第2話・坂木はなぜ戻ってきたのか?

 前田徹・二十二歳、剛堂大学文学部二回生。山岳クラブが山林で見つけた若い男の遺体と前田徹の歯形が一致した。その他DNA鑑定でも遺体が前田徹であることが証明された。老人会山岳クラブの柳瀬辰二郎やなせたつじろうは下山中に仲間たちとはぐれ、ルート外の山林に入り込んだ。


 夜の山は気温が下がる。沢の音が聞こえる。水の流れは上から下。小川を見つければ、下山できると考えた。スマホの電波が通じていない。時間を無駄にできないと、意を決し沢を目指した。その途中で、登山ブーツの先端が感じたことのないモノにぶつかった。人の太ももだった。 若い男の遺体を発見。左後頭部が激しく陥没。周囲に血痕がない。一通りの状況について小田切は吉澤から報告を受けた。状況からして、別の場所で殺害されてこの山林に遺棄されたと、小田切は考えた。「小田切さん。これ、冴島奈央子の仕業でしょうか?指名手配すべきですよね」 新米刑事の吉澤はやる気に満ち溢れていた。「いやぁ、冴島は逃亡してるんだろ。こんなリスクわざわざ侵すかね」 小田切は刑事ロロンボにあこがれて、この仕事に就いた。働くことが彼のすべてであったが、子どものころからちょっとした“ひっかかり”があると、前に進めない。


 小田切の脳みその裏側でかさぶたのように引っかかっている五つの疑問。これらをクリアしていくことが、前田徹を殺害した犯人逮捕の近道だと考えていた。【疑問1・どうして坂木優斗はいつも見慣れない方のプリンを食べたのか?】【疑問2・坂木優斗はタイミングよく襲われている前田徹を救助できたのか?】【疑問3・そもそも冴島奈央子はなぜ前田徹を襲ったのか?】【疑問4・冴島奈央子は坂木優斗が買った覚えのない生クリームの焼きプリンを置いたのか?】【疑問5・冴島奈央子はなぜ前田徹に致命傷を与えなかったのか?】


 小田切は吉澤にこの五つの疑問をぶつけてみた。吉澤はこう見えても優秀だ。キャリア候補生でありながら、ノンキャリの道を進む。交番勤務から刑事へのルートなんて、考えられない。小田切からしたら、世捨て人だ。だがそういう人間こそ人間らしいし、信頼に足ると小田切は考えていた。「吉澤、お前ならこの五つの疑問をどう考える?」「そうですね、そもそも坂木優斗の家にどうして冴島奈央子が出入りできていたのかがポイントだと思います。坂木は何か隠していますよ。これ見てください、坂木のバイトのシフト表をコピーしてきました」


 吉澤は坂木優斗のバイトシフト表を小田切に見せた。バイトシフト表は今時なのに紙に印刷されていて、他のバイトたちのシフトも管理されていた。店長がアナログ人間だということらしい。 バイトシフト表の黄色のマーカー箇所、優斗が勤務していた日時にある共通点があった。


「これ、全部二十一時~朝の六時じゃないか」 小田切は食い入るようにシフト表を見た。「ええ、それもほぼ毎日ですよ。寝てないってことでしょ。それで朝の九時から授業ってキツイですよね」小田切は捜査資料として渡されていた、優斗の身辺調査の結果を眺めていた。


 坂木優斗・二十歳、剛堂大学理学部二回生。実家は富山。両親はラーメン店を経営と。経済状況は厳しく、仕送りも月五万程度。「まぁ、五万じゃぁ暮らせねぇな。バイトで生活維持しなくちゃならないのか」「でも、坂木優斗は理学部でしょ。二回生ならまだ専門分野の選択はしていないと思いますが、課題だらけですよ。こんなに深夜シフトで働いてちゃぁ、学業に穴をあけますよ。それこそ本末転倒。東京まで大学にいかせてもらっている意味がないですもの」 吉澤はまくし立てた。


 小田切は優斗の捜査資料ファイルをめくりながら、あることに気づいた。そもそもの疑問、小田切はあえて疑問0ベースと名付けた。捜査の前提条件ともなる疑問だったからだ。【疑問ベース・そもそも坂木優斗の家にどうして冴島奈央子が出入りできていたのか?】「坂木優斗の部屋に行くぞ」 小田切は吉澤の肩を軽く叩いた。吉澤は捜査資料をカバンに詰め込んで、小田切の後をついて行った。


 坂木優斗の部屋は事件当時のままだった。現在、坂木は大家の計らいで、空室に一時的に住まわせてもらっていた。マンションに建て替える前は、食堂もある学生寮だった。大家の奥さんが亡くなったことで、細やかな学生寮運営ができず、マンションに建て替えたのだった。


 小田切は坂木の部屋を眺めた。吉澤と同じことを感じていた。ある、違和感があった。「小田切さん、この部屋って」「そうだな、モノが少なすぎるな」「そうですよね、ミニマリスト?なんでしょうか?それとも坂木は貧しかったからでしょうか?」


