第21話 秘められた閨房(けいぼう)

不貞ふてい女と……言われるのでしょうね。世間から、わたくしは」


 しょう(寝台)の上、乱れた夜着から半身をはだけさせた女は、自分の肩を抱いている男の胸に顔を深く押し当てる。


「またそんなことを言っておるのか。三年も前に死した男のことなど。誰がとがめる」


 男は、女の首後ろから廻した手で女の柔肩を摩りながら、鼻奥でわらいをたてた。


 邸奥の薄暗い閨房けいぼう(男女の寝屋)。外からはしとしとと、雨音が弱く届いてくる。


 男のなだめを受けても、女の眉は変わらず晴れない。


「ですが、あなた様とのことは、我が夫が歿ぼっ以前まえから……」

「そもそもあには、そなた達家族を瑯琊に置いてろくに見返らなかったのだ。自業自得というもの」


 女の言を制し話す男 ―― 諸葛玄は、自身にも納得させるが如くに言い切った。


 彼が腕に抱いている女は、三年前の泰山の乱で横死した兄、諸葛珪の妻、しょう氏。

 章氏は子玖とそのすぐ上の姉、諸葛珪次女の生母である。


 この関係、儒教の教えには甚だ反する行為であった。


 漢を、それまでより絶対的強固国とした天子・武帝が儒教を国教として以来、この国では儒教徳目のひとつ、〈てい(妻が夫に捧げる徳目)〉の解釈範囲が、明瞭に法定義された。


