第14話 消えゆく女
過去ではなく将来の夢を一晩中語り合った翌朝、必要な作業に駆け回ったあと、昨日の蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べた。
本田の屋敷まで裕子を送った澄子が、半泣きの声を出す。
「じゃあね、裕子」
「うん……澄子、ありがとう。今まで……友達でいてくれて本当にありがとうね」
見送る裕子の背中を、ゆっくりと志乃が撫でている。
大きく頷いたあと、思い切るように澄子が背を向けた。
「本当に良いお友達ですね」
「ええ、本当に。彼女がいたから私はまだ生きているようなものです」
「お伝えすることは全部できましたの?」
「伝えるというか、お願いですね……はい、全部終わりました」
二人は肩を並べて玄関に入る。
台所に戻る志乃を追って、裕子が声を掛けた。
「志乃さん、私は何をすればよいのでしょうか。何もしないというのも気が引けてしまって。それに本田先生にも滞在のご挨拶をしたいのですが」
「徒然さんはお仕事に行きましたよ。当分は戻ってこないでしょう。何もしないのもお辛いですよねぇ……ではお言葉に甘えて外廊下を清めていただこうかしら」
「はい、やらせてください。ありがとうございます」
にっこりと笑った志乃が、バケツと雑巾を裕子に渡した。
「まずは水ぶきをしましょうか。昨日の座敷の外廊下をお願いできますか?」
「藤棚のところですね? 分かりました」
ホテルに置きっぱなしになっていた荷物の処分とチェックアウトは澄子が請け負った。
届いたまま開けてもいないアルバム類が詰まった段ボールも、そのまま廃棄業者に渡してもらうことになっている。
携帯電話と銀行口座を解約し、澄子が新たに作った口座に全額入金し、通帳と印鑑は志乃に預けた。
自動車免許は持っていないので、そこから素性が知れることはない。
今の裕子が持っているものは、ここに来た時に身につけていた衣類一式と使い慣れたハンドバックだけだ。
消えてなくなりたいとさえ思った自分という存在を証明するものが、片手でも余るほどになっている現実に、裕子は苦笑いをした。
「ホントに消えてなくなるくらいになったわね」
裕子の部屋として与えられたのは、徒然の執務室への渡り廊下の手前の部屋で、東向きに大きな窓がある洋室だった。
シンプルなベッドとライティングデスク、窓辺に置かれたカウチ。
ちょうどよい大きさのティーテーブルに飾られているのはムスカリの花だ。
「ムスカリの花言葉は、明るい未来……そうね。絶対に生きるって約束したもんね」
裕子は濃い紫の小さな花に指先で触れ、誰にともなく決意を口にした。
その日の夕方、裕子宛に届いた大きな段ボールには、動きやすそうな普段着や下着類がぎっしりと詰まっていた。
手紙も何も入っていないのは、本田か志乃の指示なのかもしれない。
「ありがとう、澄子」
最初の費用だけでも自分の預金から支払わせてほしいというと、志乃は笑いながら頷いた。
そのことだけでも肩の荷が下りたような気になれる。
「甘えられない性格なのよね。可愛げが無いってことだわ。だから孝志も……」
考えないようにしていても、捨て去ると決めた『過去』が、忘れさせるものかと裕子に追い縋る。
「焦ってはダメ。そう志乃さんも言ってたじゃない」
裕子は声に出して自分を励ました。
裕子は毎日、廊下を懸命に拭き上げる。
ただそれだけの毎日。
無垢材の木目が織りなす模様は、まるで人生のようだ。
一心に手を動かしているうちに、何も考えていない瞬間があることにふと気付く。
今のが『無心』というものだろうかと考えた瞬間にそれは消え、まるで宙に浮いているかのようなその感覚を、再び経験したいと切望してしまう。
しかし『そうありたい』と求めれば求めるほど、どんどん離れていくそれは、幼いころから追い求めた幸せというものに似ているのかもしれないと思った。
『無』を追及するという『欲』
その相反するものに向き合う日々に、裕子はのめり込んでいった。
「どう? 少しは落ち着いたみたい?」
一週間ぶりに戻ってきた本田が志乃に聞いた。
「予定より随分早いけれど順調ですよ」
「そうか、では今日から始めようか」
「そうですね、いい頃合いだと思います」
「うん、わかった」
久しぶりに顔を見せた本田に、穏やかな微笑みを浮かべた裕子。
その微笑みに小さく頷いて口を開く。
「きれいになったね。小さい頃から君はよくお母さんの手伝いをする良い子だった」
自分の幼少期を知っているはずのない本田の言葉に、裕子は戸惑った。
「あの……」
「ん? どうしたの? 久しぶりに会ったから忘れちゃった?」
「いえ、忘れてはいません。本田……徒然さんですよね?」
「そう、僕の名前を思い出したんだね。よかった。安心したよ。だったらその藤棚で一緒に遊んだことも思い出した?」
本田に誘導され藤棚を見た裕子は、そこから目を離さず言葉を発した。
「藤棚で? 私と徒然さんが一緒に? えっ……いえ……あの……」
ゆらゆらと揺れる藤の花房。
裕子の頭に藤の香りが雪崩れ込み、意識に霞がかかる。
「大丈夫。無理しないで。随分昔のことだから。それより傷はもういいの? 随分酷い怪我だったから心配したんだよ。強く頭を打ったって聞いたから」
「え? 傷って……ごめんなさい、良く分からないのですが」
裕子は本田が誰かと自分を間違えているのだろうと思ったが、そうだったかも知れないという思いもぬぐえないでいた。
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