 小田切はベッドのヘッドボード部分に、違和感の正体を見つけた。コンセントにスマートフォンの充電用コードが二本ささっている。コードの先のスマホに差し込む端子がそれぞれ違っていた。「坂木はスマホを持っているよな?」「ええ、押収はしていませんが一台持っていると報告があります」「じゃぁ、なんで充電用コードが二本あるんだ?しかも、先端ジャックが違うってことは、違う機種だぞ。アイツは苦学生だろ?」


 小田切の脳みその裏のつかえのようなものはベランダの分別用ごみ箱を見て確信に変わった。分別用ゴミ箱は、「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」「プラごみ」「ペットボトル」「缶」「びん」に分けられている。一人暮らしの割にマメだ。だが、ゴミ箱にはゴミの種別がわかるようにラベルが貼られている。「吉澤、こんなの一人暮らしでラベル貼るか?」「いいえ、自分ならどこに何を捨てるのかって覚えていますし」「こんなラベルを貼るのって、どんな時だ?」「そうですね、あ、僕、子どもの頃プラスチックの衣装ケースに母が“ながずぼん”とか“くつした”とかシールに書いて貼ってました。自分で着替えができるようにって」「つまり、誰かに伝えるためじゃないのか?」 小田切は疑問ゼロに対する大まかな概要がわかってきた。【疑問0ベース・そもそも坂木優斗の家にどうして冴島奈央子が出入りできていたのか?】


「これはルームシェアだ」「ルームシェア?」


小田切の見立てはこうだ。坂木が夜二十一時から明け方六時までの深夜バイトをする間、冴島奈央子に部屋を貸していた。実家からの仕送り五万円だけじゃ、生活できない。


「でも、毎日バイトしていたわけじゃないですし、バイトのない日はどうしてたんでしょう?」「それがこの話につながるんだよ。坂木が通っていた漫画喫茶。火曜日と木曜日に規則的に通っているな」


 小田切は吉澤の持っていた捜査資料に書かれている漫画喫茶を利用した日時について確認した」「確かに、そうですね。家の近くの漫画喫茶になんで泊ってるのか不思議だったんですよね」「契約だったからだな。この日はダメみたいなことはできなかった。それに、漫画喫茶の支払いよりも部屋を貸した方が身入りはいいんだろうな」 つまり、坂木優斗は冴島奈央子に夜二十一時から朝六時までは部屋を貸していた。もしかしたら、夜十九時ぐらいからだったかもしれない。坂木はバイトに行く日は夕方十八時に部屋を出て、バイトまでの三時間を食事と本屋の立ち読みで過ごしていたらしい。


 部屋は夜十九時から朝の七時、ちょうど十二時間貸していることになる。考えようによっては、どっちが家の主かわからない。家にいられる時間は坂木も冴島も同じだからだ。


【疑問ゼロ・そもそも坂木優斗の家にどうして冴島奈央子が出入りできていたのか?】【小田切の推理:坂木が主体となったルームシェア】 小田切は吉澤にあくまでも妄想と断ったうえで、ルームシェア説をもとに推理をすすめていった。


「吉澤、ここから、どの疑問が解ける?」【疑問1・どうして坂木優斗はいつも見慣れない方のプリンを食べたのか?】【疑問2・坂木優斗はタイミングよく襲われている前田徹を救助できたのか?】【疑問3・そもそも冴島奈央子はなぜ前田徹を襲ったのか?】【疑問4・冴島奈央子は坂木優斗が買った覚えのない生クリームの焼きプリンを置いたのか?】【疑問5・冴島奈央子はなぜ前田徹に致命傷を与えなかったのか?】


 吉澤は眼鏡の奥の目を細めた。小田切のメモは相変わらず読みにくい、と吉澤は解読に努めた。独特のクセ字。本人は達筆だと思っている。誰かが指摘しなければなおらない。だが、小田切に指摘できる人は、課長でも無理だ。小田切の一人娘だけだ。


「そうですね、この疑問2でしょうか」【疑問2・坂木優斗はタイミングよく襲われている前田徹を救助できたのか?】 小田切は吉澤の提案を受け入れた。「そうだな、俺もここが引っかかっていた。他の疑問の推理にもつながるかもな」


 坂木の部屋はマンションの四階だ。ワンルームタイプのマンションで全五階。全三十戸という小ぶりなタイプだった。坂木が働いていたコンビニまでは歩いて八分ほど。走って六分程度。大通りの信号待ちで時間が取られる。  前田が冴島に襲われたとされる時間は二十二時二分。隣の住人が叫び声を聞いている。ちょうど金曜の恋愛ドラマが始まったところだったらしい。坂木が救急車を呼んだのが二十二時五分。「坂木は本当にバイトの名札を取りに、自宅に帰ってきたんですかね?」「坂木の所持品見たか?」


