競争社会の縮図のような暮らしを強いられますから、それも仕方がないのかもしれない。でも、裕子は……彼女は違っていたんです」


「価値観が?」


「価値観というか、求めるものがでしょうか。彼女は人に褒められようとか、人より上に行こうとか、そんな下らないフレームに囚われていなかった」


「彼女の望みは何だったのかな」


「わからない……わからないのです。情けないでしょ? だから想像するしかないのですが」


「なるほど。それで君は何だと思ったの?」


「たぶん、平凡な家庭だったんじゃないかなって……そう思いました」


「平凡な家庭か……それはまたやけにシンプルだね」


「そうですよね。何て言えばいいのかな……人様から見て『幸せな家庭』じゃなくて、家族全員が幸せだと感じられる状態っていうのかな。たぶん裕子は『自分の家族』が幸せなら、人に何て言われようと気にしなかったんじゃないかなって思うんです。だから俺を一生懸命に、もう本当に一生懸命に幸せにしようとしてくれていたんですよ」


「君のために尽くしていたわけだ。なのに君は彼女を裏切った?」


「そうです。傲慢だったんですよね、きっと。知らないうちに鼻持ちならない人間になっていたんだ。彼女の努力を当たり前だと思ったのかな……いや、もしかしたらそれ以前に、俺は裕子の何も見て無かったのかもしれません」


「……」


「しかも浮気の理由が思い当たらないんですよ? 魔が差したなんて言い訳も通用しないほど酷い裏切りです。酔った玲子の白い太ももを見た時、俺の脳裏には裕子の顔なんて浮かんでこなかった。要するに自分の意思で不貞を犯したということです。そこに理性なんて無かった。理性の無い人間なんてただのサルですよ、サル。ははは……」


「浮気相手は玲子さんっていうのか。お子さんはその人との?」

 

孝志が半泣きの顔で頷いた。


「君は裕子さんの何が不満だったの?」


 孝志が顔を徒然に向ける。


「無いんです。不満なんてこれっぽっちも無かったんです。だから余計に説明ができないんですよね……考えて考えて、そしていつも辿り着く答えが……」


「答えが?」


「いえ、答えじゃないです。答えじゃないんですが、敢えて言うなら『今』ですかね。正直に言って、かずとは俺が望んだ子じゃないです。でも息子は俺だけが頼りだった。俺が育てないとすぐ死んじゃうほど弱く脆い存在だった。俺が差し出した指先をね、ギュッと小さい手全部で掴んで離さない。生きたいって懸命にアピールしてくるんだ。この小さな手を振り解いたら、もう俺はサルじゃなくて鬼だ。何もかも中途半端で2人の女を不幸にしただけのつまらん男ですが、父親だけは……それだけはやり遂げます。それが俺にできる唯一ですよ」


 孝志の中に見た悲しみの塊。

 ふと窓を見るとカモメが1羽飛んでいる。

 微かに聞こえたその鳴き声が、孝志の嘆きのようだと思った。


「裕子さんも君だけが頼りだったんだよ? まあもう過去のことだ。そろそろ君も前に進め」


 裕子を苦しめた孝志を許すつもりなど毛の先ほどもないし、それは今も変わらない。

 しかし、もう道は分かれたんだ。

 男は左を、女は右を選び二度と交わることは無いだろう。

 子を背負って必死で歩いているこの男に、後ろから石を投げることなどすべきじゃない。

 その道は、望んだ道ではないだろうし、見たかった景色では無いだろう。

 しかしすでに賽は投げられたのだ。

 

 冷たくなったコーヒーを口にして、ふと美咲の顔を思い出す。


「それにしても唯一最大の望みが『平凡な家庭』とは。でもそれだけじゃないよ? 山﨑孝志、君は本当に何も見えてなかったんだね」


 この別荘に美咲を連れて来たのが間違いだったのかどうかは分からない。

 しかし、それが切っ掛けとなって隠していた自分の気持ちを吐露することができたのもまた事実。


「それにしても……」


 孝志の心情を知り、作家の本能が刺激されたことは否めない。

 そんな自分に嫌悪感を抱かずにはいられない徒然は、愛しい女に救いを求めた。


「困ったな……美咲に会いたい」


 徒然は少しでも早く東京に帰ろうと思った。

 戻ったら、何をおいても美咲を抱きしめ、その甘やかな頬に唇を寄せよう。

 そして美咲の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、この得体のしれない不安を払拭したい。


 パソコンに向かうと、思ったより長く瞑想していたのか、画面がスリープしていた。

 海を染める夕焼けのスクリーンがディスプレイに映し出されている。


「今度はどこに連れて行こうか? こんな夕日を見たら喜ぶだろうか。それとも温泉が良いかな……いっそ志乃さんも連れてハワイに行くのも良いな……」


 パスワードを入れて画面を立ち上げたが、徒然の心はまだ浮遊したままだ。

 原稿などそっちのけで、インターネットで『ハワイ挙式』を検索し始める徒然だった。

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