 血族間などはいうにあらず、義理の間柄であろうと、家族間での姦通かんつうは即、死罪に値する。

 特に女の再婚は、たとえ寡婦かふだろうと〈不貞〉とされているのだ。


 庶民間では、事実上そう厳しく尊守されなくなってきてはいる。それでも上層社会では、世間体もあり、そうはいかなかった。


 つまりこの二人の関係は、

 それ故、徹底的な秘事を貫いている。 


 諸葛珪のもう一人の妻であった宋氏は、長兄分である諸葛瑾が、江東に下る際に伴って行った。


「瑾は堅物な儒者じゅしゃだったからな。これ以上叔父のわしの負担にはなれないとでも考えたんだろう。まあ本人の気概としては、珪の家族全員を伴いたかったろうが」


 まだ地盤のない瑾にとって、さすがにそれは現実的でない。

 加え章氏も遠方の江東行きを拒んだため、瑾は章氏母子を荊州に残し、義母の宋氏ひとりを連れて旅立った。


 だが章氏が荊州に留まりたがった本当の理由は、実のところ、義弟とのこの関係にある。


 諸葛珪は、長期に渡り瑯琊の本宅を空けていたから、自身の妻と弟のこの不実に、気づいていたかどうかはわからない。


「夫は……本当は、気付いていたのではないでしょうか。だから任地に単身で赴いた」


 章氏には常に、己の大罪に対する呵責かしゃく意識が付きまとっている。そして夫の横死おうしにより、それは却ってより強いものとなってしまっていた。


「夫があのような死に方をし、我ら一家もこのような憂き目に遇うばかり……。これは何か邪気の仕業ではと、思えてなりませぬ」


 中央行政さえ、占卜せんぼくや天文により施行が為されている。人々は何よりも、目には見えぬ天や神々の力を畏れた。

 章氏が怯えているのも、自身のとがによる、死後までにも至る罰だ。


「邪気などであるものか」


 諸葛玄が、いらついた語気で返す。


「泰山に行ってから、兄は少しおかしくなったのだ。一人の奇妙な子なぞにとらわれおって」


 言に、腕中の白い肩が、ぴく、と反応した。

 『奇妙な子』。……この夏先に突如現れた、それまで存在をわずかに聞かされたことがあっただけの、夫の庶子しょし


 章氏は、この夏に初めてその者のかおを見たときに我知らず感じた、重い不快感を思い出す。


 『亮』と名乗った少年は、目を見張る美貌であった。


 しかしその容顔かんばせに、亡き夫の面差しは片鱗かけらも見られない。

 それどころか、河北人の特徴さえない、あのように冷めきった麗質の容姿など、章氏の知りうる限り、諸葛氏系列の誰にも思いあたらなかった。


 ……そしてそれは、妻たる自分から夫の心を解離した、正体もわからぬ女のちすじを連想させる。


「当然、あれから生きておるまいと思っておりましたのに。今頃になって」


 頭を起こした章氏は、本来は可憐な作りの容顔を荒い形相ぎょうそうに歪ませた。

 にじむ、女特有の深くくら妬心ししん


 雨音が強くなった。

 女の興奮をやすんじようと、諸葛玄は身を起こし、女の背に両腕を回し入れて抱きすくめる。

 男の胸板の下で、章氏はまだ、抑えのきかぬ不安をその唇に漂わせる。


が……の眼が、まだ何処からか睨んでいるような……」


 玄の、あしらう舌打ち。


「神経質だな。はもう、そとには出てこれぬようにしたと申したろう」

「でも……」


 女にそれ以上発言させぬよう、男は口で彼女の唇を塞いだ。慣れた手付きで、女のからだを開いていく。


 やがてその身に徐々にたぎり帯びる歓愉かんゆの熱に、章氏の憂懼ゆうくは埋もれ、溶けていった。


◇◇◇


「急に冷え込んだな、今日は」


 広元は気霜きじも(白い息)を手に吹きあて、合わせ擦る。


 今朝の空には、このところ続いた暖かさとはうって変わった寒雲が立ち込め、日中過ぎからつい先ほどまでは、氷雨ひさめが地を叩いていた。


 大陸でも比較的温暖といわれるこの地方は、夏の極端な多雨高湿に対し、冬は非常な乾燥期となる。こおり混じりとはいえ、降雨は久々だ。


 ―――― いくら温度差のゆるい地下でも、これは寒いよな。


 急激な低温。広元は地下の住人に気を揉む。

 暖をせめて自分と会っている間だけでもと、広元は冬用の暖衣を手に、夜半、地下を訪った。


 ……さてそれが、行ってみると。


 ―――― どこ吹く風、か。


 こちらの心配をよそに、これだけの寒冷にも相手は相変わらず、相手は容色ようしょくに、なんの変化も出していないではないか。


 ―――― 体感温度が、一般人とずいぶん違うらしい。


 この無表情さに慣れてきてはいるものの、胸中では若干、呆れ感もする。


 広元はいつものように牀台脇に牀几しょうぎ(簡易腰掛け)を寄せて坐し、牀台に片肘を立てて頬杖をつきながら、己に残された時間を思った。


 十一月も残り少なく、すぐに臘月ろうげつ(十二月)となる。

 歳末から正月にかけての家族祭事は極めて重要であり、息子である広元の留守は許されない。そのため今月中には、彼は宛を発たねばならなかった。


 ―――― 子玖は寂しがるだろうが……仕方ない。


 広元は、出発をためらっているわけではなかった。

 ただ、去る前にしようと考えているについて、このところ愁思しゅうしし続けているのだ。


 それは身をわきまえぬ無謀な考えなのか。それとも己こそが、すべきことなのか 。

 ……


 悶々と思惟しいしていると。


「なぜ、死んだ」


 掛けられた唐突な問いに、広元はおどろいて眼を上げる。


「……?」


 ここには二人しかいない。声主は目の前の珖明だ。

 今日は錫青を伴って来なかったから、その問いは、広元に向かってされているものになる。

 しかもそれは、ひと月余り前に初めて耳にして以来の、相手からの発声であった。

 

 目を瞬かせる広元の前の珖明は、そのひとことを発しただけでかおをこちらに向けてもおらず、感情の見えない面のままだ。


 ――――『死んだ』? 『なぜ』って……。


 何の話をしているのか。広元はその意を即には理解出来ずにいる。


 ―――― ?  誰のことを……あ!


 主語が何を指しているか、思い至る。


 ―――― ……楸瑛しゅうえい


 前回訪問の折に広元が口にした妹のことを、珖明は訊いているのだ。


「……」


 広元は目蓋まぶたを伏せる。

 ……封印してきた、いたみ。


 かなりの間を置いた後、広元はおもむろに口を開いた。他人に語るのは初めてだ。


「……自殺したんだ。昨年の一月初め。まだ、十五になったばかりだった」


 珖明の静かなひとみが、広元に注がれた。



<次回〜 第22話 「沫雪〈1〉」>

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