 小田切はすでに何かアタリをつけている。「はい。学生証が入った財布。所持金七万二千五百二十八円。キャッシュカード、クレジットカードが入った名刺ホルダーのようなもの。保険証も入ってましたね。あと通帳と印鑑は、警察官二名が到着したときに坂木が手に持っていたようです」 吉澤は手帳のメモを見ながら答えた。答えながら、言葉にできそうでまだできない違和感を覚えた。「モヤモヤしないか?この、火事にでもあったのかってくらいの貴重品の持ち出し感」


 小田切はタバコのようなものを口にくわえた。「だめですよ、ここで吸っちゃ」「これはシナモンスティックだ」 シナモンの独特の香りが喉を抜けて、鼻から出ていく。小田切独特の思考スイッチオン方法だ。「あれだ、通帳と印鑑」「そうだ!通帳と印鑑ですね」 二人は同時にひらめいた。「どうして、坂木は通帳と印鑑を部屋に置いていたんだろうな」


 小田切の妄想が動きそうで、動き出さない。吉澤は周りを見渡した。 小田切は膝を右手でトントンと独特のリズムを刻む。心拍の裏打ちのようなリズム感。このリズムとシナモンスティックが妄想を加速させる。


 坂木が救急車を呼びマットレス下の通帳と印鑑を取り出したときに、警察官二名が来た。その通帳と印鑑は誰のものかという質問がされたと、捜査資料に残っている。「それって、坂木は通帳と印鑑を持ち出し忘れてアルバイトに行ったってことですよね」「そうだな、部屋を貸しているときは戻ってこれないはずなのに。男連れの冴島をコンビニで勤務しているときに見かけて、慌てて取りに帰ったんだろう。妄想だが。どう思う?」


 小田切はよく吉澤の意見を聞く。新米刑事の吉澤にとっては、小田切の昭和感の薄さに親しみやすさを感じていた。それと同時に、なんともいえない物足りなさを感じているようだった。 「坂木の持ち物を見ていると用心深い感じですよね。だから引っかかるんです、この日に限って持ち出し忘れたってのが」「そうだな、名札忘れてもコンビニに予備があるだろ。二重の言い訳を用意していたんじゃないかなと思うんだ」「どういうことですか?」「坂木は自宅に帰らなければならない。これを前提とすると、理由が必要だ。なぜ理由が必要か?警察からの取り調べを想定していたからだ。で、名札を取りに帰ったというだけでは、弱い。そこを突っ込まれることも想定して、通帳と印鑑を置いていった。わざと」


 小田切のシナモンスティックがギリギリと音を立てる。「それって、本当は通帳と印鑑を置いていたんで取りにって感じですか?」「あぁ、捜査次第ではこの不自然なルームシェアは明るみになるだろ。警察はそれ見つけたとなるよな」「ええ」 吉澤は小田切の話を聞き入っている。「だから、忘れた通帳と印鑑を取りに帰ったとすれば、ルームシェアという背景が相互に支えあう。不自然にバイト中に帰宅したことを肯定させるだろ」 小田切は妄想しきったと言わんばかりに得意げに吉澤を見た。


「ただ、わからんのは冴島奈央子だな」「ええ、護送されている途中で逃亡したっていうくらいですから冴島は。もしそれが事実ならどうして、ここで逃亡しなかったんでしょうか?」


 冴島が護送中に逃亡したというニュースはマスコミに公表されていない。銃を奪ったわけではない。徒手空拳だった冴島は、両側を固めていた警察官二名の顎を肘打ちで無力化した。最悪の不祥事とも糾弾されかねない、県警本部はまだ事実の確認中ということで公表していないのだろうと小田切は考えた。いつものやり口だ。都合の悪いことは隠蔽するに限るってことだ。


 冴島逃亡の詳細は小田切にはまだ伝わってきていない。捜査の最前線にいる自分たちに情報を完全に開示しないところが、警察組織の内側から疑心暗鬼を産むのだと常々感じていた。「冴島奈央子が護送される前に逃亡しなかった理由、むしろ護送中に逃亡した理由。これほどの格闘技術もありながら、わからんな」「そうですね、これは今考えてもわかりませんね。他の疑問を解いていけばわかるかもしれませんね」


 小田切は刑事ロロンボが好きだ。今でも休みの日はDVDで観ている。娘はまた~!と父親の偏愛固執ぶりに辟易としているが、妻はこれが唯一パパの息抜きだと、娘と息子に言い聞かせている。


 小田切はこの時のことをあとで大きく公開していた。ロロンボ好きなのに、この喉に引っかかった小骨のような疑問を棚上げしてしまったことを。冴島奈央子が護送中に逃亡したことの妄想を働かせていれば、想像力をもって捜査に挑んでいれば結末は変わっていたのかもしれないと。 小田切は坂木の部屋を出て、そのまま吉澤と一緒に剛堂大学へと向かった。


この時点でわかったこと。


【疑問0ベース・そもそも坂木優斗の家にどうして冴島奈央子が出入りできていたのか?】【小田切の推理:坂木が主体となったルームシェア】


【疑問二・坂木優斗はタイミングよく襲われている前田徹を救助できたのか?】【小田切の推理:坂木が持ち出し忘れた通帳と印鑑を取りに帰ったため】

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